トルクメニスタン・東部 戻る 
 1.計画コース概要
地域分類  中央アジア 区間番号  65〜69
国名  トルクメニスタン( TURKMENISTAN ) 実施時期  2004.11.12〜11.28
計画区間  アシガバット〜ウズベキスタン国境 歩行者  7名
  2.メンバー表
No 役割・分担
 氏  名
グループ 備  考
1 隊長  中村 文広  A  5期
2    石塚 正太郎  A  5期
3 記録  荒井 龍男  A  8期
4 会計  宇賀村充和  A  9期
5 ウズ会計  森  正昭  A  9期
6    安田 賢一  *  石塚友人
7    高平 仁雄  *  荒井友人
* 通訳/ガイド  Dmitriy Goryunov(デュマ)  *  トルクメニスタン/LATIF より手配 
* ドライバ  アナトリ−  *  トルクメニスタン/LATIF より手配
** 通訳/ガイド  イレーナ  *  ウズベキスタン/Grand Tourism Service より手配
** ドライバ   ライーム  *  ウズベキスタン/Grand Tourism Service より手配
  3.行き・帰り
出発日  出発  到着  便名
往路 04.11.12  成田 14:25   イスタンブール 19:55  TK051/トルコ航空
04.11.12  イスタンブール 21:00  アシガバット 03:45  TK1362/トルコ航空
復路 04.11.27  タシケント 07:15  イスタンブール 09:25  TK1369/トルコ航空
03.11.14  イスタンブール 18:00  成田 12:25  TK050/トルコ航空
  4.歩行の記録 荒井 龍男(8期)
滞在 年月日 出発〜到着 区間距離 天候 宿泊
04.11.13
(土)
 イスタンブール経由アシガバット空港着、入国審査のところには、LATIFからの連絡が入っていて入国となる。税関入口で社長夫人と合流、申告書を書かずに通過した。ホテルで仮眠の後、市内見学。夜はLATIF側が歓迎会を開いてくれた。日本との時差;-4h
 ***  
 Hotel “Turkmenistan”/Ashigabat
2 04.11.14
(日)
トルクメニスタンホテルから第1G出発、途中道を間違え苦労した。アシガバット先、78kmまで歩行。車で、全員ホテルへ戻り。
78 km
うす曇
微風
 Hotel “Turkmenistan”/Ashigabat
3 04.11.15
(月)
トルクメニスタンホテルから78kmポイントまで、車で移動し、第1G歩行開始。第3Gがテジェンの手前60kmまで歩行。途中キャラバンサライの遺跡多数。車のファンベルトが切れるトラブル発生。 78 km 朝方雨
後曇
 民宿/Tedzhen
4 04.11.16
(火)
民宿発、テジェンの手前・56km点から第1Gスタート、第3Gはテジェンを通過し、17kmまで歩行した。道端で多くの草刈り隊に出会った。 78 km  民宿/Tedzhen
5 04.11.17
(水)
荷物とともに移動。マーリ手前52kmまで歩行。 78 km   Kyaravan Hotel/Mary
6 04.11.18
(木)

メルブ観光。スルタン・サンジャール廟、エルクカラ、大キズ・カラなど観光。日干し煉瓦の遺跡が土に帰る様子を見て、感慨にふける。

休養日
/観光
快晴/
風が心地よい
  Kyaravan Hotel/Mary
7 04.11.19
(金)
雨の中を3Gで歩行、マーリの先26kmまで。 78 km   Kyaravan Hotel/Mary
8 04.11.20
(土)
歩行距離が計画より長いことがわかり、各Gの歩行距離を伸ばす。曇空のもと、3Gで歩く。マーリの先107kmまで歩行。出発時にラクダが放牧地に向かう光景に出会う。 81 km 曇/
11℃
  Kyaravan Hotel/Mary
9 04.11.21
(日)
土漠地帯を延々と歩く。ザクサウールの広がるステップは、人家が見当たらない。出会うのは故障した車を修理する人たちばかり。トルクメナバット手前51kmへ。 81 km 小雨  Hotel “Lebap”/Turkmenabatt
10 04.11.22
(月)

最後の区間が約90kmとなったことと、国境地区通過は全員でという制約から、午前4G、午後4Gの変則歩行とした。なお、トルクメナバット市内は路が複雑なため、車で通過とした。この日念願の国境前へ到着し、今回の歩行打上げとなった。

86km 快晴  Hotel “Lebap”/Turkmenabatt
11 04.11.23
(火)
トルクメニスタン税関で、入国時申告書を出していなかったことが判明。デュマが交渉し全員分を1枚で提出することでパスとなった。緩衝地帯は、はからずも歩いて通過できた。ウズベキ側にはいると、見目麗しき女性が出迎えてくれた。イレーナさんだった。迎えのミニバスでブハラのホテルへ。その後街の中を歩いて観光、ハマムで歩行の疲れを流すことが出来た。 ウズベキ入国
ブハラ観光
快晴  Private Hotel "Siyavush"/Bukhara
12 04.11.24
(水)
ブハラ観光。カラーン・モスク、ミルアラブ・メドレッセ、そしてカラーンミナレットに登る。アルク城を見学後、土産品もやっと購入できた。  観光  快晴  Private Hotel "Siyavush"/Bukhara
13 04.11.25
(木)
ブハラからヒバへ移動日。約500kmを8時間のドライブ、途中アムダリア川とその氾濫原を見た。夕方、ヒバの城壁に上る。 観光   Private Hotel "Malika"/Khiva
14
04.11.26
(金)
午前中、ヒバの城内を観光。午後ウルゲンチ空港発 15:40 タシケント着17:45 、別のミニバスをチャーター ガイド兼通訳も同行。市内で中華料理を食べる。  観光と
移動 
晴れ  Private Hotel "Malika"/Tashikent
  Uzbekistan
15
 04.11.27
  (土) 
早朝、迎えのミニバスで空港へ。ガイドのサポートでイスタンブ−ル行き07:15に搭乗。空港では所持金の申告をしたが、何事もなく通過。イスタンブールでは、2Gに別れ観光し、午後合流し豪華なシーフードの昼食に満足。 ***      晴れ 機内泊
16 04.11.28
  (日)
成田着 12:25、トルコからの帰りのツアー客が多く満席状態。       
     歩行距離 計 638 km    
 
