トルクメニスタン・西部 戻る 
 1.計画コース概要
地域分類 中央アジア区間番号 61〜64
国名 トルクメニスタン( TURKMENISTAN )実施時期 2004.4.13〜4.22
計画区間 トルクメンバシ〜アシガバット歩行者 7名
  2.メンバー表
No役割・分担
 氏  名
グループ備  考
1隊長 跡部 輝彦 B 6期 (Bは15日間の日程)
2  諸岡 俊光 A 3期 (Aは帰路にトルコ観光し18日間の日程)
3  土屋 淳一 A 4期
4 会計  新井 清 B 5期
5渉外 中村 文広 A 5期
6  綾部 廸夫 A 7期
7 記録  荒井 龍男 B 8期
  3.行き・帰り 荒井(8期)
出発日出発到着便名
往路2004.4.11 成田 13:25  イスタンブール 19:55  TK051/トルコ航空
  イスタンブール 23:30 アシガバット 4/12 5:25 TK1364/トルコ航空
復路/B2004.4.24 イスタンブール 17:55 成田 11:25(4/25)  TK050/トルコ航空(アシガバット4:00/TK1363→イスタンブール6:15)
復路/A2004.4.27 イスタンブール 17:55 成田 11:25(4/28) TK050/トルコ航空(アシガバット4:00/TK1363→イスタンブール6:15)
  4.現地/アゼルバイジャヤンの活動 荒井(8期)
滞在日年月日出発〜到着区間距離天候宿泊
04.4.12
(月)
LATIF社のサメドフ社長、ガイド、運転手アルスランの各氏が迎えてくれた。
サメドフ氏は、全員のビザ期間が14日間であることをチェック。10日以上のビザ発行はここの空港だけのようだ。
トゥルクメニスタン・ホテルへチェック・イン、朝食後、LATIF社と打ち合わせ、費用の総額$5,780(1人当たり$826)を支払う。外国人登録をしてもらう。その後、アシュガバット市内観光。
両替は社長がヤミ市場でやってくれた模様 (1$=20,000マナツト、公式レートはこの1/4のようだ)。
買い物(スーパーで飲料水・アルコール、バザールへ)
歩行のガイド、ディミトリイDmitry氏を紹介される。
***  
 トゥルクメニスタン・ホテル
204.4.13
(火)
ホテル8:00→17:40 トゥルクメンバシ、途中、ギョクデペのモスク見学、ネビットダックのレストランで昼食
(この日の走行路が今回の歩行コースになる。車の距離計で566.3Km)
***快晴 トゥルクメンバシ・ホテル泊
304.4.14
(水)
ホテル発8:00、8:15歩行開始、1班 跡部・荒井 2班 新井・綾部 3班 諸岡・土屋  ナビ 中村
1班は午後標高差210mののばりがあった。全体的に追い風ではあったが風は強かった。18:00ホテル着
75km
トゥルクメンバシ先75Kmまで
快晴(気温14時で25℃) トゥルクメンバシ・ホテル泊
404.4.15
(木 )
ホテル8:00→9:00歩行開始、1班 諸岡・新井/2班 土屋・荒井/3班 跡部.綾部/ナビ 中村
気温が高くなり、やや強い向かい風に歩行は苦労する。
2班の後半は、太陽に向かっての歩きによる暑さと、ほとんどゆるいのぼり道でバテる。全体的に集落が少なく、住民との出会いが少なく、土漠の中の一本道を歩いた。
車の通行は少なく、10分間でのばりくだり共で10台以下の場合が多く、2〜3分間で1台の車も通らない時間帯もあった。
16:40 ネビットダックのホテル着
75km
ネビットダック先7Kmまで
快晴
気温13時で34.3℃
 ネビッチ・ホテル泊
504.4.16
(金)
ホテル発8:00→8:05歩行開始 1班 土屋・跡部 2班 諸岡(途中交代中村)・綾部  3班 新井・荒井 ナビ 中村(途中交代 諸岡)
朝は、早朝の小雨のためかやや寒い感じの中を歩く。横向きの風がある。全体的に、キロポストがなく、距離測定はガイドが持っているGPS利用のナビ装置によった。   16:00 ホテル着
