1.計画コース概要 |
地域分類 | 中央アジア | 区間番号 | 70〜74 |
国名 | ウズベキスタン(
UZBEKISTAN ) | 実施時期 | 2003.10.31〜11.14 |
計画区間 | カザフスタン国境〜トルクメニスタン国境 | 歩行者 | 9名 |
2.メンバー表 |
No | 役割・分担 |
氏 名 | グループ | 備 考 |
1 | 隊長 | 新井 清 | A | 5期 |
2 | 副隊長 | 石塚 正太郎 | A | 5期 |
3 | | 平林 功男 | A | 4期 |
4 | | 早川 東城 | A | 4期 |
5 | 記録・会計 | 宇賀村充和 | A | 9期 |
6 | 渉外 | 森 正昭 | A | 9期 |
7 | | 佐藤 庄一 | B | 1期 |
8 | | 生和 光朗 | B | 21期 |
9 | | 生和 多恵子 | B | 21期 |
* | 通訳/ガイド | Menibaeva
Inessa | * | 旅行社より手配 |
* | ドライバ |
Kalanov Saip | * | 旅行社より手配 |
3.行き・帰り |
出発日 | 出発 | 到着 | 便名 |
往路 | 03.10.31 | 成田 11:15 | タシケント 18:15 | HY528/ウズベキスタン航空 |
復路/B | 03.11.06 | タシケント 22:40 | 成田 10:45
| HY527/ウズベキスタン航空 |
復路/A | 03.11.14 | タシケント 22:40 | 成田 10.45 | HY527/ウズベキスタン航空 |
4.歩行の記録 宇賀村(9期) |
滞在日 | 年月日 | 出発〜到着 | 区間距離 | 天候 | 宿泊 |
1 | 03.10.31 (金)
| タシケント空港〜市内ホテル Inter-Saraton社手配・通訳と運転手の迎えあり、日本との時差;-4h |
*** | 晴 | Hotel
“Orzu”/Tashikent |
2 | 03.11.1 (土) | カザフスタン国境・チェルニャェフカから歩行開始 タシケント先69Kmまで進んだ。夜、エルビーラさん・イネッサさんの通訳で、距離計が故障した車の交換を旅行社が約束。通訳への支払についてもほぼ合意した。 |
95 km | 晴 | Hotel
“Orzu”/Tashikent |
3 | 03.11.2 (日) | ジッザク先3Kmまで1・2班がカザフスタン領土を歩行、ジザックへ。このルートでミニバスは、ポリスカーの先導を義務付けられた。カザフ領土歩行について、了解取り付けが難航したが成功。 | 90
km | 曇 | Hotel “Uzbekistan”/Jizzack |
4 | 03.11.3 (月) | サマルカンド手前24Kmまで。2・3Gが峠越えとなり、厳しい歩行となった。 | 92
km | 雨あがり /うす曇 | Hotel
“New Zarina”/Samarqand |
5 | 03.11.4 (火) | サマルカンド 先71Kmまで。時々強い雨の日だったが、先を考え予定通り歩行実施。翌日の観光を楽しみに、皆がんばった。 | 95
km | 雨 | Hotel “New Zarina”/Samarqand |
6 | 03.11.5 (水) | サマルカンド観光。ウルグベク天文台跡、シヤーヒジンダ廟群、ビビハニム・モスク、バザール、最後にレギスタン広場へ | 休養日 /観光 | 曇/ 終日寒い | Hotel
“New Zarina”/Samarqand |
7 | 03.11.6 (木) | サマルカンド観光、歴史博物館、デパート見学、Bグループは15:00ホテル発、タクシーでタシケントへ | 観光 | 曇 | Hotel
“New Zarina”/Samarqand |
8 | 03.11.7 (金) | ナバイ手前10kmまで。メンバーが6人と減り、3Gでの歩行となる。森が時々草むらへ。 | 78
km | 晴 | Hotel “Navoi”/Navoi |
9 | 03.11.8 (土) | ブハラ手前45Kmまで到達。歩行距離が先行した事で、宿泊をナバイからブハラに変更した。陶芸工房を見学。 | 77
km | 快晴 | Hotel “Lyabi-hauz”/Bukhara
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10 | 03.11.9 (日) | ブハラ先25kmまで | 70 km | 快晴 | Hotel
“Lyabi-hauz”/Bukhara |
11 | 03.11.10 (月) | トルクメニスタン国境手前の税関まで。途中で、国境まで今日中に届くことが判明し、1・2Gはバスで最終点まで向かう。検問所の根回しが効いて、税関まで全員が歩いて到達。ウズベキ歩行完了となった。 | 74
km | 快晴 | Hotel “Lyabi-hauz”/Bukhara |
12 | 03.11.11 (火) | ブハラ観光。ホテル前のラビハウズから、タキを抜けて、マコギアッタリ・モスクへ。カラーン・モスク、ミルアラブ・メドレッセ、そしてカラーンミナレットに登る。 | 休養日 /観光 | 快晴 | Hotel
“Lyabi-hauz”/Bukhara |
13 | 03.11.12 (水) | アルク城、イスマイール・サマニ廟、スイトライ・マヒ・ホサ宮殿など見学、みやげ物購入。 | 観光 | 晴 | Hotel
“Lyabi-hauz”/Bukhara |
14 | 03.11.13 (木) | ブハラ空港発 11:50 (ウズベキスタン航空国内便 HY1322)悪天候のため1時間遅れで出発。タシケント着14:20
、別のミニバスをチャーター ガイド兼通訳も同行。夕方、エルビーラさんも交え会食。伴走車は単独でタシケントへ戻る。 タシケント発 22:40(HY527) | *** | 霧後晴れ | 機内泊 |
15 | 03.11.13 (金) | 成田着 10:10、トルコからの帰りのツアー客が多く満席状態。 | *** | | |
| | 歩行距離 計 | 671
km | | |
| | カザフ国境近くのスタート地で、佐藤はビデオ撮影中、右の男はサポーター?