アシガバット市内にて、後方はトルクメの馬の像
左から高平、荒井、アナトリ/運転手、中村、森、
   安田、石塚、宇賀村

 5.概要 中村 文広(5期)
 本年4月に歩いたカスピ海東岸からアシュガバットに至る西部地区を引き継ぎ、トルクメニスタンの残された東半分をウズベキスタン国境まで歩いた。 それは初めて本格的な砂漠地帯を歩く旅でもあった。 しかし、実際に歩いてみると、砂漠といっても低木が密生しているところや、まばらになるところのある、いわゆるステップ地帯だった。
 今回スタートのアシガバット近くは、1日ほどイラン国境との山並みに沿って歩いた。あとは、縦横に走る運河を縫いながら、ひたすら地平線の彼方を目指す歩行となった。
  今回の歩行でグルジアから中国国境までの中央アジアは我々の足で一本の線で結ばれたことになった。

 今回も前回同様、長期ビザの取得、宿泊場所の選定、手配、ガイド、運転手の選定、関係筋への根回しなど一切を地元旅行業者LATIF社にお願いした。実施時期は10月が独立記念式典等で好ましくないとの助言から11月にした。結果的には期間中ずっと穏やかな気象条件に恵まれ、ほとんど汗をかかずに歩けた日もあるくらいで、晴れの日は少なかったが快適な歩行ができた。

 参加人員は7名。この内初めて部外者が2名加わったが、違和感はすぐに消えた。計画段階では西部より若干長い620kmが見込まれていたので、一日1Km長い26Kmを各班2名の3班編成で78Km歩くことにした。
 しかし、マリまでで10Km、トルクメナバットから国境までが10Kmほど実際には長く、5日目以降一区間平均を27Kmに伸ばして歩いた。距離はガイドのGPSにより計測した。ナビは毎日交代で担当し、歩く組み合わせも全員が一度は組めるよう配慮した。
 通訳兼ガイドが前回と同じ人だったので、我々の歩き方に精通しており、ピックアップ等も待ち時間なくスムースに行われた。
 途中に宿泊に適した場所が無いことから、テジェンとマリに連泊した。出発地点まで最大で100km以上車で移動し、歩き出しが10時になることもあったが、特に大きな支障は無かった。ただ、この方式では自動車に全てを頼るのでその整備が肝要であった。


  LATIF主催の歓迎会


手を挙げるとトラックがライトを点灯し応える
 6.見聞録
 6.1ルートの状況  中村 文広(5期)
  トルクメニスタンの首都アシュガバットからウズベキスタン国境に通じる「陸路の大動脈」とも言うべき幹線道路(旧名M37)を4月に引続いて東に歩いた。
 道路事情は西部と同じ。都市部を除けば幹線道路とは名ばかり。 穴ぼこだらけの簡易舗装。センターラインもない。制限速度は90Km。そこを車が100Km以上の速さで狂ったように疾走する。
 路肩は平坦だが石ころだらけで歩きにくい。怖いが車道の左端を歩く。対向車より右肩をかすめて走り去る追い越し車が怖い。 石も飛んでくる。
 道端には裂けたタイヤや車の部品がそこかしこに散乱している。歩ける限りは道から外れ、安全なところ歩く。

 西部と違い都市部を離れても綿花畑や麦畑など農耕地が多い。道はほぼ平坦。カラクム砂漠に入ると波打ちゆるやかに上下動する。
 だが、砂漠を横断する地域に入ってもザクサウォール(ハンマダ)という潅木が茂る。期待していた大きな砂丘は見られなかった。残念!!
  キロポストは一日歩いても見当たらない地域もあった。距離はガイドのGPSが頼り。道も地名も距離も地図とは微妙に違う。

 トルクメナバット市内は迷路。東西トルクメニスタンで唯一、6Kmの歩行を断念。 トルクメニスタンからウズベキスタンに入る国境越えの約1Kmはすべての荷物の重さと、旅の終わりの感慨を胸に、万感の思いで一歩、一歩踏みしめて歩いた。

 議論のあったチャイハナは西部に比べると確かに多かった。それでも、都合よく昼食時間帯に出くわし、利用できたチームは幸せ者だった。
 無人の砂漠地帯以外では道路の草刈に動員された人達や農場などで働く人達と多くの出会や 交流があった。
 西部ではせいぜい牧童か道路工事をする人たちを見かけただけだった。

  麦畑が途切れるのに30分かかった


  草刈り隊の人たち
 6.2 自然環境 森 正昭(9期)
<カラクム砂漠のツアー>
  トルクメニスタンの国土の70%は、カラクム砂漠である。南部のイランやアフガニスタン国境側は、昔からオアシスが点在し、カラクム運河の水により農業が行われている。 砂漠と聞いて、私たちは砂丘が延々と広がっている様を想像していたが、実際には違った。 まず砂漠といっても砂ではなく土であった。それから低木が点々と生えていたり、場所によっては密生しているところもあった。 いわゆる雨が少ないステップ地帯である。

 我々のガイド、デュマは砂漠ツアーの専門家で、ツアーのベストシーズンは4月ごろ、日中の気温は25度を越え、砂漠は緑に覆われいろいろな花が美しく咲くという。 砂漠のツアーには、必ず2台以上の4WDで出かけるようにしており、ヨーロッパからの客が多いそうだ。日本からの客はまだなく、「是非おいでよ」。 気温が25度を超えると、砂漠では毒蛇や毒グモ、サソリなどが動き出し、危険になるという。 なお、この砂漠ツアーは、食事から寝具などの提供も含め、200ドル/日だそうだ。

<砂漠の植物>
 少雨に適した植物が、あるところでは密生し、一方まばらにしかないところもある。 その代表格は、”ザクサウール”で、カラクム砂漠やウズベキのキジルクム砂漠に広がっていた。 高さが3mにもなるが、そのくらいになるには100年かかるという。根は100mにも達するとのこと。
 筒状の葉がびっしりとついて房状になっており、塩基性の土壌を好むという。葉は霧を集め水滴を作る役もしていた。 年輪が出来るが、雨季との関係を示す。白色と緑色があり、後者はラクダが好んで食べ、両者とも良い燃料となるそうだ。 この木の根にスイカの種を植え付け、栽培する農法があるという。

 ラクダソウもステップをにぎわしている。針状のとげを持ち、この上に座ろうものなら跳びあがるほど痛い。 高さは50cmほどになる。ラクダしかこれを食べないようだ。秋には赤っぽい実をつけていた。