75km
ネビットダック先82Kmまで
小雨〜くもり
気温12:30で24℃
 ネビッチ・ホテル泊
604.4.17
(土)
ホテル発7:66−8:55歩行開始、 1班 諸岡(交代中村)荒井  2班 新井・跡部  3班 土屋・綾部 ナビ 中村(交代諸岡)
10時頃から雨が降り出して、雨具をつける。以後歩行中は雨が降り続き、全パーティ雨の中を歩いた。気温が下がり、寒い1日だった。16:30 ジツイラバットの民宿着
この民宿は、1家族使用の1住戸を開放し、1棟の4圭を私たちとガイド・運転手 が寝室として専用し、居間兼食堂も使った。食事も家族の手作りであるがうまかった。
75km
ジツイラバット手前51Kmまで
くもり〜雨
気温 9時で13.6℃、13時で9℃
 ジツイラバットの民宿泊
704.4.18
(日)
10:00〜13:10/観光
車で30分のパラウ・ビビParaY Bibi村に行く。ここは、集落のはずれにチンギス・ハーン時代(12〜3世紀)の城砦跡がある。また低い山に向かってイスラム教の聖地になっていて、105m上ったところに小さなモスクがある。
今日は、日曜日のためか大勢の人が集まり、このモスクに上って祈った後、降りた場所で(広い茶屋風の建物がある)、大人も子供もお茶を飲んでいた。小さなバザールもあり、にぎわっていた。 隣は屠殺場で、私たちのために羊を一頭解体してみせてくれた。
夜、綾部さんの誕生祝をささやかに実施した。
観光くもり
気温12時13.4℃
 ジツイラバットの民宿泊
804.4.19
(月)
民宿発7:55→8:35歩行開始、1班 綾部・荒井 2班 諸岡・跡部 3班 土屋(交代中村)・新井  ナビ 中村(交代土屋)
風が強く、ほとんどが向かい風で、歩きに苦労した。集落は少なく、あっても国道から離れている。朝民宿に全員の洗濯を依頼して、帰ると手洗いで洗った洗濯物が満艦飾に干されて いた($20の支払い)。
75Km歩行
ジツイラバット先24Kmまで
快晴
12時で18℃
風強し
 ジツイラバットの民宿泊
904.4.20
(火)
民宿発7:45→8:00歩行開始、1班 諸岡・中村  2班 土屋・跡部  3班 新井・荒井  ナビ 綾部
昨日に続き、強い向かい風の天候で、逆に向かって(西方向に)歩くことにした。 実際風は昨日より少し弱いが、一日中吹いた。州境は1班が通過、パスポートのチ ェックがあった。
15:50バハルデンの民宿着。ここの民宿は、元じゆうたん工場だったとかで、だだっ広い居間・寝室だった。
食事は、そのオーナー家族が作ってくれた(味は昨日までの民宿よりうまくなかっ たが、十分食べられた)。ほとんどのメンバーが小さなじゆうたんを購入した($50/uの定価で、以下は各人の値引折衝による)
75km歩行
バハルデン手前27Kmまで
晴〜うすくもり
気温10:00/18.3℃ 13:00/25.7℃
強い風
 パハルデンの民宿泊
1004.4.21
(水)
民宿発7:40→8:05歩行開始、1班 中村・荒井  2班 土屋(交代諸岡)・綾部  3班 新井・跡部 、ナビ 諸岡(交代土屋)
1班は、途中片側2斜線に拡幅するエ事現場を歩く。バハルデン手前から道路工事は完了して、片側2斜線の道路になった。集落部分には、歩道もあって車の心配もなく歩けた。首都が近づいたためか、集落も多くあり、住民との出会いも多くなった。
ガソリンの単価は、1リットル400マナツト(2セント)で非常に安い。ガソリンスタンドは少ない(大きな集落ごと程度)。
15:45 アシュガバットのホテル着
75Km歩行
アシュガバット手前55Kmまで
くもり
気温12時で15℃
風なし
 トゥルクメニスタン・ホテル泊
1104.4.22
(木)
7:55ホテル発→8:15歩行開始、1班 諸岡・中村・綾部 1班 土屋・新井  3班 跡部.荒井、ナビ なし