サマルカンド・レギスタン広場にて、左から早川、生和夫人、生和、新井、石塚、平林、佐藤、宇賀村、森
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5.概要 新井 清(5期) |
成田よりウズベキ航空によりタシュケントまでおよそ10時間半の飛行。11月1日、カザフスタン国境より歩き始めてトルクメニスタン国境まで670kmを(前半は9人で370km、後半は6人で300km)正味8日間の歩行で終了した。歩行距離は175万分の1の地図により算出した当初の見込みよりおよそ50km短かった。歩行ルートをM37にとったが、都市部は外周道路を通過したことや国境には緩衝地帯もあり、我々のように通過するものでない場合税関までしか近づけなかったことによる誤差と思われる。
今回は途中サマルカンド、ブハラという中央アジアでも屈指の観光地を通るので進行方向を西にとり、途中サマルカンドの観光を組み入れ、ここまでで帰国するBグループを作り、2グループ制としたところが従来にない大きな特徴である。Aグループ6名、Bグループ3名、計9名とれまたこれまでの最大の参加者となった。
日々の歩行は1班2人として、前半は4班で一人は伴走車に乗りナビゲーターとして経路の各種情報を歩行班に伝える役割を果たし、後半は3班で歩きナビの役割を通訳兼ガイドのイネッサ夫人に託した。1日の歩行距離は原則各班25kmとして、前半は体調管理の面から20kmの班を1班作り合計95km、後半は合計75kmを一応の目安として計画を作りほぼそのとおりの歩行となった。
伴走車は20人乗りのマイクロバスを14日間チャーターした。現地旅行社を通じ手配したマイクロバスがスピードメーター、距離計共に作動しないことが分かり、急遽変更を求め3日目よりトヨタ製の車に変えてもらった。歩行区間の一部に距離標示ポストのないところがあり伴走車の距離計を援用した。マイクロバスの1日の走行距離は400km以上だった。
今回も各班の連絡用として携帯電話を3台契約したが、予想通り都市間のみしか通話できずその用をなさなかった。
2日目にコースの一部25kmほどカザフスタンの領地を通ることになり予めカザフのトランジットビザをAグーループの5人は用意しておいた。旅行社の事前の情報通りこの日は伴走車にウズベキのパトカーが問題発生に備えて終日同行した。ところが国境のカザフ側管理官はバスによる通過は認めるが歩行はだめと拒否された。ここを通れないとなると50kmほどの迂回を強いられることになる。
通訳の必死の要請、ウズベキのポリスの援護に別の係官が出てきてOKを出してくれてほっとする。国境の先にあるバザール付近は怪しい人間も多いので立ち寄らないようにとのアドバイスもあり第2班はひたすら道を急ぎ無事通過する。 この日のパトカーは市、州ごとに交代(計4回)して最後ホテルまで伴走して帰った。
通訳兼ガイドとして日本語の達者なイネッサ夫人(日本、英国に留学経験あり)を採用し14日間行動を共にした。非常な才媛で期待以上の働きをしてくれ大いに助かった。特に後半は数kmに亘って一緒に毎日歩いてくれた。
彼女の配慮で夕食は肉や野菜を適当に組み合わせ味覚の点でも質の高いものであった。休養日についても彼女のガイドで満足いく観光が出来た。日本語で意思疎通が出来たことは今回の歩行においてメンバーの精神面での安定にかなり有効であったと思う。 次のトルクメニスタン歩行に関連しての情報収集についても協力をお願いしておいた。
| トルクメ国境にて、 通訳兼ガイドのイネッサさんと
運転手のサイーブさん(手を挙げている)
チャーターしたミニバス/20人乗り |
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6.見聞録 |
6.1ルートの状況 新井 清(5期)
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ルートはドイツ製の1/1,750,000地図で選定した。
ほとんどが主要国道で問題はなかったが、一部カザフスタンの領土を通過するので、事前にビザの取得をしておいた。ビザが無ければ、この間の歩行は出来なかっただろう。
歩行経路はM37を通ったが、国境近くを除くと中央分離帯つきの片側2車線の舗装道路で、路側帯も我々が歩くのに十分な広さがあり安全面で特に問題になるようなことはなかった。交通量も首都タシュケント近辺と日曜日を除くとさほど多くなかった。
我々が歩行の目安としているキロポストは、ほぼ完備していた。しかし、所々抜けており、市外に入ると無くなるので、車の距離計を手がかりとした。
コースも全般的に平坦でサマルカンドの手前に一部丘陵地帯があっただけである。道路沿いはほとんどが農地で綿花畑が中心だった。 トルクメニスタン国境近くはカラクム砂漠の外延部にあたり、ところどころ白く地中から塩分が染み出したのか、さすがに荒涼とした平原が続いていた。森林というものは見当たらなかった。
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6.2 自然環境 石塚 正太郎(5期)