 トマリースは、どこかの国の女王の名前をもらったという由緒ある木で、道路沿いに多数連なっていた。 1〜2mほどの高さで赤い樹肌で、秋には落葉する。


  安田さんの後ろが、ザクサウール


  ラクダソウ、赤っぽいのが実
<砂漠の動物>
 家畜としては、ラクダ、ヤギ、羊が放牧されていた。子供たちがその番をしていることが多かったが、家畜と共に寝起きし移動している牧童たちもいた。 彼らの顔は垢でてらてらしており、1週間くらいの旅なのだろうか?  夜はラクダを砂漠に残し、朝になってオートバイでやってきて呼び集めている新スタイルの牧童にもであった。

 デュマの話では、砂漠の毒蛇は、危険なものがいるらしい。
体長2m、太さ5cmほどのギョルザークと呼ばれる毒蛇が向かってきたときは、ビビッたと話していた。 コブラもいるが、シューッという音を出すので、それを聞き逃さなければ避けられるとのことだった。エファーは指くらいの太さで体長40cmの毒蛇。パランガという毒グモは、体長5cmで黄色。スコーピオンや毒グモも含め、気温が25度以下になると地中にもぐってしまい、その間は安全だそうだ。 怖いもの見たさ、ギョルザークも見たいものだ。
 そのほか山間部では、狼やダチョウ、マダガスカルアリゲータなど、生息するという。

 歩いていて見かけた動物は、狐とスーロクと呼ばれるプレーリードックの一種、それからフクロウと鷲の類だった。 スロークは、ザックサウールの周りやその茂みの中など、いたるところにトンネルを掘っていた。穴が沢山あるのにほとんどその姿を見かけないのは冬眠に入ったからだろうか。


   霧の中から突然現れた羊飼い

   ひつじを追う少年牧童

   ラクダと牧童

   スロークの住まい・穴だらけ
  6.3人々の生活  森 正昭(9期)

 アシガバット市内は、今街作りの最中だった。建築中の建物や道路がいたるところにあり、立体交差の道路の先は、はてしない砂漠が広がっている。 道路は将来どこへ延びるのだろう。
 完成した区画には、美しい建物が並んでいたが、柱の細さや窓の多さなど地震国・日本の住人としては気になるところだった。市内案内のガイドの話では、建築中の建物は天然ガス省とか外務省といった政府機関がそれぞれ建てているという。
 巨大な噴水付きのデパートには人気がなく、開いている店も少ない。どの建築物にも大統領の写真や像があった。 一瞬、見たことはないが北朝鮮というのはこうなんだろうと思った。この街は歩いている人々が少なく、生活の匂いがしてこない。 外向けのショウウインドウのような感じで、数年先はどうなるのだろう。

 昼食のためにデパートの上のレストランに行った。 見晴らしがよく、イランとの国境の山が良く見えすばらしい場所だが、店員の女性たちには我々が初めての客のようだった。
 料理を注文したが、若いガイドは、「自分は昼はあまり食べない」とタバコを吸いに席を立った。石塚さんがしばらくして彼を連れてきたが、支払いを気にしてのことだった。 「我々が支払うから遠慮なく頼んでくれ」の言葉で、一緒に食事することとなった。我々もうっかりしていて、彼にかわいそうなことをした。

 若いガイドは結婚しており、月収が30$、大体平均的な収入だそうだ。電気とガス代はタダ、家賃が年間15$とのこと。レストランの支払いは、ガイドの分も入れて24$、飲み物代も入ってた。確かに、ガイドの給料では、3$の昼食はあまりに高いだろう。 このような場所で食事をしていては、人々の経済や生活状態が見えてこない。

 産業としては、石油、天然ガスが最近伸びているときいたが、大部分の国民は農業や牧畜に従事しているようだ。 農業における主要産物は、綿花と小麦である。 綿花は採集の時期に来ており、昨年ウズベキスタンで見たように女性たちがバスで来て、その作業に当たっていた。 彼女らが日当をどのくらいもらうのか、残念ながら聞くことが出来なかった。
 歩いている途中、かなりの人たちが動員され、道路の両側の草刈りをしていた。 草が伸びても誰も困る人はいないように思われるだけに、草刈りの理由が分からなかった。 面白いことに働いているのは女性ばかり、男どもは話しこんでいる姿が多かった。デュマの話では、彼らはボランティではなく、支払いを当然受けていると聞いた。
 我々が歩いていくと、男も女も好奇の目を向け手を振ってくる人たちもいた。 写真をとってもいいかと聞くと、恥ずかしそうなしぐさをする若い娘が初々しかった。撮影したデジカメの映像を見せると、それだけで嬉しがった。
 数少ない工場らしき建物は、歩いているときに見た、製糸工場と、ビール工場だった。

 歩行中に見た車は、ほとんどが中古車で、道端で故障し修理している人たちに何度もであった。 ベンツやBMW、日本車も走っているが、ぼろぼろのトラバントもヒイヒイ走っていた。
道端では、多数のボルト類やバーストしたタイヤの切れ端をよく見た。ボルトやナット類を落としていった車は、その後どうなるのか、他人事ながら気になった。
 デュマがトヨタの車を買うというので聞くと、 ドバイまで船で運ばれ、キャリアカーでサウジを通りイランを経由してトルクメに来るそうだ。 各国ではそれぞれキャリアカーが入れ替わるとのこと。そして購入金額は、3500$だそうだ。意外と安いのにビックリしたが、 どう見てもこの金額は、運送費程度のように思われる。

 結婚式の後のパレードにも何回か出会った。 友人たちが一緒に連なってドライブするのだが、接近しかなりの高速で走るので、歩くほうはかなりの恐怖だった。
 ウズベキスタンで聞いた話では、結婚式の金は男性の親が負担し、住まいに車、携帯電話を持つ男は人気という事だった。

お金や物価について
 1$=24000マナット(MT)、国内でのドルからMTへの交換が困難ということで、LATHFが800$を交換してくれた。 その量がすごかった。10000MT*100枚が1束になっており、それが約40$となるが、20束ほどになった。
 会計の宇賀村さんのスーツケースに入りきらず、私も5束ほどしばらく預かった。 会計係は金を持つため、いつもリックを背負うこととなった。
 我々の”豪華な夕食”は、9人で700,000〜1000,000MT程度だったから、3.5〜4$位、日本円で400〜500円の感覚だ。これで、輸入ビールを飲まなければ、もっと安くなる。
 歩いている途中で買ったほかほかのソムサは、5個で10000MTだったから、日本円で5円/個。主食となっている直径30cmのナンは、約10円だった。 このナンはほどほどに硬く美味く、歩行中の昼飯に1枚あれば、2人で十分な量となった。
バザールで売っているジャガイモは20円/kg、リンゴは50円/kg。

