中国6歩行記録                                作成 土屋

期間:2007年9月23日より10月5日

   内9月29日は西安にての祝賀会に出席

    前半歩行:9月23日より9月28日

    後半歩行:9月30日より10月5日

メンバー:前半 土屋淳一(リーダー、4期)、新井 清(会計、5期)、山崎 隆(記録&ビデオ、

17期)、石塚正太郎(5期)、住山 茂(12期)、戒能俊邦(12期)、結城唍曠(府立大OB)

      後半 土屋淳一(リーダー、4期)、新井 清(会計、5期)、森 正昭(記録&ビデオ9期)、

      石塚正太郎(5期)、結城唍曠(府立大OB)、和田航一(3期)、小林秀行(都立大OB)、スルーガイド:丁 国輝(敦煌旅遊有限公司)、ドライバー 劉(刘)さん(西安光大国際旅行社)

行動日誌 

   @事前に「歩行班分け」とホテル「部屋割り」表を作成して発表。

   Aモーニングコール6時、朝食7時、出発8時を原則とした。

   B歩行は1班2名、2班2名、3班1名、4班リーダーを含む2名構成とした。

     1班より順に下車歩行を開始することとした。

   C歩行距離は最終日を除き

    前半は1班23キロ、2班22キロ、3,4班各20キロ、計一日85キロとした。

    後半は各班20キロとし計一日80キロとした。

第一日 9月23日(日)

成田17:00発中国東方航空MU522便、上海経由(入国審査)、西安22:20着 (空港近くの)咸陽航空大酒店 宿泊。

ガイド丁さんによる宿泊手続きと明日の打ち合わせ。西安の旅行社による両替。

第二日 9月24日(月)

8:00ホテル出、出発点平涼に向かう。全装備ナビ車に搭載。

晴れ    一旦西安市内に戻り、安定門にて車のメータを0セットして歩行コースを偵察しながら平涼に向かう。

キロポストの設置状況とあった場合の西安からの距離対応換算資料とする

西安より116キロ、キロポスト1603、1605間にトンネル1キロ弱あり

歩道50センチほどあり、さらに太峪129キロ先1619、1622間にトンネル

2キロほどあり、歩道狭く、先が見えない。上下車両並走であり危険区間。

歩行回避を別途相談する事とする。

12:30〜1:30 彬県市内にて昼食:玉子トマト面とビール

1636キロポスト以後、平涼料金所先1676までは略設置あり。

4:40 平涼出発点ロータリーに到着。西安安定門より297キロ。

7:00 ホテルレストランにて壮行晩餐会(286元/9人)

平涼賓館 宿泊

第三日 9月25日(火)

ホテル移動のため全装備はナビ車に搭載。

薄曇り   

8:14一斑(石塚、戒能)平涼ロータリー出発。東進23キロ。

8:57二班(結城、山崎) 1760キロポストよりスタート。東進22キロ。

    出発点より略23キロにポスト有ったため。

9:27三班(新井)1738キロポストよりスタート。東進20キロ。

9:51三班、四班終点1718ポストに赤紐目印セット

10:16四班(土屋、住山)1698キロポストよりスタート。西進。

    三班との出会い方式。丁度峠頂点であり下り1時間半続く。

3:20ナビ車三班、四班ピックアップ。1698キロポストにてメータ0セットして明日のコース点検(長いトンネルまで)75キロ有り。

歩行距離85km(累計85km)              彬県海鑫酒店 宿泊     

第四日 9月26日(水)

長いトンネルは歩行しないことにする。

小雨    

8:51トンネル1622より一斑(新井、戒能)スタート。西進20キロ。

    トンネルより約8キロ下り有り。彬県市外道では炭塵しぶき。           

9:21一斑、二班終点予定地(1641)に赤紐マーク

9:47二班(石塚、山崎)1660スタート。       東進19キロ。

10:11三班(住山)1678スタート。           東進18キロ。

     省境故かキロポストジャンプ約3キロ

11:28四班(土屋、結城)1698スタート。 東進18キロ。台地での雨風で寒い。

2:30ナビ車西より来てピックアップ。ピックアップ順が4,3,2,1となったために、早く出発した1,2班が寒い中長時間待ちとなった。

*ガイド丁さんの独断で遠方に配置した組を最初に拾って戻れば、車は往復だけですむと、最終歩行組4班の終了待ちをしていたらしい。

*夜一体一にて抗議、先に歩行開始した班からのピックアップすることを約す。

歩行距離75km(累計160km)              彬県海鑫酒店 宿泊

第五日 9月27日(木)

