記録係 斎藤篤二記
ユーラシアを歩く会 行動報告書
1.計画コース概要 提出日:
地域分類 |
ヨーロッパ |
区間番号 |
30 |
国名 |
ブルガリア |
実施期間 |
2007.09.19〜30 |
計画区間 |
出発地ハスコボ 〜 到着地カピクレ |
参加人数 |
4人 |
2.メンバー表
No |
役割・分担 |
氏 名 |
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行き |
帰り |
1 |
リーダー |
中村文広(5期) |
出発日 |
平成19年9月19日(水) |
9月30日(日) |
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2 |
食料 |
川田智信(4期) |
出発場所 |
成田発 |
アテネ |
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3 |
会計 |
篠崎次郎(6期) |
到着場所 |
ブルガリアソフイア空港 |
成田 |
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4 |
記録 |
斎藤篤二(6期) |
使用便名 |
SU576 |
SU575 |
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5 |
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航空会社 |
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3.現地での歩行結果
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年月日 |
国名 |
出発〜到着 |
区間距離 Km |
天候 |
気温 最低/最高 |
1日目 |
9月19日 |
ブルガリア |
成田〜ブルガリアソフイア空港 〜スヴェタソフィアホテル |
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2日目 |
9月20日 |
ブルガリア |
市内観光と翌日の交通便のチェック |
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曇り |
17-20°C |
3日目 |
9月21日 |
ブルガリア |
バスでプロヴティフへ(市内観光)〜バスでハスコボへ (市内散策) |
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曇り |
13°C |
4日目 |
9月22日 |
ブルガリア |
ハスコボバスターミナルよりタクシーでストイコボへ 1班(川田、中村)ストイコボからハスコボ15Km(半農、半牧草、半遊休地帯) 2班(篠崎、斉藤)ストイコボからハルマンリ20Km(上に同じ) |
35 |
晴れ |
9〜22°C |
5日目 |
9月23日 |
ブルガリア |
1班(川田篠崎)ハルマンリからリュビメック17km 2班(中村斉藤)スヴィレングラードからリュービメック19km
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36 |
晴れ |
9〜22°C |
6日目 |
9月24日 |
ブルガリア |
カピクレより4人一緒に歩行開始、スヴィレングラード到着 全区間歩行完了 |
13 |
晴れ |
10〜23°C |
7日目 |
9月25日 |
ギリシャ |
テッサロニキへ移動 |
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8日目 |
9月26日 |
ギリシャ |
カランバカ観光 |
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9日目 |
9月27日 |
ギリシャ |
アテネへ |
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10日目 |
9月28日 |
ギリシャ |
アテネ観光 |
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11日目 |
9月29日 |
ギリシャ |
アテネからモスクワ経由成田へ |
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12日目 |
9月30日 |