 私たちが安いと思っている夕食は、現地の人たちには大変高価な食事であり、彼らは1/10程度の金額しかかけてないのだろう。
 ちなみに、高級ウオッカやワインが2$、ロシアビールが3$くらい、輸入物は極端に高い。


新築ビルが点々と、でも人気が感じられない
        
 記念塔と大統領のキンピカ像


  輪ゴム1束が約40$


  立派なナン、これがなんと、約10円

  6.4 食べ物・酒・その他  宇賀村 充和、高平 仁雄

<食べ物:宇賀村 充和(9期)>
 宿泊のホテルはB&Bなので、朝食はホテルで済ませました。昼食は歩いている途中にチャイハナ(チャイ=お茶、ハナ=場所)という食堂があればそこに入りますが、不幸にしてない時は持参の食事で済ませました。
夕食は、デュマがその土地の最高級クラスのレストランに案内してくれました。大体は「外国人が食べられる所はここしかないよ」の注釈付でした。全体的には質より量のレベルであり、質にばらつきがあり、手をつけたくないものから、美 味しい物まで大分差がありました。

1.朝食
 ナン(直径25〜30cmの3cm厚のパン)が主食でジャム、バタ−付。 飲み物はチャイ(紅茶)、緑茶、 コーヒー(ネスカフェと言い粉末スティックやビン)からのチョイス。主菜はチーズにサラミ(常温保存性が良いためか?)が良く出てきました。時折、目玉焼きやサラダが出ました。 大方はこんなもので、場所によりクレープのような薄甘い物や果物が出ました。

2.昼食
 不幸にもチャイハナが見つからず、持参の食べ物を食べる時は敷物に座ります。
一番好評であったのはアルファー米で朝レストランでお湯を入れ、持参しました。 中でも五目飯が良いと皆が言っていました。
 おかゆになっているものも腹具合が良くない時はありがたく、石塚さんが持ってきてくれた美味しい梅干との取り合わせも良かったようです。バザールで買った小ぶりのキュウリに味噌をつけると、かなりいけました。
ちなみに、このキュウリは、15円/kgでした。
 朝食の残りを持参し、ジャムや蜂蜜をつけて食べる人もいました。結局、日本食は皆さん沢山残し、ガイドやドライバーにプレゼントしました。

 幸運にも「KAFE」と看板の出るチャイハナで食べられたピンの大当たりは、美人と音楽付きで好きなものが選べて食べたようです。
 彼は余りの嬉しさに2本もビールを飲んだそうで、いい年こいて興奮していました。 日本で寂しい思いをしている人に、神が恵みを与えてくれたのでしょうか。 はずれのキリはあばら家で、料理も一品しか出来ず、ナンとチャイで寂しく食べると言う変化に富んだ状態でした。 高いビールを飲まなければ2人で300円位です。



3.夕食
  その土地の最高レベルのレストランですから、室内は清潔で、ウエイトレスは愛想もよく日本に連れて来てもOKです。

 一品料理は
 シャシリク : 串にさした焼肉。 豚、鳥、牛、羊。
 マントウ  : 羊の肉を入れた饅頭
 ブロフ   : チャーハン<右写真>
 ラグマン  : ウドンが入った肉野菜スープ
 ショルパ  : 野菜スープ
 サモサ   : 羊の肉を入れ釜で焼いたパイ<右下写真>

 水ギョ−ザ : 小さな餃子が沢山入ったスープ
 魚のから揚げ : 魚をぶつ切りにし塩味のから揚げ
 マッシュホルダ: 野菜スープに酸味のヨーグルト入り
 ディンラマ  : 野菜の煮込み  
 その他、薄い肉を焼いたもの(焼肉)、等がありました。

 初めは各人が好きなものを注文していましたが、そのうち、3品位取り好きなのをシェアーするようになりました。同じ釜の飯を食べた仲間ですし、食べ物で喧嘩する年でもありません。

    マントウ

    ラグマン

4.アルコール
  ビール : ASIA以外の地ビールはまずい。ロシアのバルチカ7&9は普通。店では$2、ホテルだと$6。
        トルコのエフェスも普通だが高い。のどが渇くのと日本での習慣から、まずはビールとなる。  
        現地の値段でいえば、ビールは大変高級な飲み物なのだ。

  ウォッカ: 大統領の上半身の写真がついたのは最高級品とのことで飲みやすい。約$2と安い。
  コニャック:これも大統領の上半身写真付が最高級品。これも約$2
        大統領が味を保証しますといっているようなものだが,肖像権はどうなっているのかなあ?
  ワイン : 跡部さんは旨くないと言っていたので輸入を飲んだが、甘く旨くなかった。$2。
  バイザーン: 薬草入りのウォッカ(?)で癖はあるが身体に良さそう。

 
5.朝のお茶
 6時起床、7時朝食、8時出発が当初のスケジュールです。6時半位になると石塚さんがお湯が沸いたと声を掛けてくれます。
部屋に行くとコーヒー、昆布茶、日本茶と揃っており一時雑談して朝食を待つのが定例でした。彼は毎朝声をかけて、メンバーの健康や元気度に気を使ってくれているのでした。

6.食卓
 レストランはテーブルに椅子ですが、民宿や一部のチャイハナでは絨毯の上にビニールを敷いてテーブルになります。日本人は胡坐をかきますが、土地の人(ガイド&ドライバー)は直径30cmで50cm長さの枕状の物を脇の下に挟み横になって食べます。
これがトルクメ流のようで、所変わればです。でも日本人は食べ飲み終わると寝ますからいい勝負と言えますかね。

7.バザール
 市場で食料品から雑貨まで色々な品物が売られています。何処も活気があり、沢山の人で溢れています。また道にはハミやスイカが売られています。
 ハミはとても甘く美味しいです。店先に立っているとナイフで切り出し、試食させてくれます。
 重くて買えないとしぐさをすると、金が無いと思ったのか小さいのをくれようとして慌てました。重い。なお、バザールで売られている食料品以外の品物は、ほとんど中国製だとのことでした。

8.衛生問題
 水が悪く、土地の人もミネラルウォーターを飲む位で日本人は一ころで腹ピーです。 生のサラダは水で洗うのでなるべく避けた為、冷えた性で腹ピーの人がいましたがひどい状態にならなかったのは跡部さんのアドバイスのお陰です。
 コップに入れたら目立ちませんが、バスタブに入れ ると紅茶風呂状態だった所もありました。