ホテル移動日のため全装備はナビ車に搭載。長いトンネル出口をスタート点とする。

時々小雨 石塚風邪気味のため三班一人歩きを四班土屋と交代として様子見とする。

8:53一斑(住山、山崎)トンネル出口(1619)より1597まで。  東進23キロ。

    5キロほど先の底角淘近辺は汁粉状の道、14キロ先には永坪隧道有り。

*ナビ車1609近辺の山道での事故渋滞40分ほど進まず

10:00二班(結城、戒能)1597より略1575まで。東進22キロ。

終点地キロポスト無くスタンド近くの小さな看板支え棒にマークしたが大分判りにくかったようである。中央分離帯のある上下とも二車線道。

10:50三班(土屋)略1575より1554まで。東進20キロ。上下二車線道。全般的に下り。

1566近辺、乾陵への分岐。道沿いに乾陵故宮があり観光バス数台停車していた。

四班(石塚、新井)1554より1534。東進20キロ。  

歩行距離85km(累計245km)             礼泉 昭陵賓館 宿泊

第六日 9月28日(金)

ホテル移動日のため全装備はナビ車に搭載。平涼へ向かう途中の礼泉間での距離から換算して残り47キロメートルと想定。絲綢之路起点群像まで42岐路分散歩行して、以後全員で西門(安定門)までの5キロを歩行して前半の完成とする。

街中での中継ポイントとなるため、車のメーターで降りた次班は出発点(前班の終点)の建物、看板などの様子を前班に携帯で伝えるとともに電柱などに赤テープを巻いて目印とした。

小雨    

8:10一班(新井、住山) 1534ポストよりスタート。          東進11キロ。

8:25二班(石塚、山崎)メーター11キロ点よりスタート。       東進10キロ。

    料金所先ガソリンスタンド近くより。

8:45三班(結城)メーター21キロ点よりスタート。           東進10キロ。

    街中十字路。前に長いクレーンを乗せた建築中のマンション有り。一応バス停のポールにテープ目印。渭河の橋をわたる。

8:57四班(土屋、戒能)メーター31キロ点よりスタート。       東進10キロ。

     上下二車線、左右に一般道のある走行車少ない大通り。向かいに長いクレーンを乗せた数棟の建築中マンション。小さな噴水有り。車道の分離帯にある電柱ポールにテープ目印。三班に携帯電話する。ナビ車に絲綢群像まで測定依頼、10キロでしたという。高速陸橋道が上を交差する三橋を経て市内にはいる。

11:20絲綢之路起点群像に全員集合。記念撮影など。

11:45全員で大慶路を歩き玉祥門を見て右折して安定門に向かう。東進 6キロ。

1:00全員入門完歩を祝す。

  1:55昼食、徳発長にて高価な「餃子宴」を食してしまった。一人120元。ビールと一般蒸餃子は飲み放題、食べ放題であったので居座った。

3:00前半30日の市内歩行路の調査に17・5キロ先までナビ車で調査に行く。

    各員飲み過ぎ、食いすぎで居眠り多発。車は鐘楼前より北大街を通り地下鉄工事中の西五路へ右折して朝陽門を抜けて直進して310路にいたるコースを走った。

ホテル帰着後、コース検討。鉦楼-東門(長楽門)を出て左折して朝陽門にて市内を通らず310に入るコースとする。

夕食:昼食奮発しすぎたので、ドライバーが美味しいといううどん屋で一杯5元で済ます。緑色面、若い女の子も食している繁盛はしている。汚い店。帰りにホテルとなりのスーパーで白酒とビール7本購入部屋の冷蔵庫で冷やしておく。

11:30頃、前日までの残り白酒で待機していると祝賀組、後半歩行組到着。

早速藤田さんの部屋へ全員集合、歓迎会。買い置きアルコール完売。

歩行距離47km(累計292km)                     西安 西安賓館 宿泊

第七日 9月29日(土)

祝賀会日:歩行なし

曇り   

9:20ホテルよりバスにて安定門前に全員集合。鉦楼へ向け歩行。

11:00鐘楼前に到達。記念撮影。

     その後、兵馬傭観光組と市内観光組(4人)に分かれて行動。

5:00後半組打ち合わせ

(7:00)西安観光局幹部来駕のもとに祝賀パーティ

    終了後、531号室にて歩行組・祝賀組MIX懇親会。白酒追加購入で対応。

                                         西安 西安賓館 宿泊

第八日 9月30日(日) 

ホテル移動日のため全装備はナビ車に搭載。

曇り

6:20帰国グループをホテルロビーにて見送る。早出のため朝食は弁当の様子。

8:00後半歩行グループ、生和夫妻に見送られてホテル出発。   

8:17一斑(結城、和田)鐘楼前よりスタート。               東進20キロ。

   東門を抜け朝陽門から310道へ。車メータで距離設定。

   ナビ車より11.3キロ先に食堂有りを電話する。

9:10二班(石塚、小林)車メーター20キロ先でスタート。        東進20キロ。

   三本橋にテープを結び高速道下をくぐり右に西安工程大学を見て臨潼区の町を渭南への矢印を頼りにぬけて(高速の)陸橋下をくぐった先1261ポスト迄。ナビ車より臨潼の待ち歩きガイドと食堂の案内を電話する。