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<アラル海が死の海に>
この地域は雨が少ないステップ地帯で、古来より川の水を灌漑して、サマルカンドやブハラはオアシス都市となった。 私共が歩いた国道M34及びM37の沿道は都市部を除き、灌漑が有効に機能し、綿花畑を中心に牧草地、麦畑、玉ねぎ畑、野菜畑、等が連続していました。 1時間も歩くと、大体灌漑水路に出会い、けっこうきれいな流れを見ることができました。こんな平らな国で、豊な水はどこから来るのか、疑問に思いました。道路の両側には防風林として
養蚕奨励のため桑の木が多く、カザフスタンよりはるかに緑豊かで、農作が盛んでした。
しかし、物の本によると、その陰でアラル海が60年代に66,000Ku以上あった水表面積の4分
の3が失われ、現在は15,000Kuに縮小してしまったとあります。 水位も22mも下が っています。現在も毎年1m前後ずつ水位が低下し、かっては1L中に2g程度だった
塩分濃度が160gと太平洋の数倍の濃さになり、魚がほとんど生きられない死の湖と なっているそうです。 ウズベキスタンとカザフスタンにまたがる塩湖アラル海の乾燥は、天山山脈を水源とする北のシル川とヒンドゥークシ山脈を水源とする南のアム川の水量が減り始めた60
年代から深刻化したそうです。両川の上流は農作地帯で流域行政府が競って農業用運河を建設したのが原因だそうです。 特に世界5位の綿花産地であるウズベク東部では、70年代にソ連指導部の増産指令でアム川の大量取水が始まりました。今、アム川の水量は40年前の25分の1に減り、
アラル海まで水が届かない。又、地域温暖化により水源地の天山山脈やヒンドゥークシ 山脈系の氷河がこの40年間で30%減ったことも水不足に拍車をかけたと言われているようです
。
| <綿花の栽培> 綿花はウズベキスタンの主要農産物で、この時期国を挙げて、その摘みとりをしている感じでした。摘みとりの労働者は、バスに乗ってポリスカーの先導で畑まで送られていました。一般の作業者で10〜15ドル/日程度、熟練者で30〜40ドルの稼ぎだそうです。
通訳・イネッサ夫人の話では、綿花の栽培は地力を奪い、塩害も進行させているとのことでした。 最近では、綿花栽培は3年に1回とし、残りの2年は小麦や野菜を作るようにという方針が出ているそうです。ただ、綿花が金になることから、あまり守られていないとのこと。また、塩害は私たちが歩いたところでも、土の表面が白くなっていて、草も生えないところを見受けました。 灌漑が、表土層の下の岩塩を吸い上げてしまうようです。本来は、少ない雨を利用した農業が、この地域には適しているのでしょう。
<下左写真;塩分が析出した土地> <下中央写真;綿花のストックヤード> <下右写真;家族そろっての綿花摘み> |
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6.3人々の生活
平林(3期) |
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6.4 食べ物・酒・その他
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7.人々との交流
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7.1 現地でお世話になった方々
平林 |
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7.2
現地で出会ったした人々 |
<写真は宝物! 森 正昭(9期)> ウズベキの人たちは、写真をめったに撮ったことが無いようで、持参のインスタントカメラはどこでも重宝した。
11/3、ジザックを出発、パートナーは同期の宇賀村。晴れの暖かい歩行日和、2時間ほど歩いたところで、道端で10人ほどの男たちが大きなスイカやメロンを並べていた。
そろそろ休憩時間でもあったので立ち寄る。ウズベクの人たちは握手が大好き、それで打ち解ける。中の1人が、黄色の肌の大きなメロンを切ってくれた。甘くて水分も多くまことに美味、一気に3切れほど食べた。
持参のサインシートを出して、読んでもらい、サインもお願いする。結局、一番若い男が書いてくれた 。 スイカを持ってみろというので持つと、細長で10キロくらいありそうだった。土産に持って行けというが、これは丁重に遠慮した。
人数も多いので、インスタントカメラでお礼の写真を撮ることとした。そして、このグループのリーダーとおぼしき男に渡す。 ところが、それでお仕舞いとならなかった。
ほかの男が、「俺を撮れ」と言い出し、1枚撮った。これが失敗だった。皆がてんでに、俺も俺もと言い出し、結局4枚ほど撮って渡し、早々にそこを後にした。男たちは盛大に歓声をあげ見送ってくれた。