歩行最終日で、残を3班で16+15+15Kmを歩く。首都が近いためか、近代的な住宅地が出てきた。歩行終了地は、駐車場の関係で、ホテルから500m西の小さな公園にした。
12:15 歩行完了。ここの公園のレストランで祝杯兼昼食。以後一部がホテルまで歩く。
13:30 ホテル着、午後バザールで、アルコールと土産を購入。
夜、ホテルのレストランで、サメドフ社長夫妻、ガイドのディミトリイ、運転手のアルスランの各氏を招待して食事をした。
46Km歩行
アシュガバット中心地まで
快晴
気温11:30で23℃
弱い風あり
 トゥルクメニスタン・ホテル泊
1204.4.23
(金)
予備日で、観光と休養にした。
9:00〜13:35 観光と昼食のち、じゆうたんの出国時免税用の品質証明書を発行してもらった。  
休養日 /観光  トゥルクメニスタン・ホテル泊
1304.4.24
(土)
ホテル発1:20→1:35空港(出国手続・チェックインなど1時間25分)
空港では、サメドフ社長らが見送ってくれた。彼が出国窓口まで入り、手続きを援助してくれて、スムースに出国できた。
空港発4:10(10分遅れ)/トルコ航空TK1363便、
5:55(20分早い)/イスタンブール着、トルコに入国し(手続き問題なし)、タクシーでグランドアンカ・ホテルにはいる。(ここに 諸岡・土屋・中村・綾部の4名が3連泊して観光予定)
9:30〜14:40 7名でイスタンブール観光と昼食
15:30 新井・跡部.荒井の3名は空港着(チェックイン、出国手続き)
18:05(10分遅れ)イスタンブール発/トルコ航空TK050便
観光 快晴〜晴 イスタンブール
 グランドアンカ・ホテル
14
04.4.25
(日)
10:50 成田着 跡部、荒井、新井の3名解散 *** *** *** 
15
 04.4.28
  (水) 
諸岡、土屋、中村、綾部の4名が、イスタンブール観光し、帰国
成田着11:25 
***  
   歩行距離 計571 km  
”トルクメニスタン西部歩行”のレポートが、本掲載内容とは別にOB会の定期刊行物”アルバトロス100号”に掲載されています。
 筆者;跡部 輝彦(6期) 
 5.概要 中村 文広(5期)
はじめに
今回念願のトゥルクメニスタン西部歩行に参加ですることができた。一度2001年に遠征隊が編成され、10月6日に出発する予定であったが、例の「9月11日同時爆破テロ」の影響で延期されていた。もっとも出発予定日だった10月6日に私は父を亡くしたので、そういうめぐり合わせだったのかもしれない。今回も会社の了解も取れて、勇んで参加を表明したが、昨年11月末に足を骨折し、参加が危ぶまれた。
 「ナビゲータでも良いから」との仲間の皆さんの温かい言葉に励まされ、まだ時々痛む足にサポーターを巻いての参加だった。しかし、初めの2,3日はじっとナビ車でおとなしくしていたが、隊員の元気に歩く姿を見て我慢できなかった。結局、最後の3日間はフルに歩行し、通算で98Km歩かせていただいた。
 中央アジアを自分の足で歩けた満足感とそれを許していただいた跡部リーダーや隊員の皆さんに感謝している。
<右の写真・バハルディンの宿にて >
隊員と運転手・ガイド、宿の主人
 私にとって今回の旅行のハイライトはカスピ海を見ることであった。はるか彼方から道の先に白く光る海面を見た時は感激した。しかし、近づいてみると海はかなり汚染され、藻が浮き、手を入れるのもはばかれるほどだった。ホテルの前の小さな船着場ではちょうどチョウザメの水揚げをしていた。既にキャピアを取った後だったが、車で乗りつけた背広姿のボスらしい男が写真を取るなと言った。跡部さんの話では密漁品だろうと言う。
 バザールでは大きなチョウザメのぶつ切りが売られていた。その強烈な異臭が鼻をつき、それ以降チョウザメを口にする気がなくなった。初日のホテルではあんなにうまいと感じたのに・・・。