民宿での夕食



バザールではスパイスが豊富

 
<9.食料の感想 高平 仁雄>
@.おいしかった !
 初めての中央アジア トルクメニスタン。 恥ずかしながら場所も国名も初耳でした。 従ってあらゆることが新鮮で予断はありませんでしたが、口にしたものはマル。 主食のナン、サラダ、スープ、麺類、それに炒飯などの米もの どれもおいしく頂戴。
 また牧畜が盛んな国のこと、羊、牛、はあらゆる料理のベース。 肉は堪能しました。 食えそうな四足君には らくだ、ロバ、馬もいましたが今回はその機会に恵まれず残念でした。

 野菜はその栽培を直接見ることがあまり無かった割に常に新鮮なものが出されたのは驚きでした。 トマト、きゅうり、にんじんはその色添えも美しく常に食卓にありました。 トマトは形を消して料理に溶け込んでいることも多かったですがスライスしたものはとろみのある甘いものが多く日本のものに変わらない感じでした。ナマモノは怖いなんて思わずに食べていたらもっと美味しかったことでしょう。
 砂漠の国にしては果物も豊富で、“国民果実“とも言えそうなメロン、スイカは道端でもバザールでも山にして売っていました。 柿、りんご、ぶどうなど果樹園もみかけましたが小粒ながらもそこそこのものでした。

A.お替りをしてしまった チャナヒ !
 歩行終了三日前、霧寒の中を第一組でなぜか30kmも頑張った日。たくさん歩いたご褒美?
経験豊かな石塚先輩にリードされ路上の楽しみチャイハナめぐり!その三軒目。
 看板も無く見過ごしてしまいそうな店。 でも先輩の嗅覚が“ナンバーワンシェフ“を引き当てたのでした。 頑固そうで、”俺がここの親父だ なんでも美味いぞ”という感じでしたが先輩がオーダーされたチャナヒがこれ絶品でした!
 今回の旅で間違いなく一等賞もの。ふがふがと一っぱいめを平らげて、そーっと2杯目を注文。 カウンターを背にして座っていたので親父の顔はわからなかったが”あたりまえよーうめーに決まってるさ“ という顔を していたことでしょう。
 暖めた黒いつぼの中には、牛肉の塊、ジャガイモ、にんじん、豆、などが、たまねぎ、トマトにあま唐辛子そして何やらのハーブを溶かし渾然一体のスープにぴったり溶け込んでおりました。
 こりゃー銀座でも通用するぞ てな感じ。お客も次々といってくるしココはきっとこの辺りでは“グルメの店”なのだと勝手に決めてしまいました。お代は石塚先輩におごっていただき大変ご馳走様でした!  
最高 !。






  7.人々との交流
   7.1 現地でお世話になった方々  中村 文広(5期)
 ガイド、ディメトリー・ゴルユーノフ(通称ディマ)。ロシア系。35歳。砂漠の案内人。年収が1万ドルと言うからトルクメでは高給取り。滞在中も奥さんに3500ドルで日産の7年ものの中古車をプレゼント。バツイチで先妻との子と2歳にならない娘がいる。ハンサムで女性にもてる。宿泊先でも時々消えた。
 プライドが高く、英国やフランスの大使を案内した時の話が良く出てくる。ガイドの仕事をするため半年の集中授業で英語を覚えたとか。責任感は強く、歩行チームのメンバーが見当たらないと昼飯抜きで探し続けた。
 押しも強く検問所で何を言われても動じない。反面自尊心が高く、距離など自説が正しいと譲らなかった。感情の起伏が激しい。最後に運転手を解雇してからは陽気になった。

 運転手、アナ・トリ(通称トリ)。正式な名前は聞いたが読めなかった。ロシア系。55歳。
年より若く見える。120Kgの巨体。8歳の娘がいる。車は前回と同じベンツのミニバン。が、年式も古く、整備ももう一つ。運転は慎重。無理はしない。
 英語は「No Problem」のみ。常に控え目だが、車中では一日中しゃべり続けるのでディマも閉口。関係が悪化する。チームがゴールするとイスを出し、愛想よくチャイやコニャックでもてなすので我々の人気は絶大。それがまたディマのご機嫌を損ねる。ディマが威張ると陰で愚痴をこぼす。国境を前にウズベキスタンのVISAを持っていないという理由で解雇された。
 それまでもLATIF社から運転手はどうかと再三聞かれた。問題ないよと言っておいたが・・・。ひとりひとりから「Good Driver」の署名をもらい、送別会のあと夜遅くアシュガバットに一人出発した。 交代の運転手はシャフヒットさん。彼の車の固い座席以外印象なし。

 LATIF社エージェント、イリヤス・ユミエール。マリ滞在。精錬された紳士。夕食に同席。教えた即席の日本語で自己紹介と歓迎の挨拶。英語とドイツ語を話す。
 今年の冬は日本語に本格的に挑戦し、ひらがなとカタカナを覚えるとか。日本の観光客を待望している様子。



 左からディマ、中村隊長、アナ・トリ


 中央がLATIFエージェントのコミエール
   7.2  現地で出会ったした人々 高平 仁雄
 不精ひげの日焼けした牧童、独りでラクダを追う子供、可愛らしい制服に身を包んだ学童たち、 金盥で洗濯をする女の子、チャイハナの店員、道端でメロンやスイカを売る男 、検問所の若い兵隊、 活気溢れるバザールの女たち、男世界の中で甲斐甲斐しく働く宿の女性たち、 得がたい体験をさせてくれたハマムのエネルギッシュな青年、値引き交渉にもめげない絨毯売りの男、 夕食を供してくれた金持ちの一家、砂漠で薪を集める姉と妹、シャシリクを焼く男 など多くの人々に出会いました。  その大半はお互いに言葉が通じない交わりでしたが ”交流できた”、”話が通じた”と思えるから不思議です。
 砂漠の中にもブラジリアを造るぞ という感じのぎらぎらした首都作りが進むアシュガバット、 国中が”トルクメンバシイー”で溢れる強権国家。  でも国は国、人は人。
シャイな中にも好奇心豊かな人々、それぞれの生活に満足している様子、そして 決して金持ちではないけれど静かで優しい時間が流れる国でした。
  8.健康・安全面の記録
   8−1.健康 森 正昭(9期)
<まめの話>
 私はこれまで歩行中の”まめ”に悩まされていた。大体2日目になると、左右の薬指と小指の間にまめが出来て、毎日その治療が日課となった。 真夏のハンガリー を歩いたとき、カザフやウズベキを歩いたときも、毎回まめに泣いた。
 履きなれた靴をしげしげ眺め、靴底のヘリ具合から、その原因は足が外側に傾いているためではないかと推定した。特に右のかかとの減りが大きく、体がそのようなバランスになっているらしい。
 そこで今回は、幅広の靴にして、中敷を入れクッションを良くするとともに、その外側にガムテープを貼って傾きの修正をした。 それと、靴下にも一工夫、指つき靴下を履き、その上にもう1枚薄手の靴下をはくこととした。 そして、この状態で、極力外出することにして、6ヶ月ほど足慣らしを続けた。
 さて、本番では前半の4日間は、まめの心配なし。後半の4日間で、右足のかかと側にまめができたが、指のほうはまめが出来かかったが、水泡に成長せずなんとかもった。 右かかとのまめは、水を抜いて、バンドエイドを貼って復旧した。
”まめ”については、個人差があり、きまった解決策はないように思われる。特に硬いアスハルトの路を長時間歩く場合は、自分の足と歩き方をよく考え、靴や靴下、中敷などの選定が必要と感じました。