9:45三班(新井)キロポスト1261よりスタート。             東進20キロ。

   キロポスト設置安定しないので車のメータを併用して距離設定を継続する。

   12キロ先に食堂有りと終点は1247先、鉄道下、高速下をぬけて小さな村落ガソリンスタンド前の地名「良田」と表示してあるポールが終点と電話する。

10:15四班(土屋、森)「良田」ポールをスタート。              東進20キロ。

   ナビ車は20キロ先まで偵察と印付けに前進。Uターン戻り時に10キロ、15キロ地点に食堂有りの情報。歩行開始20分ほどで国道310:1090のキロポスト出現、以後ほぼ順調に設置されていた。道はゆるく上りながら渭南の待ちを抜け左に広がる黄河河岸のレベルに下ったかと思うと右側の黄土高原の台地へ登ってしまった。このあたりは桐の木が多く植樹されている。台地は広く主に玉蜀黍畑が広がり、国道は褶曲しながら伸びている。

3:50四班ゴール。各班を乗せて待機していたナビ車に拾われて渭南のホテルに戻る。

歩行距離80km(後半累計80km、全累計372km) 渭南 渭南飯店宿泊

                                              

第九日 10月1日(月)

ホテル移動のため全装備ナビ車に搭載。

国慶節始まる。      

晴  

8:20一斑(結城、小林)1071ポストよりスタート。 東進20キロ。

    8キロ、11キロ先に食堂有り。

8:43二班(和田、森 )1051ポストよりスタート。  東進20キロ。

    10キロ先フアーインの町、13キロ先に食堂有り。

9:06三班(石塚)1031ポストよりスタート。

    10キロ先以後食堂特に見当たらず。ナビ車ロータリーで道を間違え4キロ戻る。

    歩行は潼関への標識に従うこと。終点1011キロポスト。      東進20キロ。

9:56四班(土屋、新井)1011ポストよりスタート。下り坂の始まり、出てすぐに細い山道で今にもがけに落ちそうな横転トラック。昼ごろ復旧作業があったらしくナビ車渋滞で迎えは2時間くらい遅れるかもの電話有り。出発点は山道の下り、谷底三河村まで約1.5キロ上り2キロ登り終わって3キロほどで潼関の町、今夜の宿郵政賓館先を右折して楽隊を先導に新婚さんの車がパレード、突き当たると右に道は急坂で1.5キロ下り又1.5キロほど上る。もう坂は無いだろうと上り詰めた先に1軒だけあった食堂に入る。男性先客が3人食事中。指差して同じものを頼むそれとビール1本。炒面(シャーメン、焼きそば、上に薄い卵焼きが乗せてある)

二人分計9元、姉らしき店員にサインをもらう、客の一人もサインさせろと用紙を奪う(国は重慶だという)、チェキで遊ぶ。ナビ車迎えが遅れると聞いていたが一時間もいたので出発。1キロほどで又下り、谷底で線路をくぐり2キロ登り黄土台地の道を残り6キロ歩く。畑、農家、点在。皆が乗ったナビ車を20分ほど待機させてしまった。潼関郵政賓館に戻る。夕食は皆で街へ出て無難そうな食堂でとる。明日の配置上からも山道の渋滞の心配もあり、明日のホテルはむしろ三門峡に移動してしまうことにする。当ホテルの連泊をキャンセルすることにした。

歩行距離80km(後半累計160km、全累計452km) 潼関 潼関郵政賓館 宿泊

第十日  10月2日(火)

ホテル移動のため全装備ナビ車に搭載。

7:57ホテル出

8:21一斑(森、小林)991ポストよりスタート。              東進20km。

  河南省に入る。12〜13キロ先、豫炎の町。971ポストまで。

8:45二班(新井、結城)971ポストよりスタート。             東進20km。

  15キロ先に一軒食堂を見た。951ポストまで。        

9:10三班(和田)951よりスタート。 931ポストまで。         東進20km。

  939、937ポスト近辺に食堂有り。932でポストが無いため車メーターで終点マーク。炎宝町なかロータリー先のTVアンテナ櫓にマーク。

9:50四班(土屋、石塚)アンテナマークよりスタート。          東進20km。

  ナビ車にメーターでの前方マークと調査を指示。車戻り5〜6キロ先に国道310と国道209が合流ポストが変わる。終点は209道の979ポスト。炎宝の町を出るとポスト927,926,925(11:05)から無く、11:27に国道209の991ポストがあり以後順調にポスト有り。台地上のゆるい登り降りのある道であった。12:20〜50陽店鎮小河市場の客のいない西安餃子館でビールとラーメンで昼食。奥さんにサインをもらう。チェキ使用。食事代旦那と相談してサービスしてくれた。