  はるかにカスピ海を望む

  これがカスピ海だった
 インターネットで現地の天気予報を予め調べておいたが、活動中の十日間ほぼ予報通りであったのには驚いた。日本のように地形が複雑でないからかもしれない。それにしても予報通り4月17日に降った雨は激しく冷たかった。ゴアテックスを着ても寒いほどだった。雨の後は少し高い道路を除き、スッテップ一帯が完全に湖のように冠水した。

 ガイドのディマの使った呼び名は忘れたが、山に降った雨が平地に一気に流れ込む現象で、砂漠を歩く人が最も恐れていることだと言っていた。雨の翌日が休養日であったことは我々にとり幸いであった。

コースの高低差は殆どなく文字通り平坦だったが、かなりの強風が歩行を妨げた。16日は冷たい追い風で快調だった。前日の15日は逆風でおまけに熱風で、アスファルトの照り返しもあり温度は40度を越えていたようであった。  19日は前線通過後の猛烈な向かい風の中を歩いた。20日はコースを逆に歩き、追い風にするよう試みたが、風はずっと穏やかになっていた。晴れた日の太陽は強烈で手の甲まで覆わないと日焼けがひどかった。
そんな中で新井さんが一人照っても降っても半袖で通していた。意外なタフさに感心した。 たまに出てくる都市部を除き、歩行中人に出会うことはなかった。車が90kmを越す猛スピードで、ある時はクラクションを鳴らし、ある時は手を振って走り去って行った。
真っ直ぐ伸びる道の両側はカスピ海に近いほど荒涼としていて砂漠に近く、たまにらくだが放牧されていて、あるかなしかの草を食んでいた。あの大雨の中ではどうしていたのかと思った。
あちこちに青く氷が張ったように見える水溜りがあったが塩である。雨によって低地に塩が集められ蓄積されるようである。この塩をどうするか、灌漑とともにこの国の抱える問題である。これをどう解決したのか聞きそびれたが、アシュガバード近郊では大きな畑が広がり、米や野菜もそこから供給されるようである。その外側は菜の花畑のよう見える農地として開拓されている。  更にその周辺100Kmほどの地帯はかなりの数の羊を連れた牧童をそこかしこで見かけた。彼らが住まいからおんぼろバイクで羊のいるところまで出かけていくのをほほえましく見守った。麦に似た野草が歩いた道の両側にたくさん生えていたからこれは良いエサになるだろうと思った。

  土漠のなかをどこまでも続く道


  豪雨のときも歩いた

   鉄人・新井


  アシガバット付近の緑
 6.見聞録
 6.1ルートの状況  荒井 龍男(8期)
 @ スタート地点
2001年5月に歩いたアゼルバイジャン歩行の終点バクーから、カスピ海を渡っ て接続したとして受けたトゥルクメニスタンのカスピ海沿岸のトゥルクメンバシ/Turkmenbashyをスタート地点とした。 実際のスタート地は、フェリー港の上部にある国道M37から歩きだした。

A 前半のカース
カスピ海沿岸を離れると、標高差で210Mののぼりがある。以後のほとんどは、集落も少ない土漠の中の原野の道である。

B 中半のコース
相変わらず集落の少ない、変化のない原野の中の道である。

C 後半のコース
バハルデンBakharden手前になると、車道を片側2車線に拡幅するエ事現場を10Km進むと、道路は片側2車線工事が完了し部分(集落部分)には歩道もあった。
ギョクデペDokdepeをすぎると、首都アシュガバットAshgabatの郊外で、周辺に住宅地が出てきた。

D 終着地
首蔀アシュガバットに入り、駐車場の関係で中央部の小公園を終着地としたが、実際は私たちが泊まったトゥルクメニスタン・ホテルまで歩いたメンバーがいたので、   ここを今回の終着地とする。