30分ほど歩いたところで、自転車に2人が乗って追いかけてきた。サインをしてくれた男と、もう1人。是非俺たちも撮ってくれと泣きそうな顔でいう。しかたなく、ここでまた2枚の撮影。喜んで帰っていく姿を見ると、彼らには”ポラロイド写真は宝物”なんだろうと感じた。
それから、30分歩くと次のスイカ売りが待っていた。先ほどの情報が流れていたようで、道の反対側からスイカを差し上げて寄って行けと呼ぶ。先を急いでいたし、申し訳なかったが手を振って通過した。
<暖かい心遣い 早川 東城(4期)>
平林氏と歩いた最終日の最終区間は、運河沿いでトルクメニスタン国境まで文字通り
辺境の24Kmだった。 部落も無く、昼飯は道路端の草むらでと思っていたら、老農夫と孫がロバと共に道路と運河の間の草むらで休んでいた。 今日の記録のために、サインをお願いしようと声を掛け昼食を一緒にとった。
平林氏が棘の草に腰掛てその痛さに飛び上がった瞬間、すかさず老人は自分の上着をさっと脱ぎここに座れと砂の上に敷いてくれた。 我々が弁当をはじめたら、老人が枯れ枝を集め焚き火を始めた。 そして、火がついたら孫に水を汲んでくるように、湯沸しを渡した。孫が草むらの陰から、すぐ戻ってきてそれを焚き火脇に置いた。
ここは水が良くないという評判の地域、このままではそのチャイをどうしても飲むことになる。平林氏は下痢持ちだし、自分もそんな目にはあいたくない。嫌な予感に早々に昼食を済ませ、”運河の水”を飲まずに別れた。 老農夫の残念そうな顔に、「ゴメンネ」と言いながら。
<農家で昼食をご馳走になる、大歓迎してくれた 平林 功男(4期)>
作成中 作成中 作成中 作成中 作成中
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8.健康・安全面の記録
森 正昭(9期) |
8−1.健康
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<どーっとくだる話> 今回ほど、下痢と体調不良が出たのは珍しい。 まず生和夫人、続いて早川さん、石塚さん、森、そして平林さんと順に具合が悪くなった。
私自身のことでいえば、原因は冷えと思われた。 サマルカンドのホテルで、風呂に入ろうとバスタブに湯を入れていた。 ころあいを見て入ったら、なんとほとんど水状態、初めに少し湯が出てあとは水だったようだ。温水プールに入るつもりで浸かった。
出てから、寝るまで時間があったので、読書を1時間ほどしてベットに入った。夜中、寒さで目を覚ますと、腹がごろごろしだして、朝にはピリになっていた。次の日、持参の漢方薬を飲んだが、サマルカンドからナボイまでのあいだで、綿花畑の中でしゃがむこととなった。その翌日は正露丸にしたが同様。
3日目に、ブハラに着いて、イモジウムを2回服用したら、やっと回復した。イモジウムの効き目にびっくり! なお、早川さんもこのイモジウムを3回服用し、下痢が回復した。彼も下痢の原因は、冷えからと話していた。
平林さんの場合は、まづ運転手のサイーブさん秘伝の民間療法をトライ。ウオッカに塩と唐辛子を入れ、それを一気に飲み干すという、口から火を吹くような代物。
本人は塩辛いとこぼしていたが、ウオッカは気に入った様子だった。しかしながら、翌日も止まる兆しが無かった。結局、イモジウムを毎食後に2錠ずつ飲んだが、5日間治らず帰国まで続いた。
彼の場合は、食欲があるのでついつい飲み食いしてしまうのが、回復を長引かせたのだろう。
このイモジウムは、宇賀村さんがインタ−ネット上で見つけた。「下痢にはこれが良く効く」とウズベキスタン旅行者が書いていたが、早川さんと私はその効果を体感した。ただし、平林さんのように効かない事例もあるので、過大な期待はやめたほうがよい。
イモジウムは、サマルカンドとブハラの薬屋で手に入った。ブハラで購入したときは、表示が20カプセルとあるが、18カプセルで売ってくれた。2カプセルほど切り取られており、ばら売りもしているらしい。4000スム(約400円)だった。
トルクメニスタン歩行隊用に何錠か購入した。
びろうな話だが、下痢が続くと、ウオシュレットの有難さが身にしみる。そんなときに役立ったのが、ウエットティッシュだった。先に帰った佐藤さんが、それを残していってくれ、尻が”ヒリヒリ”状態にならずに済んだ。
<たべられないまめの話> 今回、まめに悩まされなかったのは、宇賀村さんだけだったようだ。私の場合は、靴ひもがゆるんでいて足が靴の中で動き、気がついたらまめ状態だった。それから、靴下がしわになりそれを放置したためというのもあった。 宇賀村さんは、クッションのよい靴を選び、薄い靴下を上にはいていたという。各自、工夫すべきところである。
なってしまったら、早く水を抜いて、バンドエイドを貼っておく。これで、ひどくならないようにできる。バンドエイドは、いろんな形と大きさのものがあると良かった。
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8−2.安全面(各種トラブル) |
<ミニバスの距離計/速度計が故障>
歩行開始初日、ミニバスのメーターが全く動かない。我々は、市内やキロポストの無い道路では、車の走行距離計から、歩行距離を出していた。歩行にも差し支えるし、安全上からも好ましくないので、運転手に修理を求めたが、部品が無いため修理不能とのことだった。