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成田着 |
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気温はTVと体感による
概念図;
4.見聞録
1)ルートの状況 −ブルガリア、幸運の女神に導かれた旅−
5期 中村 文広
(出発まで)ちょうど一年前、歩き残されていたチェコ、オーストリア14,15区を歩いたメンバー4人がもう一度一緒に歩こうということになって、もう一つの空白区間であるブルガリア30区を歩くことになった。帰路はギリシャを列車で南下し、メテオラに立ち寄ることに決め、航路はアエロフロート・ロシア航空のモスクワ経由としたので、運航日の都合で12日間ということになった。
(散々の第一日目)9月19日成田を発ち、モスクワでソフィア往きに乗り換える。ロシアの航空機に乗るのは初めてで不安もあったが、機種はボーイング767とソフィアへは
同じ737でまずはよかったと思う。
モスクワでのトランスファの手続きは旧態然の手作業で延々と待たされる。ウィーン経由ならこんなことはないのにと悔やむ。列にソフィアに向うという一人旅の女性が二人いて、雑談して気持ちが和む。やっと手続きが終わって、少しの間に、取り合えずということで2階の安っぽいレストランに入る。ビール一杯ずつと一皿のサラダに51ユーロの勘定書きを見てびっくり仰天。わが生涯で一番高価なビールを飲んだ。
これが初日の不運の前兆。次に深夜に着いたソフィア空港では、急いで空港内の税関前にある両替所で円をブルガリアの通貨LV(レフ)に両替したところ、職員に一万円札の枚数をごまかされた。この日の締めくくりはホテルへのタクシー代、ぼられて倍額取られた。
ともかく散々の出だしで、油断も隙もない世知辛い土地へ来てしまったというのが第一印象だった。
(幸運の始まり、第二日目)しかし、不運は昨晩限り。一夜明けたあとはタイミングよく時の氏神に出会え、快適な旅のお膳立てができた。
今回の歩行では汽車での移動を考えていた。そこで、ダイヤ確認のため、二日目は朝一番にソフィア中央駅へ向う。しかし、駅に案内所もなく、時刻表を売る売店も、英語の分かる人もいない。とにかく取り付く術もなく、半ば途方にくれていると、「こんにちは」と呼びかける人がいる。中年のサラリーマン風の紳士だ。パナファコムに15年ほど前に来たことがあるという。英語が通じて事情を話す。「それならバスがずっと安くて便利ですよ」と、時計を気にしながらもバスターミナルの切符売り場まで案内してくれる。これが今回の歩行をスムースにしてくれた最初の大きなめぐり合い。
昼は中心部のレストランでケバブ(シシカバブ)、ピザと一本100円のうまいビール。モスクワの十数分の一以下か。少し貸しを取り戻したような気分になる。
ソフィアの旧跡は市の中心に点在し、歩いて楽に周れる。旧共産党本部の威容が往時を偲ばせる。考古学博物館ではブルガリアは180万年前にアフリカから渡ってきた最初の人類が住み着いたところとかで、数万年前からの石器もあった。紀元前数世紀前の墓から出土したという副葬品の技術の高さには、ただ驚嘆し、この地域の歴史の古さを改めて思い知らされた。
ソフィアの裏町
ソフィア中心街にある旧共産党本部
(地図の必要ない所、必要な所、第三日目)バスにしたお陰で、歩行出発点のハスコヴォへ直行し、ここを歩行の最初の拠点にすることが出来た。鉄道の便を考え宿泊する予定だったディミトリフグラードの宿には携帯電話で断りを入れる。ハスコヴォ直行になって時間が浮き、予定になかったプロヴディフの観光が出来た。こんな所にもあるローマの円形劇場の跡など見る。
ソフィアを出る頃雲行きが怪しくなり、プロヴディフへの車中で雨となったが、プロヴディフに着く頃には晴れ上がった。以降、行動中毎日雲ひとつない好天に恵まれた。
ソフィアから郊外に出ると、そこからトルコ国境までは殆ど景色が変らない。遠くに山が見えたり、低い峠の坂道を登ったりすることはあっても、基本的な景色は少しも変らず、その点砂漠の歩行に似ていた。ソフィアなどの本屋で地図を探したが、東京で購入した以上に細かい地図はなかった。バスで走ってみて理由が分かった。細かい地図が必要なほど地形や土地の利用に変化もなく、国道8号線以外東に向う道路はなく、沿道の集落も少ない。細かい地図にしても新しい情報は加わらない。ただコピー機で拡大したのと同じことになる。逆に都市部では、道は整然としているが、地図がないと手も脚も出ない。街に着くとキオスクですぐ地図を買った。