前列左からガイドのディミトリ、LATIF社サメドフ社長夫妻、運転手アルスラン、
後列左から荒井、綾部、土屋、跡部、中村、新井、諸岡
 6.2 トルクメニスタンとは 中村 文広(5期)
「トゥルクメニスタン」と言っても、それがどこにあるか分かる人は稀である。歴史上に現れることも少なく、わずかに13世紀にチンギス・ハーンに攻略されて滅んだ「ホラズム朝」の一部であったことが知られているくらいである。20世紀の初めまで十いくつかの種族を単位とする遊牧民の地であったが、18世紀から始まったロシアの南下、拡大政策により20世紀初めまでにソ連邦に統合された。
 この体制が1991年にソ連から分離独立するまで約80年間続いた。そのためイスラム色が薄れているようである。現在は独立以来大統領職にあるニヤゾフ大統領が独裁的な権力を振るって国の基礎固めを行っているところである。いろいろなポーズをとった大統領の肖像画が役所やビルなどのあらゆる壁面に飾られているばかりでなく、黄金色に輝く大きな銅像をそこかしこで目にした。
 大統領の肖像がコニャックのラベルにもなっている。その徹底振りに驚いた。

  大蔵省正門の大統領肖像画

  独立記念公園と大統領の黄金像
 この国には莫大な天然ガス資源があり、これが国家財政を支えている。これを原資に電気、水道、ガスの他、教育費も無料とのこと。住居も無料で入居でき、税金の形で多少のお金を支払うだけだとガイドが話していた。外海に通じる港がないのがこの国の泣き所である。
 どの国にパイプラインを敷設し、どこに天然ガスを運ぶのか。今行われつつある政治交渉がこの国の運命を左右するものと思われる。この点、現在7歳から16歳までの義務教育期間中ずっと英語教育が行われていることはロシアとの関係を深めつつある中で興味深い事実である。

 国営TVはあるが面白くないので、各戸毎に2つ3つのパラボラアンテナを取り付け、ロシアの歌謡娯楽番組や英国BBC放送などを視聴している。どのアパートもたくさんの傘を広げて干しているような変わった景観を呈している。ふと、ベルリンの壁崩壊の素地ともなった国境を越える電波の運ぶ情報をこの国の人たちがどう受け止めているのかと思った。大統領の黄金像はさて置き、現在1億ドルをかけ建設している大統領の両親を祀るモスクについてどう思うのかは聞きそびれた。

  パイプラインを運ぶ車とラクダ

  アパートのパラボラアンテナ

 学校と言えば、教育に力を入れていることが伺えた。都会では生徒は日本の私立小学校のような制服を着てザックのようなカバンを背負い、イスラムの丸い帽子をかぶって通学して行く愛らしい姿を朝夕見かけた。しかし、地方で見かけた沿道のカフェーの店番をしている幼い兄妹や道端でりんごを売る少年や牛を追う子供らが学校に通っているのかどうか、識字率の97%という数字と合わせてどうかなと思った。
 もっとも荒井さんと歩いた時、牧童の少年が胸につけた我々の歩行目的を書いたものを読んでいたので、一応教育は受けているのかもしれない。ガイドの話では昔は子沢山だったが、今はここでも2,3人が普通とのことであった。


  通学の子供

  カフェの店番をする兄弟
人口はガイドの説明では約500万人、その一割が首都アシュガバードに住んでいるとのこと。アシュガバードは一部の地域を除いては生活の匂いのしない街である。「メッセのある幕張のビル街にモスクを立てたような感じ」とでも表現すべきか。「国威発揚のための広大な展示場」に見えた。整備された巾の広い道路が走り、街は建築ラッシュの最中である。
 財務省、国防省など大きな丸屋根のモスク風建物の他、10階以上はあろうかと思われるビルがそこかしこで建てられている。ただし、単に部屋単位のブロックを高く積み重ねていくだけで、日本の建築現場を見慣れた目から見ると耐震性に対する考慮が殆ど成されていないように見える。この国は1948年の大地震で壊滅的な被害を受けたが、その教訓が生かされていない。
 ひとたび大きな地震に見舞われたら、国家繁栄の象徴であるこの街並みも一瞬にして瓦礫の山となり、たくさんの人が亡くなるのではないかと危惧された。跡部さんの話では地震のないロシアの建築基準がそのまま適用されているのではないかとのこと。