Inter-Saraton社に車の交換を求めたところ、「メーターが動かなくても安全だ、警察も文句は言わない」あげくは「お前たちは安く上げたいというから、安い車を回してやったんだ」。一方では「わが社は、車を何台も持っていて、トヨタの冷蔵庫付きの車もある」「JTBの旅行も手がけている」などと豪語、結局割増料を払い別の車と交換してもらうこととした。そして、3日目にトヨタの車が到着、その後割増料は請求が来なかった。
運転手は車を所有していて、旅行社から声がかかると仕事に来るらしい。別に旅行社お抱えの運転手ということではない。 なお、この間の交渉は、当初通訳をお願いしていた、エルビーラさんが、手際よく進めてくれた。彼女は、大学の授業の関係で我々にアテンドできなくなり、イネッサ夫人に交代したが、その責任感と交渉力は、すばらしいものだった。
<携帯電話の有効範囲> 今回は、3台の携帯電話をレンタルした。事前情報では、その有効範囲が不明であり、中途キャンセルも出来ないという。結局、伴走車に1台、歩行する両端のグループに1台ずつと予定した。2台は時々使えたが、1台は、ほとんど使えない状態だった。
交換をしたかったが、タシケントへ持って行く必要があること、並べてテストしてみるとたまにつながること、などから結局泣き寝入りすることになった。現地での$150/セットは、安くない金額である。
<カザフ領土の通過>
2日目に、ウズベキスタン側に出張っているカザフスタンの領土、約25km通過することになっていた。そのときミニバスには、ウズベキスタンのポリスカーがエスコートすることとなっていた。だが、歩行するメンバーに対してはどうなるのか、旅行社からは事前の情報なし。
ウズベキからカザフ国境に入るところで、カザフの警備官が歩行することに難色をしめした。歩行する道路沿いに、治安の良くない地域があるからという理由だった。 通訳・イネッサ夫人の
努力で歩行が認められることとなったが、通行を認められなかったら、迂回をすることとなり、1日余計にかかることになったろう。詳細は5.概要にあり。 <右写真;ポリスカーの先導でウズベキ領土を進む、この車の速度計は動かなかった>
<病院・日本との連絡など> 事前に主なところにある、病院の連絡先を聞いておいた。跡部さん(6期)の話だと、”腹痛で病院に行ったら、誤診で盲腸の手術をされた”こともあるという。幸いにも病院に行くほどのことがなく良かった。
日本との連絡は、ホテルからのFAXに頼ったが、話中が多くて時間がかかった。どこがビジーだったのかは不明。石原さんが日本側の窓口となり、相互連絡はうまく機能した。
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9.ビザ関係・出入国 荒井龍男(8期)、森 正昭(9期)
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1.ウズベキスタンのビザ 観光ビザが必要だが、東京のウズベキスタン大使館に申請して、1週間後に許可された。
インビテーションレターの必要も無くなり簡単になった。申請書、パスポート、写真1枚を提出、手数料は2000円 。 2.カザフスタンのビザ
ウズベキスタンにカザフスタンの領土が突き出ていて、そこを突っ切るために、カザフスタンのビザを取得することとした。 ウズベキスタンのビザを取得後、カザフ大使館へビザを申請。ウズベキスタンのビザがあると、申請書、パスポート、写真1枚に手数料は3000円です。
3.ウズベキスタンの入出国 到着後、荷物がなかなか出てこず30分以上待ったろうか。時間が遅かったせいもあるが、Enchangeの窓口も閉まっていた。入国審査は問題なく通過、税関では所持金申告をして、トラブルなく通過できた。
出国時、ウズベキスタン航空のカウンターで、全員の荷物の計量をまとめてやられた。それぞれ、大きな陶器の皿など持っていたので、数10kgオーバーとなった。半額に負けてやるから、ドルで払えといわれ、$120支払った。
イネッサ夫人より、「だから荷物は見えないところにおいておきなさいと言ったでしょ!」 航空会社の職員に小遣い稼ぎされてしまった。 |
10.費 用 宇賀村 充和(9期)
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10.1 一人当たり費用(フル参加者分について)
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個人概算費用 | ドル換算 | | 内容 |
渡航費 | 850 | | ホンダトラベルへ93500円、ウズベキ国内線利用分含む |
査証二国分 | 80 | | カザフ、ウズベキ大使館へ 5,000円 |
A共同分担費 | 1600 | | Aグループの宿泊・車・運転手・通訳・携帯電話・旅行社手数料など |
B共同分担費 | 600 | | Aグループの宿泊・車・運転手・通訳・携帯電話・旅行社手数料など |