3:05畑前に到着後30分迎車。メータ0セットして三門峡最終ポイントへ調査。

  途中郊外に見えた予定ホテル金泉賓館は不具合として宿替えを丁さんに要請。終点を陝洲大通りと六峰南路のT字交差点としたが、先に山頂に寺院を模した公園への入り口の大門とした。 残り28キロ強と測定。

*宿泊先変更:金泉賓館のキャンセルと新規先の予約は西安旅行社に要請。新規先へは飛び込み出なく旅行社からのFAXが必要とかで国慶節休みの担当者は会社へ出てFAXしてくれたらしい。一流ホテルフロントで待機しているうちに空き部屋ふさがり、別のホテルを紹介されて落ち着くことになった。夕食は近くの東北料理店個室で。

歩行距離80km(後半累計240km、全累計532km)  三門峡 鴻志大酒店 宿泊

第十一日 10月3日(水)

晴   

8:07ホテル出発。前日設定の新終着点にて車メーター0セットして、昨日終点の979ポストへ向かう。距離28キロメートルと策定。各7キロ4班で歩き約500メートル手前の旧終着点に集合して以後全員でゴールする事とする。キロポストが欠けている、更に後半はほとんど無きためメーターで配分。

8:40一斑(和田、石塚)979ポストスタート。               東進 7km

8:57二班(新井、小林)スタート。                      東進 7km

  にぎやかな町を過ぎた大通りの赤い宣伝旗のポールに目印。 

9:14三班(森) ロータリーを過ぎたガソリンスタンド看板に目印。スタート   東進 7km

9:22四班(土屋、結城)958ポストスタート。旧策定終点で待機することにする。

  ナビ車は一班迎え戻る。                      東進 7km

10:00前方に高速自動車道を見て956ポストより右折して旧道に入る。 

10:35待機場所に到着。

11:00全員(丁さん含め)で今回の終着点の公園大門に歩行。

11:30集合記念写真。   昼食後、計画内の市内観光に出る事とする。

1:00市内観光に出発。

  號国博物館(こくこく)BC1000〜BC700年代の墓、埋葬品など見学

  三門峡ダムの見学、エレベーターで降りて轟音を立てて放流される黄河の赤い飛沫を浴び、中華民族精神的象征と称する中流砥柱を見学。

7:00完了晩餐会。昨夜の東北料理店に酒を持ち込んで大盤振る舞い。

****予定より一日早く終了できたので明日は洛陽、函峪関へ足を伸ばす案が出て、ドライバーに見積り依頼、3200元。函峪関行かなければ2800元。(高速料金とガソリン代の追加程度と考えていたのに相手は車一台のキロ単位のチャージで要求しているらしい)決裂して行けなくとも良いと皆で腹をくくり、値引きを一晩考えてくれと預けて寝た。

歩行距離28km(後半累計268km、全累計560km)  三門峡 鴻志大酒店 宿泊

                                      (HONG ZHI HOTE)

第十二日 10月4日(木)

ホテル移動日に付き全装備ナビ車に搭載。

晴    

8:00ホテル出発。値引き後2800元を聞いて洛陽に向かう。

10:20洛陽 龍門石窟到着 見学

1:30うどん昼食後出発

2:30YULINGKOU付近前方事故のため停車

4:27動き出す。車内で白酒ちびちび飲み始める。

4:45三門峡パーキング。振り出しに戻る。

8:00?咸陽 航空大酒店に戻る。ドライバー劉さんに謝礼し帰宅を見送る丁さんの案内でホテル裏方向の空港関係者が行くという食堂街?で夕食する。

第十三日 10月5日(金)

帰国日

晴   

6:00朝食

7:00出発。丁さん同行してゲートまで見送りしてもらい別れる。

8:40出航、上海経由にて成田へ

4:00成田着。 各自荷物を受け取り流れ解散。ご苦労様でした。

 

感想

 にわかリーダーを仰せつかって研究不足のまま努めさしていただきました。歩行に関しては各班各員が道路事情が悪い中よくがんばったと思います。班割りや部屋割りについても協力してくれるメンバーでした。共同食品や飲み物に関して持ち運びを担当させてもらい、且つ開催場所をリーダー室にすると皆さん暗黙のうちに決めておられて、私と同室の方にご迷惑をおかけしてしまったことを反省してお詫びします。当初の計画外のトンネル除外、三門峡でのホテル替えと連泊、更に洛陽への観光などいろいろありましたが、皆さんの協力で実施できました。

ガイド、ナビ車の件ですが各班配置後1,2回の巡回を机上で計画しましたが実質的には4班85kのスパンでは配置に2時間余、戻って2時間は要するので一班などはほとんど終了しているので次の巡回は無理でしょう。各班の歩行距離を25〜30キロに設定すれば可能でしょうが、老齢者が多くなった現状から20キロ+α程度が妥当。したがって車は一回戻りにならざるを得ない又交通渋滞も考慮しておかねばならない。