 アシュガバードの初日と計画達成の翌日の二日間、地元のガイドの案内で市内の名所を回った。この国の状況からすれば当然のことだが、ゴールデンタワー、独立記念公園、国立博物館などいずれも民族意識を高揚するためのものだ。見たいと思っていた遺跡が地震で崩壊してしまったため、10ドルを払って入った博物館も後で訪れたトルコに比べると見るべきものは何もなかった。「BC3,000年のもの」と言った表記だけが意外に写った。偽りはないと思うが、民族のよりどころに歴史の古さを誇示しているようにも見えた。歩行初日に寄ったギョクテベの遺跡は1881年に攻め入ったロシアに最後まで抵抗した部族の砦の後にモスクを立たものだ。今4千万ドルをかけて聖地に改修中で、これの目的は同じである。

 我々が泊まったトゥルクメニスタンホテルは財務省、文部省に隣り合わせのオフィス街にあり、外観は4星ホテルに相応しいものだ。しかし内部はひどい。エレベーターは故障して使えず、部屋のドアのノブも引っ張ると抜けそうだった。前の道路は幹線なのか交通量が多く、夜11時ごろまでけたたましい騒音で閉口した。車検はここにもあるそうだが、車の台数以上に整備の悪さや古さが騒音と振動の元になっているのかも知れない。
 ガイド兼通訳のディマがある日「今日はスモッグがないから山がきれいに見える」と言っていた。車公害はこの国にもある。車の値段は安い中古車で2,000ドル。ちょっとしたものでは6,000ドルもするとのことで、平均月収100ドルの人たちがどうやって車を手に入れるのか不思議に思われた。運転手のアルスランは今回仕事に使ったベンツのミニバンを所有するほか、乗用車は黒塗りのBMWに乗っていた。


  アシュガバットの中心街


  ホテル前にあったLATIF社の看板
  6.3人々の生活   中村 文広(5期)
 自動車に関連して気のついた事は、一つには道路の横断には勘と運動神経が必要なこと。それにヒッチハイクである。この国の若い女性は、それをこの国が誇りにしているように、170cmを越すと思われる長身でスリムな美人が多い。足首まで覆う、赤、緑、青など色とりどりの体にぴったりのワンピースを着て街を颯爽と歩く。年配の婦人のように被り物はしない。彼女らは身を翻し車の間を縫って道を横切る。「日本は横断歩道に人が居たら車が止まる良い規則を持っていますね」とガイドが言っていたが、この国ではいっこうに頓着しない。
 郊外の幹線に限らず街中でもヒッチハイクをするたくさんの人を見かけた。無駄なくお互い助け合うのは良い習慣だと思う。「ヒッチハイクはこの国でも若い女性には危険」とガイドは言っていたが、ホテルの窓から見ると退社時にはたくさんの女性が車を止めて、行き先を告げ交渉し、車に乗り込んでいた。もっとも、トロリーバスを含めたバスが走っている他、タクシーも1kmあたり1000マナットと安く数も多い。病院の行き来などに庶民の足としても気軽に使われているのを目撃した。道は埃っぽいが清潔だった。毎朝道路を掃除する女性達をここかしこで見かけた。これも大統領の政策の一つなのだろうか。

 跡部さんは「トゥルクメニスタンはいい意味でのソ連色が残った数少ない国」というような意味のことをいっていた。しかし、この国の非効率さは日本の基準ではとても考えられない。まず出入国の手続きにそれぞれ1時間以上の時間を要した。一つ一つ手書きで同じような書類を何通も作成するほか、それをまた別の人がじっくり読み直して調べるといった調子である。買ったじゅうたんの輸出許可をもらいに行った時もそうだった。
 ホテルのフロントも官僚的では何を聞いても分からない。それでいてその他にその筋の人風の男が入り口で監視にあたり、二階には鍵を預かるのか何が役目なのか分からない、テレビばかり見ている年配の女性が座っている。主な交差点には両方向に各二人、早朝から深夜まで交通を取り締まる軍隊風の警察官が居り、時々車を止めて何か言っている。このお陰で治安が保たれている面もあると思う。要は人口の5%が軍人を言われるように、特に産業のないこの国では道路を清掃する婦人のように、政策的により多くの人に仕事を与える機会を作っている面もあるように思われた。