AIU保険 | 32 | | 国内にてアイエスオーへ4830円 | |
10.2 共同分担費まとめ
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車チャータ代・20人乗り | 30 | 10/31 | 空港→ホテル |
車チャータ代・20人乗り | 1040 | 11/1-13 | $80/日*13日間分(宿泊・食事代別) |
運転手宿泊代 | 260 | 11/1-13 | $20/日*13 |
ミニバス・燃料代 | 375 | 11/1-13 | 3500km、2リッター/km | 運転手食事代 | 130
| 11/1-13 | $10/日*13、昼食・夕食代 | ミニバス・12人乗り | 70 | 11/13 | タシケント市内移動 | タクシー | 65 | 11/8 | Bグループ、サマルカンド→タシケント移動 | 携帯電話 | 450 | 11/1-13 | $150/台*3、1台は使えなかった。 |
通訳料 | 700 | 10/31-11/13 | $50/日*14、夕食代を含む、イネッサ夫人へ直接支払い | ガイド宿泊代 | $330 | 11/2-13 | $30/日*11、朝食つき | 現地ガイド料 | $100 | 4日 |
サマルカンド、ブハラ | 通訳・航空券 | $28 | 11/13 | ブハラ→タシケント |
ポリス・エスコート代 | $250 | 11/1 | カザフ領土通過のため、ウズベキ・ポリスカーがミニバスにアテンド | |
10.3 宿泊費詳細
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場所・ホテル・泊数 | 宿泊費 | | 内容/食事・人数 | クラス |
Tashkent/Orzu(2泊) | $560 | | 9人宿泊、T;4/$30、S;1/$40、朝食つき、市内で便利 | ** |
Jizzack/Uzbekistan/(1泊) | $235 | | 9人宿泊、T;4/$25、S;1/$35、朝食つき、ソ連時代の建物 | * |
Samarqand/New Zarina/(4泊) | $1120 | | 9人宿泊、T;4/$30、S;1/$40、朝食つき、B&B式、清潔 | *** |
Navoi/Navoi(1泊) | $100 | | 6人宿泊、T;4/$25、朝食つき | ** |
Bukhara/Lyabi-hauz(5泊) | $1500 | | 6人宿泊、T;4/$30、朝食つき、B&B式、清潔、食堂がすばらしい | *** |
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11.記録写真・ビデオ・感想 |
<感想;宇賀村 充和(9期)> ウズベキスタンは中央アジアの中国の西にあり、並びでいうと中国、カザフタン、
スウズベキスタン、トルクメニスタン、アゼルバイジャン、グルジア、トルコと並び ます。 首都のタシケントへはウズベキスタン航空が成田ー関空ータシケントー
成田と飛んでおり、旧ソ連邦の中では最も良い航空会社です。タシケントには 地下鉄、トロリーバス、路面電車、等々があり、200万人が住む大都市です。
ビザが必要な国で色々な規制が残っていますが、意外とルーズというか問題が なかったです。持ち込み・持ち出し通貨申請、バウチャー、両替証明も形式でした。
両替も1$=920〜970スムで闇と変わらず、闇両替がいませんでした。でも200$を 両替すると200,000スムになり、500スム札でくれる為(最大1000スムだが、余りな
い?)1.5cmの100枚の束を約4束くれるので、持つのと数えるのが大変でし た。トルコも大変ですが高額紙幣があり、数える大変さだけでした。
よく危険でなかったですかと聞かれますが、全く問題なく、人は内気な人が多く、 すれていないのでとても気持ちが良かったです。道で挨拶をするとほとんど挨拶を 返してくれます。 道路は国境は緩衝地帯を挟み厳重に警備してます。その上、
州境や大きな川、警察の前で検問しおり、通訳になぜか聞くも私も分らないとの 話で、仕事を増やしているとしか思えませんでした。 でも水は悪くor日本人に合わず、皆が程度の差こそあれ下痢に悩まされました。
インターネット情報でよく効くという下痢止めのイモジューム(スイス製)の世話に なりました。ミネラルウォーターしか飲みませんが、サラダ、ヨーグルト、果物、 皿、等についた水が原因かは分りませんがひ弱な日本人ということでしょうか。
そして人は写真が好きで、焼き付けた写真がもらえないのに撮って欲しいと言い ます。ポラロイドを持参しましたが、渡すととても喜び、大事にポケットにしまう人
が多かったです。 人種はウズベク人が75%、ロシア・タジク・カザフ人が各5〜6%とのことでした。 韓国系の人もいて、さすがシルクロードの十字路と感心しました。
グループで通訳を雇い2週間同行してもらいました。美人ママで、3歳の娘さんを お母さんに預け、国連の現地事務所に務める旦那も置いてきました。日本や英国
