第20区間;ハンガリー・大平原の旅
                99.10.6 9期 森 正昭

8月8日(月)ダバシュ→ラダニーベネ
 ブタペストの秋山夫人に送られ、東駅から地下鉄と普通列車を乗り継ぎ、今回の出発点ダバシュに向かう。秋山さんのご主人は日本大使館の副領事で、彼らの自宅に2晩やっかいになった。秋山家は子供達も含めオープンマインドで外国暮らしがぴったりの家庭だが、来年の3月には任期が切れ帰国とのこと、とても残念である。
 ダバシュは駅長さん一人の小さな駅で、彼に出発の証明をもらう。写真を一緒に撮らしてくれと頼んだが、恥ずかしそうに手を振るのであきらめ、外でたむろしていた3人のおばさん達に一緒にとってもらった。さて出発、9:15。
 地図上では駅のすぐ近くを幹線道路が通っており、交通量が少なければここを歩こうと考えていた。しかし交差点に行ってみると、大型のトレーラーやトラックが続き、歩ける雰囲気はなく、地方道に回ることとした。歩き始めてすぐに野菜など売っているところで、桃を買う。中が黄色の桃だ。メンニベ ケルール?は、伝わるが数字が分からず書いてもらう。4個で80Ft(40円)。
家並みの続く中を行くが、カンカン照りで汗が噴き出し、たまらず傘をさす。この暑さに先が思いやられる。4kmほどで町を抜け、アカシヤや白樺、ポプラの混じった木立や原野の広がる中の道を進む。人家もなく時々通る車に注意するくらいで、ひたすら足を進める。「面白いところはなにもないよ」と聞いてはいたが、この単調さに気が滅入ってくる。人がいれば話もできるが、全く人影もない。熱気で揺らぐ舗装道路の先を見ながら歩数を数え、万歩計のチェックをする。前回の万歩計に比べると、今回のは信頼できるようだ。
 道ばたの木陰で、秋山夫人のつくってくれたおにぎりとみそ汁の昼飯にする。人家がほとんどないところだけに本当に助かった。疲れた体にはテルモスのお茶がうまい。テルモスを持ってきてよかった。
 4時過ぎ、ラダニーベネの村に入り、道ばたで散水栓を見つけ、頭から水をかぶる。人心地がついたが、どっと疲れもでて本日の活動終了、バスでケチケメートに向かう。
 ケチケメートは、コーダイの音楽学院で有名な町である。夜、食事に出たとき、「地球の歩き方」に出ていた「市庁舎の気味の悪い時報の鐘」を聞いた。ガランゴロンと不思議なメロディを奏でていた。寺院や博物館などに囲まれた広場では、家族連れや若者達がくつろぎ、ゆったりした美しい町だ。ホテル・UNO泊、8600Ft、本日の結果、25km、32516歩。


8月9日(火)ラダニーベネ→ケチケメート
 早朝、バスで昨日の到達点、ラダニーベネまで戻る。バス停の横の店に入り昼のパンを買い、ついでに「どらえもん」スタイルのお姉さんに、通過証明のサインをもらう。ハンガリーの女性は、若いうちはほっそりしている割に胸はゆさゆさしかっこいいのだが、30代になるにおよんで堂々たる太さとなる。ここでは太いほど美人なのかもしれない。
 8時出発。朝の涼しいうちにと、2時間で10kmを稼ぐ。途中ガチョウの飼育場を通ると、こちらを見ながらぞろぞろ歩く姿が面白かった。昼はパンとスープ・桃の食事とした。パンがなかなかのどを通らず、かなりばてたと感ずる。それに、ホテルで入れてもらった「Hot Water」がぬるくスープがうまくない。ハンガリー語で熱湯は何というのだろう。
 日が高くなってくると南東に向かう道は、日陰が全くなくなり、傘がないととても歩けない。 比叡山の千日回峰行の心境で、「It's a long way」を唱えながらひたすら足を進める。女房と来ていたら文句の言われ通しだったろう、一人で来て良かったと思う。
 昨日よりは車の通行も増え、時々激励の手が上がる。いつの間にか左足の小指付近が痛くなってきた。どうもまた、「マメ」ができたようだ。へろへろになってきたころ、コーラの看板を見て飛び込む。
 なによりも先ず、ビール、何人か並んでいるところに割り込んで、グラスをもらう。ハンガリーの「ドレーゲル」が強くなく私には飲みやすい。テラスに出て入れ墨の若者、どっしりしたおばさん、子供らの居るテーブルのとなりで、1杯目をぐーっと一息に飲む。うまい。更に井戸の水で頭を冷やし、体を拭いてほっと一息、それにしてもなんと鉄分臭の強い水だろう。大平原は川が無く、水は地下水に頼っているようだが、それにしてもひどい。ごくごく飲める我が家の水が恋しい。
 ハンガリー語の単語を並べて話しているうちに、入れ墨青年が英語を少し話せるという。コミニケーションが滑らかになり、通過証明にサインをお願いすることとした。ハンガリー語で書いてあると言うことで、10人ばかり集まってきてにぎやかになる。例のおばさんが盛んにビールを勧めてくれるので、ご馳走になる。彼女がこの店の主人であった。そして顔をつきだしてくるので、お礼のキスを返す。胸の出っ張りと太さで、手が後ろに届かない。ここで何回か記念撮影し、後日送る約束をする。
 市内まであと4kmで、元気も回復し歩き出す。みんな手を振って送ってくれる。やはり出会いがあってこそ、歩く旅は面白い。中心部にはいると野外市場が並んでおり、黒い西瓜を見つけ1/4を買う。冷えてはいないがミイラみたいになった体には、程良い甘さだった。15:45 ホテルUNO着、33445歩、歩行距離;28km