  6.4 食べ物・酒・その他  中村 文広(5期
 ジツライバットとバハルデンでは民宿とそれに近いところに宿泊できたので彼らの日常生活を垣間見、彼らと直接交流する良い機会となった。トイレやバスなどホテルに比較し若干不便な点はあったが、水洗トイレ、カラーTV, 冷蔵庫、ガスレンジ等を完備した日本で言うと昭和30〜40年代の生活レベルで、失礼ながら自分の予想を越えるものであった。
民家では主要な部屋にはエアコンが取り付けられていたが、電気洗濯機がないのはどうしてかと思った。
 毎日生活に使っている部屋を空けて使わせてくれた上、これが彼らの日常食なのか、ピラフ、万頭、きゅうりの酢の物等など日本人の口に合うものを多数用意してくれた。
朝食の目玉焼きの卵は隣国イラクから山を越えて持ってくると言っていた。米は日本のものに近い味だった。口に合わないものは殆どなかった。
野菜を含めどれも量が多く一人分を二人で分けて十分なほどだったが、これも彼らの好意の表れかもしれないと感謝している。ただ、彼らは野菜にはドレッシングを使わない。生で食べる。マヨネーズでも持っていけばよかったと思った。

  民宿の人々

  ある日の夕食
  9.ビザ関係・出入国 

  10.費  用 
   10.1 一人当たり費用
  個人概算費用  ドル換算   内容
  渡航費138000円    航空券のみ
  旅行障害保険4500円    
  ビザ・空港税96$    
  合計153060円 
  共同分担費121000円  宿泊費、ガイド・車チャータ費、食費など
   10.2 共同分担費まとめ  新井 清(5期)
 項目金額 
内容
 
LATIFへの支払ビザサポート210 
(@30*7)
 
エントリーパス70
 
(@10*7)
 
警察登録
35
 
(@5*7)
 
通訳・ガイド料
600
 
(@50*12日)
 
車チャーター1,680
 
(@150*8日+@100*4日+80*1日)
 
小計@ 2,595 
 
宿泊・トルクメニスタンH
855
 
(@50*3+@40*1)*4.5
 
宿泊・Hトルクメンバシ
540
 
(@70*3+60*1)*2
 
宿泊・ネビットダッグH
540
 
(@70*3+60*1)*2
 
宿泊・ギジラバット民宿
525
 
(@25*7)*3
 
宿泊・バクハルデン民宿
175
 
(@25*7)
 
小計A
2,635
 
 
LATIFのコミッション526 
(@、Aの合計の10%)
 
LATIFへの支払計
5,756 
 
その他支払い入国手続き費用70
 
(@10*7)
 
エントリービザ
427
 
(@61*7)
 
空港利用税
175
 
(@25*7)
 
博物館入場料
105
 
(@15*7)
 
事務局へのTEL代
6
 
 
TMへの両替
1,007
 
20.170千TM
 
(小計)
1,790   
 総 合 計
7,546
 
(1人当たり$1078)
 
   10.3 TM払い分
  項  目
  金額
    内容 
各個人渡し
2,100
 (@300*7)
 
夕食費
11,795
 12回分
 
昼食費
3,228
 5回分 
飲料水378
   
その他2,414
   
合計
19,915
 TM残金255千TMはLATIF社に預託。
他に$24の残金も含め東部隊に寄付。
 
  11.記録写真・ビデオ・感想 
 
歩いた感想 中村 文広(5期)
ウズベキスタンなどでは歩行中ずいぶん道草を食ったと聞いたが、トゥルクメニスタンではただ歩く以外、時間を使う所もなかった。昼食もそこそこにすぐに歩き出すという風だった。今までの地域にように人の住む村落は殆ど途中になく、眺めるような景色もなかった。暑いか寒いか、とても快適とはいえない気象条件では、変化の乏しい道をただひたすら歩き、早く目的地に着くことだけに関心が集まった感があったのは致し方ないことであろう。中国西部を含めこれからの歩行は益々こういう感じになるのではないかと思われた。