に留学し、6カ国語を使える彼女も、自国ではより良い生活が出来ないと海外移住を 申請していますし、日本へも再度留学したいと試験を目指して頑張っていました。
旧ソ連の面影を残すホテルや百貨店に入りましたが、荒れていたり閑散としており システムが上手く機能していなかったです。そんな訳で9階のホテル・ウズベキス
タンより、プチホテルやB&Bの方がよっぽど良かったです。 民俗芸能も2度見ましたが、しなやかな手や体の動きと弦楽器と打楽器の物悲 しい響きを楽しみました。レストランで見た時は踊り子に誘われて皆が一人ずつ
一緒に踊り、興に乗って他の客や店の人も一緒に踊り、大いに盛り上がりました。 仲間で炭坑節を踊り、拍手喝采を浴びました。 今回はシルクロードを歩きましたが、当時ラクダを連ねた隊商が泊まった宿の
キャラバンサライも見ました。でも、道は日本の東海道にあたり、広い道路で月の 砂漠の道のイメージとは遠かったです。 道は途中で25Kmくらいカザフスタン領を通るので、トランジットビザを取って
いきましたが、現地の旅行社のアドバイスでその日だけ警察の同行を頼みました。 一日中パトカーの先導で行動し、すったもんだありましたが、何とかカザフスタンの
領内を車でなく歩かせてもらいました。その道は1Kmごとに番号を入れた キロポストがあり、それと車のメータで歩行距離を決め、分担して歩きました。 雇った20名乗りのバンで最初のホテルからカザフスタン国境に行き、2名降ろし、
車は25Km進み、2名降ろし、とやり、歩きました。歩き終わる頃に車が拾いに 来てホテルへ戻ります。 首都タシケントは盛岡と同じくらいの緯度にありますが、海老名より少し暖かい
気がします。国はシリダリア川とアムダリア川に挟まれ、灌漑水路が縦横に走り、 広大な綿花畑の国でした。 機械で綿花を摘み、取りきれないものを人手で取る
時期で、畑に大勢の人が出ておりました。でも、綿花は肥料を多量に必要な 作物で、3年位の周期でないとよく出来ないとのことでした。 一つの作物に集中 しているので、工場の稼働率問題もあり、他の作物への転換、等色々と大変の
ようです。途中で前後にパトカーで囲んで町から作業者を送る、10台以上のバス の列に出会いました。追い抜いてはいけないので、のろのろと進み、大変でした。
イスラム教の国ですが旧ソ連が宗教色を薄めたので、お祈りはしないし、ラマダン は守らないし、豚肉や酒は飲むし、無宗教の日本と似ていました。 勿論、お祈りを
呼びかけるアザーンもありませんでした。本来ラマダン中なので結婚式はないとの ことでしたが、最後に泊まったB&Bの隣でありました。 ポラロイドを撮ってやると
大変喜び、中を見せてくれました。中庭に面した30畳くらいの細長い部屋に キレイな絨毯がしかれて、料理が並べてありました。披露宴にしては寂しく、 酒もなく、質素・週間・ラマダンのせいか判別がつきません。新夫婦は知り合い
の所を回り、祝の品を貰って戻るそうでした。 食べ物は肉は羊が多いが牛・豚・鳥とありました。魚は少なかったです。野菜 はトマト、キュウリ、ニンジン、ビート、キャベツ、ジャガイモ、豆、等があり、
サラダやスープとして豊富に出てきました。 果物もスイカ、メロン、リンゴ、柿、 ブドウ、等があり毎日テーブルに並びました。主食はナンというパンでバター、
チーズ、種々のジャム、蜂蜜をつけて食べました。 主菜はシシャリク(肉の串焼 き)、ブロウ(焼飯)、ラグマン(肉・野菜入りスープ)、チャナヒ(ツボ入りの
ラグマン)、マントウ(餃子の皮で作った肉まん)、ショルパ(野菜スープ)、 ウグロ(スープにうどん入り)、等を楽しみました。バター、チーズ、ヨーグルト、 チャッカ(チーズと生クリームの中間)も良かったです。
道筋には羊の肉をぶる下げて売っていたり、綿を売っていたりして自由経済 (生産者の直売?)が見られました。綿は45円/kgでした。
また道筋にはチャイハナ(お茶を飲む場所)という食堂があり、歩いて上手く ぶつかると入って昼めしを食べました。コクチャイというウーロン茶(?)とサラ ダ、ナン、に上記主菜を一つで2人で120〜200円でした。
ビールはソ連の輸入品の方が上手い。町で70〜120円でホテルで300〜400円、 ワインは良くない、コニャックがまあまあと言うのが皆の意見でした。
所々にバザールという市場があり、上記食材、香辛料、ドライフルーツ、シルク製 品、絨毯、陶器、人形、・・があり、値段交渉を楽しみました。値段を聞いて、半値
で言うと少し下げる。まだまだというと、幾らなら買うかとなる。言った値でまと まらなければ帰ると、追いかけてきて成立する。来ないこともありました。 観光地は宗教関係が主で、イスラムの教えを学ぶ神学校でした。古いものはジン
ギスカンに徹底的に破壊され、近世では赤軍との戦闘で破壊されたとのことで 素晴しい建物も修復率が多く世界遺産にならないとのことでした。多くの世界遺産の 建物も土産物屋が占領しており、興ざめでした。 ミナレットという塔に3箇所で登り