   8−2.安全面(各種トラブル)  中村 文広(5期)
<ミニバスの故障>
 行動二日目の11月15日、8時にアシュガバットのホテルを出発した。予定通り78Km先で1班を降ろし、2班に続き、ちょうど10時に3班をテジェンまで約80Kmの地点で降ろした。この日は、ナビ車は何時ものように1,2班の歩行状況を確認するためすぐに引返すことはせず、今夜の宿泊地であるテジェンに宿と食事の確認に出かけた。この日のナビ担当は安田さんであったが、視察の間だけ中村と交代していた。

 テジェンまでほぼ10Kmの地点へ差し掛かった時、それまで快調に走っていた車が突如止まった。11時20分だった。ファンベルトが切れたためのオーバァーヒートが原因だった。勿論予備ベルトの持ち合わせは無く、適当と思われるトラックを何台か止めて交渉し、テジェンまで牽引してもらうことになった。牽引してくれたトラックも年代物であえぐように30分掛けてテジェンに着いた。(左写真;牽引中)

 幸い町の入口に修理工場が何軒かあった。そこに車と運転手を残し、すぐにガイドと私はまたそこからヒッチハイクして今日の宿に向かった。12時20分に戻ってみると、運転手は相変わらずベルトを捜し歩いていた。
 程なく何種類かのベルトを手にして戻ってくると、修理用の台座に乗った車の下にもぐりこんで交換を始めた。かなり固いようで何度も工具を変えて12時55分にやっと修理が終わった。やれやれと思う間もなく、昼食も取らずともかく皆の元に急いで引返した。3班と会ったのは13時55分、既に16Kmを歩いていた。事故で巡回が1時間ほどの遅れとなった。(右写真;ベルト交換中)

 今回、歩行計画に支障を来たさず済んだが、皆を降ろした後、比較的大きな都市に近いところで起こったことは不幸中の幸いだった。あと4,5日後、砂漠の中で起こったら大変だった。今回のベンツのミニバンは信頼性の高い車であるが、車高が低くベルトの交換は台座の助け無しには不可能と思われた。また、ベルトの入手も大きな街以外では難しいと思われた。
 中央アジア以東の歩行では車が生命線である。車の十分な事前点検とそれでも万一故障したときの対処も考慮しなければならないと痛感した。

<国境通過>
 トルクメニスタンの全行程を歩き終え、11月24日9時少し前、国境を越えウズベキスタンへ入国するためトルクメニスタンの国境検問所に入った。ガイドのデュマが係官に手際よく説得してくれたお陰で、書類の記入やパスポートの提示を求められたが、イミグレーション手続きはスムースに進んだ。
 次のカストムの段に来て、デュマが当惑した。我々がカスタムの書類を持っていなかったためだ。 本来、トルクメニスタンに入国する際、カメラ等の所持品を申請して確認をしてもらわなければならなかったが、我々はその手続きをしなかった。確かにアシュガバット空港でLATIF社から出迎え、入国手続きを助けてくれた社長夫人のヤーハンもそんなことを言っていたが、係官は何も言わず、何となく我々も通ってしまった。
 LATIF社のご威光を垣間見る思いだったが、その付けがここで出た。 一瞬どうしようかと戸惑ったデュマも事情が飲み込めると早速奥の部屋で交渉に入った。 結局、もう一度申請用紙に簡単に記入し、それを正式なものと認めてもらうという手法で無事カスタムも済み出国できた。
LATIF社とデュマの交渉力と身内なら何でもありの世界に驚いた次第である。

  9.ビザ関係・出入国 荒井 龍男(8期)

1.ウズベキスタンのビザ
 観光ビザが必要だが、東京のウズベキスタン大使館に申請して、1週間後に許可された。申請書、パスポート、写真1枚を提出、手数料は2000円 。
2.トルクメニスタンのビザ
 ビザの取得のための必要情報を、渉外担当・石原がLATIF社に送り、外務省筋に働きかけをしてもらった。 7人分を一括して出したが、森は1回、中村隊長は2回「No」となったそうだ。石原が、その理由について問合せしたが、「分からない」の回答。 中村のビザについては、出発直前になっても「ビザ発行についいては問題なし」というメール回答のみで、見切り出発となった。
  ビザ関係の費用
    Visa support: $40/人
    Entry travel passes: $20/人
    Registration in a police dep.: $5/人
なお、2005年には日本にトルクメニスタン大使館が開設されるようで、ビザ取得が楽になるだろう。
3.トルクメニスタン、ウズベキスタンの入出国
 入国時に、入国申告書を2枚記入する。所持金のところは、US$、ユーロ、日本円を正確に書いておいたほうが良い。
提出すると、1枚は税関がとり、もう1枚を返してくれる。そのとき、所持金の欄は、係官がまるで囲みサインしていた。後日の変更を防止するためだろう。
手持ちの1枚は出国時に税関に提出することとなる。