ただ二日目に車は最終4班を送って、最初に拾うことをしたので一斑、二班はたっぷり待つことになった。夜、面子のこともありドライバーを追い出して個室として丁さんに最初に歩き出した班が最初に終わるのは常識、それから拾うよう抗議した。送り迎えのことのみでなくその方法なども常に確認指示が必要である。

今度の期間は小雨や、霧、霞、スモッグ?で今までとは違う(蘭州を除いて)環境の中を歩いた故か、あまり気分が乗らなかった。やはり青い空、澄んだ空気ぎらぎら太陽、流れて塩になる汗が恋しくなった。しかし人々の素朴な優しさは他のコースとも変わらずありがたかった。

老夫婦だけでのもろこしの収穫や家の前で女家族での皮むき作業、前庭に乾燥

させているもろこし粒の少量さを見ると貧しさを感じてしまうのは間違いだろうか。

元気な若者の姿が農村部で見当たらなかった。現金収入のため出稼ぎか?

畑をつぶして植樹をしようというような看板を見たが環境問題と農村部の経済格差

是正はどうなるのか、今も気分が晴れない。

 都市部、西安や洛陽に林立している建築中の高層マンションとこれら農村の

ヤオトンなどの住居の人、道路沿いでコンロで料理したうどんなどを朝晩食している人などと、どのように結びつけたらよいのか今も気分が重い。

それでも、西安を歩いた、三門峡まで歩いた、洛陽へ行ったという満足は得た。ともに歩いていただいた仲間のおかげと感謝しています。

                                 以上。       2007-10-16

 

 

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中国西部6の感想・和田(3期)

中国の最西端、新疆ウイグル自治区(西部1)を歩いて以来2年のブランクがあり、最高齢(72歳)メンバーとして体力に自信は無かったが、今回の西部6では後半参加で西安から東へ三門峡までの300kmを歩いた。西部1では天山山脈を右に見ながら天山北路を歩いたが、西部6ではいよいよ中国の中原、黄土高原に入った。古都西安は城壁こそ残すが周囲は近代都市である。

黄土高原は肥沃な地質らしく、リンゴ、柿、柘榴などのフルーツ街道であった。丁度リンゴの収穫期で、老人が袋詰めのリンゴを自転車で運び、村の集荷所からは大型のトレーラートラックがリンゴを山積みにして国道を驀進していた。中国はリンゴの生産では世界一と聞いた。

黄砂塵で終日遠景は霞んでいたが、幸い天候は曇り続きで日照りに悩むことも無く、1スパン20kmは余裕をもって歩けた。昼食も村の飯屋、マーケットの中の麺類屋で素朴な味に出会えた。

観光地西安では、兵馬俑博物館の館内で販売している日本語版の写真集を買ったが、解説文の日本語が全くでたらめでがっかりした。西安の空港で土産に買った菓子は、大きな紙箱の3分の2は空洞で土産に配るのを止めた。最近の日本でも、地方名産品のインチキが話題になっているが、“旅の恥はかきすて“ならぬ”旅の土産は信用できない“は何処も同じだと思った。しかし、街道の村、街で出会う人々の親切、笑顔には救われ、激動の歴史を経験した中国の庶民の逞しさ、優しさが印象に残った。

西安から東は日中戦争で日本軍が占領した場所もあり、どんな反日感情に遭遇するか少し気になる。今の中国を正しく理解し、互いに良き隣人になるため、中国近代史、特に辛亥革命以降を勉強している。

以上

 

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中国その6を歩いて  新井

9月28日午後1時、小雨に煙る西安西門(安定門)に到着した。このとき私の中でイスタンブールから始まったシルクロードの旅が終わった。

シルクロードを旅してみたいとの思いはいつ始まったのか定かではない。28年前のNHKで始まった特集番組より前だったことは確かだ。スタインやヘディンの探検、それに触発された日本の大谷探検隊達の難行苦行の物語を読み、それと子供も頃の西遊記が重なってきた。アレキサンダー大王の東方遠征、張騫の西域遠征、三蔵法師の天竺への旅、マルコポーロの東方見聞録などがいつしか一つの思い、シルクロードを歩きたいとの気持ちに固まってきた。

 中国の歩行はカザフスタンとの国境コルガスから始まった。それまでの中央アジアの国境の雰囲気とはがらりと変わり観光客が記念写真を撮り合う開放的なものだった。2000メートルの高原を超え共産党の屯田兵の作った街とすぐ分かる地名をいくつかたどりながら石油開発に沸くウルムチに入る。砂漠の中の無数の発電用風車に驚き、いかにも観光目当ての嘉峪関ではあったが記念写真を撮り、マルコポーロも見たという張掖の大仏は修復中と云う事でシートの中だった。河西回廊を抜けて蘭州へ出るとそこは25年前に訪れた街とは全く違った近代都市と化していたが黄河は今もその名のとおり黄土の濁流であった。