ましたが、照明のない急な螺旋階段を登ると、素晴しい景色が見えました。昔はお祈 りを呼びかけたり、罪人を落としたといいますが、町一番の展望台は良かったです。
歩き終わり、ドライバーがハマム(ターキッシュバス)を紹介してくれました。 マッサージ付きで15ドルは良い値段でしたが疲れは相当取れました。 脱衣所で脱ぎ
ゴムぞうりを履き、薄い布を2重にし腰に巻き入浴です。脱衣所から続く余熱室に 10分くらい入り、メインの部屋を抜けて狭い入口をかがんで入り加熱室です。砲弾 状の部屋の周囲に1mくらいくり貫かれたところが椅子になり座って温まります。
建物は前面石作りでここはその石がじっと触れていられない位熱いのです。全身 から汗が吹き出る頃、呼ばれてメインのへやに放射状にくり貫かれた広い部屋 (メインから見える)の腰掛と同じ高さの床に腰に巻いた布を敷いて横たわります。
スッポンポンの肌にワセリンを塗り足先手先へとしごく様にマッサージします。 曲げたり、引っ張ったりした時は「いてて」と言うと止めてくれます。裏表入念に やり終了です。メインルームで放心状態でボッケーとしていると順番にシャンプー
してくれます。洗いが不十分で少し荒いが私にはまあまあでした。ここまで来ると 持ち込んだ500mlのプラボトルのミネラルをウォーターが無くなっていました。 その日のビールが旨く翌日には身体の疲れも取れていました。
<ビデオ作成;荒井 龍男(8期)> 今回は都合により不参加となりましたが、ビデオ作成は担当しました。
なお、撮影は、佐藤庄一さん(1期)、早川さん(4期)、平林さん(4期)が行ってくれました。バックミュージックの一部は、サマルカンドで購入したの音楽家のCDを使用しています。
ご覧になりたい方は、事務局または参加者までご連絡ください。
<通過証明;森 正昭(9期)>
今回の通過証明は、エルビーラさんにお願いしウズベキ語で作ってもらいました。 ここには、「我々がロンドンから東京まで歩いてそのトレースをつなげようとしていること、今回はウズベキスタンのタシケント側から、ブハラのさきのトルクメニスタン国境までを歩こうとしていること、今日あなたとであったという証拠にサインをほしい」といったことが書かれています。
ウズベキ語を話せない我々を理解してもらう1つの方法であり、現地の人と交流するきっかけともなっています。 サインをもらった人には、持参のインスタントカメラで撮ってあげると、大変喜ばれました。
なお、今回の通過証明の原本は、事務局に保管しています。 |
<結婚式後の新郎と新婦>
<”立派な”ウズベキスタンホテル>
<ブハラのB&B・食堂>
<ある日の夕食>
<踊の後は皆で>
<ブハラのパン屋さん>
<サマルカンド・シャーヒジンダ廟>
<ブハラ・カラーンミナレット>
<通過証明 サンプル> |
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12.シルクロードの世界 (写真をクリックすると拡大されます) |
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13.ウズベキの人々
(写真をクリックすると拡大されます) |
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14.むすび
森 正昭(9期) |
ずっと以前から、サマルカンドやブハラの地名は、シルクロードのオアシス都市として記憶に刻まれていた。 それは、アレクサンドロス大王の東征やチンギス・ハーンの征服といった、若い頃学んだ歴史の授業とも重なりこの地を興味深いところにしていた。
そんなことから、ユーラシアを歩くならこの地域には是非行ってみたいと思っていた。
昔の繁栄を伝える歴史的な遺産、青色に輝くドームは期待にたがわぬものだった。また、世界経済の動きとは無縁に近い人々の生活、素朴な態度は、古い日本と通ずる懐かしい感じを持った。
カザフスタンでは女性が我々に手を振ることはなかったが、ここでは違った。言葉が通じないながらも、そのまま歓迎の気持ちを表現する人々には親近感を感じた。 そんなことと関係するのだろう、今回ほど多くの人々との出会いを感じ、それを写真に残した旅はない。 ウズベキの人たちからみると、変わった連中が歩いているということで興味津々だったろう。それと、めったに写真を撮るということがないため、撮られるだけで嬉しいのだろうという感じさえした。その一部をここに、ウズベキの人々ということで、記録に残した。
それと、日本語通訳として、”イネッサ夫人”を頼んだことも、大きかった。政治、経済、風俗から食べ物のことなど多くの情報が得られたことも、この旅を豊なものにしてくれた。さらには、休養を兼ねて先の2つの町をゆっくり観光できるようにスケジューリングされたことも、よかったと思う。
最後に今回の旅をトラブルもなく完歩できたことをは、日本側でサポートてくれた皆さんのお陰でもある。特に荒井さん(8期)、跡部さん(6期)、石原さん(10期)に感謝したい。
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