ハスコヴォに宿をとると決めた時点で、すぐに佐藤庄一さんのレポートにある”アイダホテル“が思い浮かんだ。バス停からタクシーで宿に乗りつけ、ちんぷんかんぷんの相手にともかく宿泊のOKを貰った。英語の分かる隣人の手助けで一室二人、一晩40LV(1LVは約80円)で話がまとまる。佐藤さんたちは60LVで泊まっているから得したような気になった。ただし、朝飯は出ず、シャワーの蛇口がないなど設備の老朽化が進んでいた。
プロヴディフのローマの円形劇場跡
ハスコヴォのアイダホテル入口に立つ川田さん
夕飯を求めて町をさまよい歩いた。地方都市はどこも、期待していた地元料理は無論のこと、まともな料理を出すレストランがない。食料担当の川田さんが東京で用意した写真入りの郷土料理のメニューを示すと、店員は分かるが、うちではやってないという。結局、初日はピザ屋で食べることになる。篤さんはチーズはいやだとドリア。サラダ、ビールとワイン二本を空ける。そういえば、マクドナルドのドライブスルーを何箇所かで見た。ピザショップが最もポピュラー。食文化も変りつつあるのだろう。
昨晩は金曜日でホテルの前の広場に若者が集まり、朝の5時まで騒いでいた。中国でも経験した、若者の行動様式がここでも同じ。同室の篠崎さんは2時から眠れなかったとぼやく。
(いよいよ歩行開始、第四日目)今日は9月22日土曜日。ハスコヴォのバス停にいる客引きの誘いに乗り、10ユーロで、15Kmほど先の今日の歩き出し地点のストイコヴァへタクシーで向う。第一班の川田、中村はここからハスコヴォに戻り、篠崎、斉藤篤の二人はハルマンリまで歩いて、そこからバスで戻るのが歩行第一日目の計画。ようやくブルガリアの大地に朝日の差し込む中、二組は東西に分かれた。
国道8号線は片側一車線で、砂利や草の茂った外側のわずかな側道を歩く。ガードレールのある部分では車道以外に歩く所がない。車は7,80Km/Hのスピードで走ってくるので注意して歩く。風が心地よく頬を伝い、暑くも寒くもなく、快調に飛ばす。遠くの丘のふもとまで一面に広がる、実の刈り取られているひまわり畑のところに着く。どのくらいの広さなのだろう、想像を絶する広さ。満開のひまわり畑の光景が眼に浮かぶ。
あとは耕された耕地、草紅葉のきれいな非耕作地。実に単調。家の近くではトマトなどの家庭菜園が見られるが、それ以外には野菜畑なども見当たらない。雨が少ないせいで、耕作には適さないのだろうか。どこまでも続く大地を見て、もったいないような気がする。
一路ハスコヴォへ側道を歩く
丘まで続く見渡す限りのひまわり畑
9Km地点に運転手の休憩所があって立ち寄る。ペプシを頼む。一本2LV.。ビールより高いのは当然か。まだ昼には間があるが、ハスコヴォの郊外の建物が近づいてきたので、その前に昼飯にする。この先の郊外は工業地帯で、巨大なソ連時代の工場が役目を終え崩れかけている隣では、ナショナルやサムソンの新しい工場が稼動し、若いきれいな娘さん達が昼の休みに駐車場で談笑している。これも時代の移り変わり写す風景のひとつ。
そこから一時間ほど歩いて、ハスコヴォに戻る。レストランを捜しながら歩くが全然ない。2時過ぎ部屋に戻ったら、二班の二人が続いて戻ってきてびっくり。幸運にもハルマンリのバス停に着いたら、すぐにハスコヴォに戻るバスがあったとか。この次は夕方の便のはずだ。
探査の甲斐もなく、今夜はバス停の二階のレストランで夕食をとる。ここにも何もない。鶏肉のステーキ、これは名物のオムレツ、それにサラダはトマトに刻んだチーズを振りかけたもの。ビールとワインを頼む。ワインは置いてなくてわざわざ買いに行ってくれた。締めて23LV.。信じられない安さ。帰りにケーキ屋に立ち寄り、ケーキとコーヒーを頼む。ここは7,5LV.。
今夜も早く寝たが、夜半から朝方まで再び外の騒音に悩まされた。
(繰り返しだった第5日目)今朝も快晴。今日から宿替え。荷物を全部持って、2泊したアイダホテルを出て、バスでスヴィレングラードに向う。7時に宿を出て、8時発のバスを待つ間が今回の最長の待ち時間。スヴィレングラードのホテルジョージはバスの運転手の口ぶりでも、地元の人の身振りでも近そうだったが、トランクを引きながら歩くと意外に遠いい。やっと見つけてドアを押す。小奇麗な3つ星ホテル。若くはないが愛想の良い金髪の美人の出迎えを受ける。英語はほんの片言。部屋がまだ空いていないとのことで荷物を置いてバス停に戻る。
またまた運よくハルマンリ行きのバスが出る所で、今日の1班の川田、篠崎は今日の出発点のハルマンリに戻る。今朝来た同じバスの折り返しだった。2班の斉藤篤、中村は再びホテルの前を通って、二班と落ち合う中間点のリュービメックに向う。昨日と違うのは沿道に高い木立が立ち並んでいること。昨年のチェコと同じ歴史のある道なのだろう。終始、左側にオリエント急行の走る鉄道線路が併走する道を進む。畑の景色は昨日とほほ同じ。特に変化は見られない。篤さんはわき目も振らずピッチを上げる。中村はビデオを撮っては小走りに後を追う。1、2日目とも2班に分けて歩いたが、正解だったと思う。今回2日で歩いた道を4日掛けて歩いたら、その単調さに飽きたかもしれない。