  10.費  用 宇賀村 充和(9期)
   10.1 一人当たり費用
    個人概算費用   ドル換算     内容
  渡航費 1390      ホンダトラベルへ152,740円、ウズベキ国内線利用分含む
  ウズベキ査証 18      ウズベキ大使館へ 2,000円
 インビテーションレター 65      Visa support/RATIF
  AIU保険 58      国内にてアイエスオーへ 6,350円
  トルクメ・ビザ料金 61      アシュガバット空港で支払い
  Imigration Card 10      アシュガバット空港で支払い
  AIU保険 32      国内にてアイエスオーへ4830円
  共通費 $752    
  トルクメ合計 $2386    
         
   ウズベキ 合計 $566    
   10.2 共同分担費まとめ
トルクメニスタン
 車チャータ代・20人乗り $40   11/12  空港→ホテル
 車チャータ代・20人乗り $200   11/12-13  アシガバット・2日間分
 ミニバス $1050   11/14-21  $150/日*9日間、宿泊費含む
 通訳料

$700

  11/14-23  $50/日*11、宿泊費・夕食代を含む
 現地ガイド料  $100   4日  サマルカンド、ブハラ
 TATHF経費 $460      
 食事代・昼食 $67      
 食事代・夕食 $307      
 食料・水・酒 $150     行動中の食料、酒
 ミニバス燃料代・謝礼 $66     燃料/$16、
 雑費 $285     キャビア/150、土産/55、電話/30、ロッカー/50
 宿泊 $1840   11/13-22 ツイン/$50、シングル/$40*10.5泊
 トルクメ 合計 $5265      
ウズベキスタン
 ホテル代・ツイン $600   11/23-26 $50*4日間*3室
 ホテル代・シングル $120   11/23-26 $30*4日間*1室
 ミニバス・移動費用 $90   11/22 タシケント→ブハラ/ブハラには20人乗りがないため
 ミニバス・20人乗りチャーター $300   11/23-26 $75*4日間、燃料代含まず
 ミニバス・20人乗りチャーター $25   11/26 タシケント空港→ホテル
 ミニバス・20人乗りチャーター $25   11/27 ホテル→タシケント空港
 運転手の宿泊代  $60   11/22-25 $15*4日間
 日本語ガイド兼通訳 支払い $200   11/23-26 $50*4日間
 日本語ガイド兼通訳・宿泊 $75   11/23-25 $15*3日間
 日本語ガイド兼通訳・航空運賃 $35   11/23 タシケント→ブハラ
 日本語ガイド兼通訳・航空運賃 $45   11/26 ウルゲンチ→タシケント
 ウズベキ 合計 $1575      
   10.3 宿泊費詳細
    場所・ホテル・泊数 宿泊費      内容/食事・人数  クラス
トルクメ  Ashigabat/Trkmenistan(2泊) $380    7人宿泊、T;3/$50、S;1/$40、朝食つき、市内で便利  ***
 Tejen/Uzbekistan/(2泊) $235    7人宿泊、T;3/$50、S;1/$40、朝食つき、民宿  *
 Mary/New Zarina/(4泊) $1120    7人宿泊、T;3/$50、S;1/$40、朝食つき、清潔  ***
 Trkumenabatt/Navoi(1泊) $100    7人宿泊、T;4/$25、朝食つき、ソ連時代の旧式ホテル  **
ウズベキ  Bukhara/Siyavush(2泊) $160    7人宿泊、T;2/$50、S;1/$30朝食つき、B&B式、清潔、新市街 ***
 Khiva/Malika(1泊) $80    7人宿泊、T;2/$50、S;1/$30朝食つき、B&B式、清潔、城の前 ***
 Tashikent/Malika(1泊) $80    7人宿泊、T;2/$50、S;1/$30朝食つき、B&B式、 ***
  11.記録写真・ビデオ・感想 
 
トルクメンバシイー万歳  高平 仁雄
外部からはじめて参加したわけですが7人のメンバーが65歳近辺の同じ年恰好の個性も経験も豊かな方々ばかりで、お蔭様ですっかり愉しい"男たちの時間"を過ごさせていただきました。ありがとうございました。
 ウォーキングの9日間は広大な砂漠を垣間見る初体験でした。 なにかにつけて "酷"の字がつくところなのでしょうが、今回はお蔭様で暑くも寒くもなく快適でした。
 わが国とほぼ同面積の広大なカラグム砂漠の旅。でも私にとっては地平線を追いかけて何処までもヘコタレズに真っ直ぐに伸びていく国道、 そのキロポストをおっかける"線の旅"でありました。羊やラクダの群れが悠然と行き交うなか  区間によっては車の数も多く、そのどれもが"俺だって速いんだぞ"とばかりに疾駆しているのです。
 トラック、バスはその大半がそして乗用車の多くも旧ソ連製のおんぼろ車が多いのにです!。 リッター当たり2円というガソリンの安さが国道をカーレース場にしているようでしたが。 もっともそれを助長しているのは、 その多くはなぜか平成5年式のマーク2が多かったですが、トヨタ車を中心とした輸入中古車の実力?なのかもしれません。
 我々の歩行する路肩にはバーストした切れ切れのタイヤ、千切れ飛んだファンベルト、螺子などのパーツ類、 外れ飛んだと思えるタイヤの数々、これらが決してオーバーではなく行く先々に切れ目なく延々と散っているのです。   そして日本ではめったに見かけないエンコ車両の多さ、そのような中を事故に遭うことも無く目的を達成できたことは将に"アラーの神のご加護"があったとしか思えません!。

ニヤゾフ氏は立派な大統領!
 近づきの印しにみなで持参したタバコ。これがなかなか貰って頂けなっかたのです。
禁煙ではなくもともと吸わない人が多いとのこと。聞いてみれば大統領が吸わないので…という答え。  お金を煙にしてしまわない、そして国民の健康を害させない !
 国を独立させ未来永劫に大統領の職務を全うする覚悟の方はやはり何処か違います。 トルクメンバシイー万歳です。



 今日の歩行お疲れ様


 大統領はいたるところで”人気者”
トルクメニスタン旅行記  安田 賢一 (この文はアルバトロスからの転載です)
 アシガバッド空港を降りて市内観光をしたらあまりにも町並みがきれいなのでびっくりしました。 また女性をみると美人ばかり、ここの男性は、さぞかし幸せものだと羨んで見ていました。 ただあまり人が歩いていないのと綺麗すぎる町並みで生活感が全く感じられない事が少しさびしかった。
 私としてはあまり親近感を持てない町でした。 下町で育った私としては、日本でも路地裏があり魚の焼くにおいのする町が好きなんです。 その後バザールに行ったら色々な品物があり生活感あふれた場所で人々が生き生きとしているのを見てほっとしました。 築地や秋葉原の活気に似たものを感じました。
また、私たちを見る人々がものめずらしく私たちを見ていくので気恥ずかしかった。