8月10日(水)ケチケメート→キシュケンフレチハザ
 朝起きると、外は黒雲がたれ込め雨も降り始めている。日蝕の日なのによりによって雨かとがっかりする。ホテルは予定通り7時に出発、雨の中を歩き始める。市街を抜け幹線道路に出る。今日と明日の2日間は、地方道が無くここを歩くしかない。道路脇を歩くが雨足が強い上、トラックの水しぶきがすごく、草で覆われた側道は水たまりになっている。30分ほど歩いたがこれではとても難しいと感じ、かろうじて雨がしのげるバス停でしばらく様子を見ることとした。雨はどうなるのか、戻るかバスで先に行くか迷いながらいるうちに、空が明るくなり始めた。
 1hの雨宿りの後、歩行開始。ところがこのプスタの土が難物であることに気がついた。一見乾いて硬そうに見えても、ずぶっともぐってしまい抜けなくなる。非常に粒子の細かい砂の土壌で、「地球の歩き方」ではアルカリ性土壌と書いてあった。太平原の植生は、この土壌で限定されているのだろう。日本の黒土と違い肥沃という感じはしない。
 上下1車線の道を対面通行となるように歩くが、追い越しをかける車が脇を抜けていき、後ろから轢かれる恐怖を時々味わう。目は前を見ながら、耳は後ろと緊張して歩く。
 11時頃になると空は晴れ上がり、日蝕もばっちりという状況となってくる。

ドライブインで多くの人が空を見上げているので、専用のめがねを貸してもらう。すでに右上から日蝕が始まっていた。見せてもらった小冊子によると皆既日食の見える地域は、イギリスのウエールズ東端から始まり、フランス、スイス、ハンガリー、トルコと約200kmの幅でやや斜めにヨーロッパを横切り移動していく。ケチケメート付近では12時50分となっていた。
 時々空を見上げながら、先へと進む。心なしか涼しくなり、車も少なくなってきたので、足の痛みをこらえ、せっせと歩く。このくらいの涼しさだと快適で、疲労感も全く違う。次第に空が青味を増し、夕暮れのようになっていく。畑の中の農家で鶏がないている。12時45分頃2組のオートバイ乗り達のところで立ち止まり、めがねを貸してもらう。太陽はすでに西瓜の皮程度になっていた。そして突然という感じで真っ暗になった。互いの顔は何とか見える程度で、たまに走ってくる車のライトがまぶしい。空には金星が見える。オートバイのカップルは、記念とばかりに抱き合ってキスをしている。空気もひんやりして肌寒い。時計を見ると12時52分、そして約2分後に右上が輝き、「ダイヤモンドリング」が出現した。
 キシュケンフレチハザの街には行る頃には、元の暑さに戻っていた。郵便局を見つけ、100$を交換。女性が大きなファイルでドルの写真と突き合わせ確認の上、22,450Ftをくれる。昨日のホテルで聞いておいた宿をやっと探し当て、シャワーとビールにありつく。15:20着。そして汗で汚れた衣類を洗濯し、絞って干しておく。こちらは空気が乾燥しているので、明日の朝までには乾いているのがありがたい。
 この街もこじんまりしているが落ち着いた美しい町だ。本屋で街の地図を探す。「テールケープ」が通じる。それから、バスセンターでキステレク方面のバスの時間を聞き、更に駅まで20分かけて列車の時間を調べに行く。駅でようやく、キステレクからブタペストまで急行があるのを確認、がんばれば明日のうちにブタペストまで戻れるだろう。ハンガリーでは時刻表が市販されていないようで、列車やバスの時間はいちいちしかるべきところに聞きに行かないと分からず、なんという不便さ!
 宿に戻り「地球の歩き方」を見て、明日のブタペストのホテル予約を行うが全てだめ。最後にユースホステル「ユニバーシタス」を確保、一安心。後で聞くとこの時期ブタペストはF1レースがあり、宿は満杯とのことだった。足は痛いし、全身かったるく手紙を1枚書くと眠くなった。明日も歩けるだろうか。この日の歩行距離26km、32041歩。