 到着早々腹具合が悪くなり慌てた。初日に出された一人当たり大皿一杯のトマト、きゅうりなどの野菜を食べ、ビールを飲んで腹が冷えたためだと思う。これは森さんの経験、見解とほぼ同じ。ビールを控えてお湯を飲み、夜は腹に暖かなフリースを巻いて寝たら、二晩目には回復してほっとした。旅先で腹を壊したのは初めてだが、油断なく体調維持に努めなければと実感した。一緒にに食事をした時、ガイドかららくだのミルクを飲んでみてはと勧められたが、腹を壊しては大変と断った。ほんの少しなめてみたらヨーグルトのような味だった。

 どんな気象条件なのか見当もつかず、酷寒用のゴアテックスやフリースなどをあらゆる条件に備えた服装や洗濯できない時に備えて着替えをたくさん持っていってしまった。荷物の量としては隊員で一番多く、25Kg近くあったと思う。防寒具、雨具については前に書いたように大変役に立ったが、着替えについては一度も袖を通さず持ち帰ったものもあった。
 反面、皆さんは食料については非常食、携帯食、酒のおつまみなど今までの経験からか実に選択が巧みで豊富であった。その点私はアルファー米は持っていったが、ふりかけとか味噌汁はそれぞれ諸岡さん、土屋さんから分けてもらった。前に書いたマヨネーズと合わせて、次回は必ず持っていきたい。
 それに毎晩の酒席のおつまみの量と内容にも感心した。すっかりご馳走になったことに改めて礼を言いたい。

 持ち物で役に立ったのは湯沸し器で、持ち合わせのなかったトルコではつくづく感じた不便に感じた。ルームサービスで3回もお湯を取った。望遠鏡も意外に役立った。このような平坦地ではナビ車から仲間を探すのに便利だった。ガイドのディマもすっかり気に入っていたので、最後に「今までお世話になった御礼にプレゼントしますよ」と言ったら、大喜びで握手を求められた。インスタントカメラはここでも人気があり、道路工事をしている人などから写してくれとせがまれた。民宿の皆さんともこれがきっかけで親しくなれた。

<ビデオ作成;荒井 龍男(8期)>
ご覧になりたい方は、新井龍男または、事務局へご連絡ください。

<トルクメニスタンの風景・人々・食べ物>

左上写真;皆で食べた夕食時の支払いが、この札束。 その隣の写真;アシガバット 3番目写真;バザール風景




 14.むすび  中村 文広(5期)  
 最後に今回の歩行が順調にいったのはLATIF社に負うところが大きかったと思う。LATIF社のサメドフ社長はその筋への根回し、ガイドと宿泊地の選定、入出国の直接的なアシストで特に貢献が大きかった。彼はMr.Ishiharaとの交渉のはなしをよくしたが、緻密な交渉をした石原さんにもここで成功への貢献を大いに感謝したい。ガイドのディマは経験豊かなガイドで押しも強く、警察や軍隊の尋問にも我々に負担を全然掛けず如才なくこなした。
 運転手のアルスランは通算2千km以上は運転したと思うが安心して任せられた。毎日のスケジュールは彼らのプライドや習慣を尊重しながらもきちんとサポートよう訓練したので、2,3日後には彼らだけでサポートができるようになった。彼らと行動を共にする中、車の中でいろいろな問題について話をした。ここに全てを紹介できないが、貴重な経験だった。ディマとはこれからも付き合いたい。メールが入るのを楽しみにしている。

 私にとっては憧れの中央アジアを歩けたこと。しかも予想以上に快調に歩けたことで、退職後の生活に体力的な面でも自信がついたのは嬉しい。張り切って歩きすぎて、同行していただいた人には迷惑だったかもしれない。迷惑を掛けただけでなく、いろいろな援助をしていただきありがたく思っている。このような仲間を持ったことが最大の至福かもしれない。

   LATIF社長夫妻