今回の歩きは過去の思いを胸にしながら締めくくりの旅であった。侵食された台地をいくつかの下りと登りの繰り返しはあったものの、黄土高原の道はこれまでと違って、国道の両脇は殆どが唐もろこしの耕作地となり、大きな街も点在する所たった。西安に近づくとともに平地となり、人口密度が濃くなり、人とのふれあいが希薄になってきたのは残念だった。また天候不順のためもあったと思うが西安に近づくに従い空気の澱みがきつくなってきた。大気汚染が進んでいるような気がした。

西安の町ではそれまでの食事では考えられない120元という高額の餃子を食べた。2000年の昔から我々のようなおのぼりさん相手の商売はあったのだろうと想像した。

 歩きの終わりは三門峡だった。蘭州で北上した黄河にここで再会し濁流の飛沫を浴びてきた。ついでに洛陽まで足を伸ばし世界遺産の龍門石窟も見てきた。更に青海省の西寧から青蔵鉄道に乗りラサまで 5000メートルの峠越えの26時間の列車のたびを堪能してきた。これらも多くの仲間があってこそ実現できたのだ。同行の諸氏だけでなく、歩きを企画をし、旅行社との折衝や留守宅との連絡を引き受けていただいた方々、その他関係者の皆様に心よりお礼を申し上げるとともに皆様のご健勝をお祈りいたします。

以上

 

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中国その6の歩行(2007.9.2810.5)森 正昭

中国を歩く旅は、今回で3回目、いずれも秋の参加である。今回の“中国その6”は、約2週間の歩行だったが、自分の都合により後半の西安〜三門峡のみ参加となった。旅行期間は8日間、実際に歩いたのは4日間だった。

<西安の空気>

今回一番印象に残ったのは、天候というよりは空気といった方が良いかもしれない。一日中、もやがかかったような状態なのだ。最初は「今日の天気はこんな曇りなのだ」と思っていたが、毎日がもや状態なのだ。そのうち、黄土が空に舞い上がるのと、大気汚染のせいなのだろうと思うようになった。

この黄土地帯では、ほとんどの丘陵が段々畑として利用され、黄土がむき出しの急な崖になっているところも多く不安を覚えた。日本でなら崖の部分はコンクリート用壁とかコンクリートを吹き付けた壁になっているのが当たり前のところだ。ここ黄土地帯では、雨が少なく、土が流れてしまうことがないからなのだろう。

“その6”の前半歩行組は、雨の日にぶつかり、どろどろ状態の道で苦しんだらしい。そして、晴れてくると、そのどろどろは、埃となって舞い上がるのだそうだ。どちらにしろ、始末が悪いのだ。

歩行の途中で、昔懐かしいオート三輪が、「ダッダ、ダッダ」とエンジン音を響かせ、石炭を運んでいた。食堂では、炊事燃料に石炭を使っていた。家庭用燃料には、懐かしい練炭が使われていることが、道端の側溝付近に山住みされた灰から想像できた。人家が多い地域で、家庭ごみが道路付近に捨てられている風景は、美しいものではない。

火力発電所の煙突からは、もくもくと煙が流れ、石炭を使っているようだった。この石炭燃料は大気汚染の大きな原因となっているのだろう。このもやのような空のもとでは、気分がめいり、息苦しくなってきた。

<車事情>

国道がちょっとした集落に入ると、タイヤ、車体、オイルなど車関係の修理屋が軒を連ねている。修理対象の車は、トラクターから運搬用の小型トラックなど。また、洗車屋が出てきたのは、目新しい光景だった。

国道を走る大型トラックは大体荷物を満載している。急な下り坂のカーブで曲がりきれずに、溝に突っ込んだトラックを2回ほど見かけた。歩行の際は要注意である。

積載オーバーのトラックが事故を起こすのだろう、ところどころで警察官が積載重量の検問をしていた。

歩いていると、「シュー」と小さい音を出して通り過ぎるバイクは、電動バイクだった。手軽に乗れるメリットがあるのだろう、主婦たちが主に使っていた。マイクロバスのドライバー・劉さんに聞くと、電動バイクでも免許が必要とのこと。

乗用車も走っているが、ほとんどは業務用で、自家用車は少ないらしい。ガイドの丁さんは、「トヨタのコロナはこちらでは300万円、日本では130万円なのに高いよー」とぼやいていた。日本車は、トヨタ、ニッサン、イスズ、ホンダ・・・、ドイツ車も多かった。

<都市部の風景>

西安、洛陽などの都会は、ビルの建設ラッシュだ。30から40階建がのビル建設が進行中だ。丁さんによると、ほとんどが住宅とのこと。それだけ、購入者がいるということなのだろう。購入金額がいくらなのか、聞き忘れた。

西安郊外では、高速道路や新幹線の建設も進んでいる。数10mの高さの橋脚の下に立ち並ぶ、古い民家との対比がアンバランスだった。

<農村の風景>

桐の木が続く一帯があった。日本に桐のたんすとして輸出されるのだろうか?また、柿の木は実をいっぱいつけ、それを竹ざおでとっている人たちの姿が見られた。日本と同じ風景だ。国慶節の休みとあって、家族総出で柿の木に登り、実をもいでいる風景も見られた。

ここ、黄土地帯では緑はあるのだが、せいぜい5m程度の木々しかない。それ以上育たないのだろうか?