8月12日(木) キシュケンフレチハザ→キステレク
 早朝、朝食をとりに降りていくと、マダムが居たので、通過証明のサインをお願いする。ロンドンからイスタンブールまでを仲間で歩いている話などしているうちに、年を聞かれ、57才というとびっくりしていた。40才くらいに思っていたらしい。彼女は?と聞くと、40才だという。堂々たる貫禄から見て私には50才位に見えた。
 卵・ベーコン、サラダ、パンと飲み物の朝食をとる。そして、ウエーターの若者に途中レストランがないと困るので、残りのパンとサラダを持っていきたいとお願いする。相談に行ったようだったが、すぐに紙に包んで、持ってきてくれた。
 チェックアウトをお願いすると、娘さんが代わりにいたて「宿代は、私たちのおみやげです。旅をがんばってください」という。なんという大感激!「あなた方のプレゼントは、私にとって大変ヘルプフルである」などといったが、もっと気持ちのこもった言葉を直ぐに言えなかったのが残念であった。オージス・ペンションを6:50出発。
 


昨日購入した地図で線路沿いの道を見つけ、そこを歩くこととした。まっすぐの線路の脇を「線路は続くくよ、どこまでも!…」を歌いながら進む。周りは人家もなく遠くの信号機が唯一の目標
となっている。30分ほど歩くと列車がやってきた。手を振ると、運転手もびっくりしたような顔でこちらを見て手を挙げた。これが1時間歩いて唯一のイベントであった。この単調さと暑さの中を1日歩くという自信はなく、多少の危険はあるが道路沿いの方がまだ気が紛れると決心する。
 11時過ぎドライブインがあったので休憩、グヤッシュスープとパン、サラダの昼食をとり600Ft。
左足小指の豆をつぶし消毒する。あと、12q、藤田さん初めユーラシアを歩く会の面々の顔が浮かぶ。みんなの声援を背中に感じ、腰を上げる。しょうがねーー、歩くとするかーー。
 出来るだけ側道を避け、直ぐ脇の農道をたどるが、人ともほとんどで会わない。相変わらすの強い日差しのもとでは、傘が実にありがたい。まともに日差しを浴びては、とても歩けない。日中はハンガリーの人たちも屋内でじっとしているのだろうか。しばらく歩き、畑の広がる木陰で休憩、水筒の水で手ぬぐいを濡らし、火照った足を拭う。すーっと冷えてくるのが心地よい。思い出して、朝ホテルで包んでもらったパンとサラダ、チーズを食べる。サラダはかむとキシキシ音がする。プスタの細かい砂が残っていたようだ。そのままプスタの砂も味わうこととする。
 キステレクに近づくと、子供らが数人、ため池で水遊びをしている。久しぶりに見る水面であった。ハローと声をかけてくる。ようやく町の看板が見えてくる。町中に入った感じだが、鉄道の駅は幹線道路から2km離れており、道がはっきりしない。ちょうど、家の前で車に乗ろうとしている老夫婦に「ボーナット?」と聞く。盛んに説明してくれるが、かなり面倒なルートのようで分からない。とうとう乗れということで、送ってもらうこととする。車は町を抜け、はずれの古びた建物の前で止まった。感謝の気持ちを込めて、残っていた玉子スープを差し出す。
 駅にはいると、若い男女の警察官が居て、切符売り場を教えてくれる。ついでに記念撮影。さすがに拳銃と警棒を腰に差した婦人警官と肩を組む勇気はなかった。
 15:00駅着、この日の歩数;38793歩、30km。

 駅の待合室には若い娘が一人いて、両親のところにこれから帰るという。中学まではロシアにいてその後ハンガリーに来たという。熱湯はハンガリー語で「フォリョ」(forro)だった。ところがお前の発音は「はさみ」(ollo)に聞こえると許してくれなかった。口の形や舌を使った発音に慣れていない性だろう。収入の質問をしてきたので比較してみると、農業をしている父親の年収は日本の1/20、物価が1/4なので、実質1/5位の差があるようだ。ハンガリー語の簡単な辞書を間に、ブタペストの途中までハンガリー語のレッスンが続いた。
 ブタペストではユースホステル泊。大学の寮を夏休み期間中開放している。3200Ft/泊、アメリカ人の64才のユースと同宿。