 翌日からはいよいよ石塚君と歩行を開始しました。いきなり道を間違えて遠回りしてしまいました。 警察官に聞いてもちんぷんかんぷんなので、しょうがなく歩いていたら、近くにチャイがあったのでそこで道を聞くことにしました。
 チャイに入ると店員さんやそこのお客さんがとても親切にしてくれました。 私たちは何も買わないのは気の毒だと思ったのでお茶を頼みました。すると注文していないのに暖かい菓子パンが出てきました。
 お金を支払おうとするとお金は要らないとの事。私たちは親切にして頂いた気持ちと言うことで渡そうとするが、どうしても受け取らない。 私たちの事を気の毒に感じていたのか、それとも旅人に関しては、おおらかな国民性なのか、近頃の日本では考えられない人情の厚さを感じました。 しばらく歩いていると凱旋門があり州境にきました。
 パスポートの提示を言いつけられて緊張しましたが、話をしているうちに、言葉も分からなかったのですが、打解けて最後には握手をして別れました。 さっきチャイで貰ったパンをかじったらとてもうまかった。回り道も良いもんだと満足しました。
 ふと足の裏を見るとまめが出来ていました。この先の長い旅路を考えると少し心配になりましたが、なんとか最後まで行けて良かったです。 (最後の日には左足に5個,右足に4個のまめが出来ていました。)
石塚君が、こんなに足が達者なのには驚きました。 歩いているうちに彼のカカトを見て歩いていると自分でもついていけるのが大発見でした。
 それ以降は常に誰かの後ろにいて前の人のカカトを見て歩くようにしました。 だんだん砂漠に入って行くと遙か彼方に地平線が見えて、疲れている事も忘れ感激しました。 一休みしてまた歩き出すと暫くの間つらかった。こんな事なら休まずに歩き続けた方が良かったかと思ったりしました。 少しくたびれてくると引き離されないように一生懸命ついていくだけで、周りの景色も目に入らなくなってきました。

 森さんと歩いているときは、行く先々で道端にいる人々に話しかけられて、楽しかった。 言葉は通じないのだが、気持ちは通じてくれていたようだ。 テジンでは軍の施設があって3人の兵隊に色々話を聞かれました。 言葉は通じないが、気持ちは通じてくれたようで、ここでも楽しい思いでになりました。最後は手を振って別れてくれました。
 マリの宿泊所はとても綺麗で料理もとてもおいしかったのですが、ハエの多さに驚きました。 ただあまりにも多かった為、それが当たり前の事となり、その後気にならなくなりました。 人間の順応性の高さに我ながら感心しました。だんだん皆さんと打解けてきたので、大好きなビールをどんどん頼んでしまい、 皆さんに迷惑をかけてしまいました。ビールが貴重品なんて日本では考えられません。
 替りとしてウォッカを頂いたのですが、強すぎて参りました。次回は中国ということで老酒は好きなので楽しみにしております。
 荒井さんと歩いている時ですが、起伏の激しい高地の一本道を歩いていると反対車線から 一台の車が止まり隣町のチャイまで送ってくれると親切に言ってくれました。
私一人で歩いていたら間違いなく乗せてもらっているところですが、荒井さんといる手前 泣く泣く断りました。

 また男性の歯が全部金歯なのにはびっくりしました。男性だけでなく若い女性まで金歯を入れているのにはさらにびっくりしました。 日本人の感覚では、歯を全部金歯にするなんてお獅子みたいでキザったらしいと思うのですが、こちらの国では骨格の違いのせいかあまり不自然な感じはしませんでした。 後で聞いた話ですが、こちらの国では金歯を入れる事は、一種のステータスのようです。
 美人がいっぱいいる国なので、生まれ変わったらこの国に生まれたいと思ったのですが、海が無いのは寂しいので、また来世も日本に生まれてきます。

 

  アシガバットの街並み


  レストランで今風の”歌姫”と


  駐屯地の前で兵隊たちと



 12.シルクロードの世界   (写真をクリックすると拡大されます)
 13.トルクメの人々   (写真をクリックすると拡大されます)
 
 14.むすび
<中村 文広>
  今回の個人的な目標は前回と同じ。体重を2Kg減らすことだった。が、帰宅後勇んで乗った体重計は逆に0.6Kg増えたことを示していた。 一時はバンドがひと孔後退したのに・・・。これが今回の遠征のすべてを物語る。
しかし、トラブルが全く無い訳ではなかった。行動2日目。 最後のメンバーを降ろして60Km先のテジェンの宿の下見に向かった車がテジェンの10Km手前でオーバーヒートし突然止った。 ファンベルトが切れたためだ。トラックを止めテジェンの修理工場までのろのろと牽引してもらう。 寸法の合うベルトを探すまで何軒も探し回る。結局、修理後昼飯抜きで車を飛ばし、メンバーの元に戻ったのは午後2時過ぎ。 それまで4時間以上連絡は一切取れなかった。それでも切れた場所が幸いした。 皆を降ろす前に切れたり、あと数日遅く砂漠の中で起こったことを考えるとぞっとした。 初めての事故だが、今後の計画立案への教訓として生かすべきであろう。
また、今回は条件に恵まれ特に問題はなかったが、厳しい条件が予想される中国ウイグル地区を歩くためには一段としっかりした事前準備と隊編成、リーダーシップが要求されるのではないかと感じた。
 
ウズベキスタン観光 森 正昭(9期)
 トルクメニスタン歩行の旅は、トルクメニスタンとウズベキスタン国境まで歩き完了した。 その後、国境を通過しウズベキスタン側に入り、ブハラとヒヴァの観光をした。 11/23の10時にウズベキ側に入ったところで、すばらしい美女が我々を待っていてくれた。 イレーナさん、日本語通訳兼ガイドで、タシケント国立東洋学大学の先生でした。
 ミニバスは、トヨタ製の快適な乗り心地の20人乗りで、運転手はライームさん。 ブハラに向かう道路は、トルクメニスタンと比べ格段によくなり、街に来たという実感が湧いてきた。 日本語が通じる気楽さも重なり一同、快適な数日を過ごした。 ブハラ・2泊、ヒヴァ・1泊、タシケント・1泊の日程で、観光の内容は、以下の写真集で想像してください。
ブハラ観光 (写真をクリックすると拡大されます)
ヒウァ観光 (写真をクリックすると拡大されます)