農作物はトウモロコシが多い。収穫されたものは、乾燥のために自宅の庭や道路に並べられ、河西回廊から続く風景だった。晴れた日にはこの黄色がとても美しい。目新しい作物はゴマ、収穫されトウモロコシと同じように、自宅の庭などで乾燥されていた。

よどんだような空の下では、農家も豊かな感じではなかった。明るい日差しの下で働いていた河西回廊の人々の方が、生き生きしていたように思えた。

<三門峡ダム>

ダムでせき止められた黄河の流れは、水門から一気にほとばしり、土色の水煙をあげていた。黄土混じりの水煙が運ぶのか、ダムも、建物も、周りの山々も全て土色、そして空気もその色に染まっていた。

発電所の発電量は、約100kwだそうだが、泥水で回る水車の寿命はどうなのか、もと電気屋としてはつい考えてしまった。

ダムサイトの上に立つと、太陽の光はもやにかすみ、息苦しくなるような風景だ。

今回の歩く旅は、この黄河の茶色に象徴され、昭和30年代に戻ったようなセピア色の世界だった。

以上

 

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中国西部6を歩いて  結城

大阪府立大WVOBで、荒井龍男さんの古い山友達として約3年前からユーラシアを歩く会の歩行に参加させて頂いてきました。

 私が初めて参加したのは、たまたま歩く会の計画が丁度中央アジアを歩き終え、カザフスタンから中国に移る時で、私にとっては中国のシルクロード天山北路の最初から歩行に参加させて頂いたことになります。それ以来、毎回参加で3年間、計6回参加したことになり、何故か中国歩行の連続6回参加は私だけという結果になったようで、今回の西安でのパーティーにも参加させて頂きました。

 初めて参加したときの印象は、毎日2528キロ歩くということで、40数年ぶりに2週間の夏合宿に参加しているような感じでした。

マメのできた足を引きずりながら、早足の大先輩の後を追うということに一生懸命で、カメラを使う余裕もあまりありませんでした。

 それでもスイスの牧場を連想させる美しい谷間の風景と羊、山羊、牛、馬などの放牧、養蜂とカザフ族の移動住居ゲル、谷間を登って標高2000bを超えると湖と平原の見渡せる大地に出て、遠くの山裾まで緩やかに広がる薄緑の刷毛で薄く掃いたような草原の広がりに、思わず足を止めてシャッターを押し、あわてて先行の仲間の後を追うという、新たな感激とマメとの戦いの苦闘の毎日でした。

 天山の水を引いた灌漑水路とウネが1kmもの長さの広大な綿作りの農地とポプラの防風林。天山の北の高原はモンゴル高原?と屯田兵の開拓した農地(人民軍の兵団の村の表示が多い)、イスラム教徒の帽子の素朴な貧しい、しかし穏やかな表情の人たちの世界でした。

 ウルムチをすぎて天山を南に横切り、海抜ゼロメートル以下のトルファン盆地に入ると様相は一変し、川の水が自然に消滅する内陸川、「月の砂漠」の歌で連想してきた砂漠とは大違いの礫と土の荒れ地(何もない所という意味のゴビ灘)の広がる乾燥地帯、草木も生えない火炎山の世界となった。

 天山の万年雪の雪解け水の恩恵がある一部の水脈付近だけの、ポプラに囲まれた緑の農作地帯がオアシスとして所々に遠く霞んで見え、半日歩いてようやく緑に近づくという中国の広さを体で実感する毎日でした。

 人々の顔もイラン系を思わせる顔立ちと、時に青い目の人たちが多く見られるようになりましたが、生活ぶりはウイグル族としての貧しいが穏やかな顔立ちに見えました。

 トルファン、高昌故城、交河故城、火炎山、ベゼクリク千佛洞、敦煌の観光は新たな感動の世界でした。仏教伝来の故郷は洞窟の壁画などからも、日本人の心の故郷を感じさせてくれるものでありました。

 ゴビ灘、時に緑のオアシス、ブドウ、ハミウリ、綿花の世界。これが新彊ウイグル自治区と甘粛省との境の星星峡(ここでは部屋にシャワーも洗面所も水もなく、共同トイレも外の砂漠がおすすめという「招待所」泊)を過ぎて、敦煌をかすめて柳園を通り、河西回廊に入っても、左の天山山脈が右のカレン山脈に変わっただけで、同じような砂漠の中のアスファルト道をただ黙々と歩き続ける毎日でした。

 時に数百もの風力発電機の林立する地帯を過ぎ、散在する石油汲み上げポンプを眺め、満載の石炭輸送トラックの群れを眺めて、中国の発展の勢いを感じながら歩きました。運転手もにこやかに挨拶に応え、時には車を止めて水や果物を提供してくれることもありました。

 玉門鎮、酒泉、嘉峪関と進むに従ってウイグル族から漢族の支配の臭いが強くなり、万里の長城の遺跡とともに豚肉を使う中華料理の店が増えだし、異民族の地から漢民族が支配権を伸ばそうとしてきた地帯へと踏み込んできたことが周囲から感じられるようになりました。

 中国5歩行で3000mの峠烏鞘嶺を超えると黄河の流域に入り、所謂黄土高原地帯に入りました。周りの風景は農村地帯とは言うものの、雨の少ない乾燥粘土の大地の深い谷間に石垣もなしに作られた数百段にもなろうかと思われる段々畑に痩せ細った麦が植えられ、急傾斜地の段々畑の一部の平らな土地に土煉瓦の粗末な家が建てられている。

 ハンドトラクターもなく、未だに人手に頼って耕作しているような、小規模な貧しい生活が営まれているのが感じられる世界でした。そこは豊かな漢民族の農民の世界ではなく、中国でも最も貧しい農村地域だとのことでした。

 黄河沿いの甘粛省の省都「蘭州」は内陸工業地帯で、火力発電や化学肥料工場などの煙突が多く、もくもくとはき出される煙は大気汚染の発生地のような印象で、黄河も黄色く濁った泥水の流れで、とても豊かな自然豊かな農村とは感じられません。

 周りの山もハゲ山続きで日本にも来る黄砂の源を感じさせました。現在は新潟県、新潟市との連携で周りの山に植林が進められ、周囲は羊や山羊の放牧が禁止されているとのことです。山羊は植物を根こそぎ食べ尽くすのでハゲ山の元凶と言われています。「豊かな黄河と農村地帯」は遙かな下流のことで、ここではその期待は外れました。

 貧しい農民の甘粛省から一つ山なみ(1500m位の丘)を越えて寧夏回族自治区を経て陝西省に入り、ようやく少し豊かな農村地帯に近づきました。広い畑には大きなトラクターが入り、トーモロコシと麦が大規模に栽培され、道ばたではリンゴや梨等の果物栽培も盛んなことが感じられました。<br />

 食べてみると日本のリンゴのように美味しい「紅富士」という名のリンゴが大量に収穫され、ジュースやジャムの工場も多く見られました。

農家の収入も増えつつあるようで、道ばたの塀に書かれている標語も、一人っ子政策に関連した「女子虐待禁止」や、「女子の養育や進学に補助金を出す」「女子の結婚に援助する」などの表現が少なくなってきました。

 西安に近づくと、古いお寺や古い陵墓などの遺跡も所々に見られるようになり、より一層、昔からの豊かな穀倉地帯という期待したイメージに近くなってきました。

 かくして私の中国シルクロードの歩きが西安のシルクロードの起点の駱駝の像(玄奘三蔵の隊?)、西安の西門(安定門)にたどり着き、西安の中心の鐘楼、鼓廊でもって終着点を迎えました。

 西安のパーティーにも参加させて頂き。中国西部歩行への参加にも一つの心の区切りを得ることになりました。

 今回は後半の歩きによって、陝西省から河南省に入り、歩き終ってからはメンバーの賛同も得て車で足を伸ばし、何時かは訪れてみたいと思っていた洛陽の、龍門石窟の観光も果たすことができました。

 この先北京の方面は、今までのシルクロードの新鮮な感激の世界とはひと味違う現代中国の世界、特に北京五輪に向かって急速に変貌する世界を見る旅となるような感じがしています。私はお休みさせて頂きますが、皆様の「一路平安」をお祈りします。

 25年前の「NHKシルクロード特集」を見て鬼太郎の音楽とともに「シルクロードのことは夢のまた夢」と感じてきたことが、荒井龍男さんのお誘いによってユーラシアを歩く会の歩行に参加させて頂き、皆さんに快く受け入れていただき、ともに歩かせて頂いたことに、改めて心より感謝したいと思います。

 年金生活のはじめに当たり、体力を温存しながら大きな感動と達成感を噛みしめることができました。これからも体力と気力が続く間に、今しかできないことに挑戦し続けて豊かな老後に花を咲かせていきたいと思っています。とりあえず来春は荒井さんと土屋さん、跡部さんとともに、トルコの歩き残されたルートの歩行に参加させて頂こうと思っております。

 中国西部1〜6歩行の経験をさせて頂いたこと、皆様から暖かく仲間に加えて頂いたこと、多くの感激と思い出と達成感、充実感を味わわせて頂いたことに、改めて心より感謝申し上げます。

 

以上