時々ロバの引く荷馬車に出会う。愛想よく挨拶する。乗れと勧めてくれる人もいる。だが、和田さんや藤田さんの写真を見て描いていたイメージとは違う。ここでは未舗装の田舎道なんて見当たらない。アスファルトの国道では荷馬車のロバには快適でも絵にはならない。
荷馬車の老人と篤さん
草紅葉の原野
3時少し前にリュービメックの街のバス停に着く。途中の店で買った冷えたビールを飲む。携帯電話での交信では1班は街まで4Km地点とのこと。バスが4時に出るよと知らせる。待つ間、地元の小学校高学年に見える子供たちと話す。きれいな発音で英語をしゃべるのに驚く。篤さんは歩行証明のサインを頼む。4時少し前に1班の二人がバス停に着き、定刻発車のバスでシヴィレングラードのホテルに戻る。今日はホテルで夕食をとる。レストランより割高。宿代は一部屋54LVを前払いした。
今回は時間に余裕があり、特に2階の部屋は広いもの干し場のあるベランダに出られるので干し場にも困らず、洗濯に勤しみ、汚れ物は何もなかった。ただ、4階に入った二人は荷物を運びあげるのに往生した。
夜は地元のお酒を空けて毎晩楽しんだ。何を飲んで、何がうまかったかは私には分からない。川田さんのレポートを参照されたい。
(トルコ国境に到達した第6日目)昨日、カピクレへの交通手段を調べていると、トルコの新聞記者だという人がいろいろ手助けしてくれた。その結果、イスタンブール行きのバスはカピクレには止まらないことが分かる。タクシーが唯一の手段。海千山千のタクシー運転手の中から良さそうな人を選ぶ。車は一番ぼろだが親切な良い人に巡りあった。結局この人には翌朝5時にギリシャ国境を越え、最寄の駅まで運んでもらうことになったが、
旅を快適なものにしてくれた二人目の恩人である。
話を元に戻すと、11LVで交渉成立。初日のタクシーのほぼ半額。車内に子供や亡くした奥さんの写真を何枚も貼っている。やがて、国境に到着。運転手さんの腕を強引に引っ張っていって国境のところでカメラのシャッターを押してもらい、通過証明書にサインを貰う。カピクレのスペルを知らないので地図を見せる。タクシーが帰ったあと写真を撮って
いたら検問所から人がでてきて、写真を撮るなという。だから先ほど彼は嫌がったのかと
思う。そそくさと検問所を離れ歩き始める。
トルコ国境の検問所前で
後方はギリシャ領、監視塔が見えますか
地図を見ると、トルコとギリシャ領に挟まれたツルのくちばしのように突き出た狭いブルガリア領をイスタンブールに向って高速道路が走っているように見える。もし本格的な高速道路ならどこを歩こうかと考えていた。しかし、実際行ってみると高速道路とは名ばかりで、昨日までの国道8号線と何ら変わりがなかった。ただ、道の両側には針金を張った柵があり、その300m程先にももう一つ柵が見える。遠いい柵の向こうに監視塔も見えることからこの空間が国境の緩衝地帯かもしれない。今はお互いに友好国だがブルガリアがソ連の陣営に属していた頃には緊張感があったのではないかと思う。翌日に陸路ギリシャに入国した際味わった物々しさが往時の名残かもしれない。皆の歩く姿を遠くから撮ろうと一人残ってカメラを構えていたら、不審者と思われたのか、多分公安関係と思われる警察官にパスポートの提示と訪問の目的など聞かれた。
前方を行く3人の写真を撮っていたら警官に呼ばれた
ブドウをくれたオヤジさん
そんな緊張感も道の両側にブドウ畑が広がるシヴィレングラード郊外に近づくと薄れてきた。ちょうどブドウの収穫時期で、そこかしこで作業をしている。挨拶すると呼び止められてブドウを3房くれる。両手でぶら下げて歩くのも大変で昼食とする。貰ったブドウは種があったが甘かった。
13時ちょうどにバス停に戻る。今日の実歩行距離は14Km。予定よりかなり短かった。
明日どうやってギリシャに行くかまだ決めていなかったので、5Kmほど離れたブルガリア国鉄のシヴィレングラード駅に行ってみることにする。タクシーのたまり場に今朝のタクシーがいたので、ガーラ(駅)まで行きたいと交渉する。4LVでOKする。駅まで行ってみると10時半頃に発車する列車があることが分かったが、駅員など誰もいなくてあとは何も分からない。するとタクシーの運転手が別の駅から6時半に出る列車があると教えてくれた。何度か聞いて、そこがギリシャ領のディケアだとやっと分かる。それに決める。ホテルまで戻って、明日は5時に2台の車で迎えに来てくれるよう頼む。料金は30LV。
これで全部終了。ホテルの食堂で乾杯のビールを飲む。毎日ビールを飲んだが、ブルガリアのビールは癖もなく飲みやすかった。話に花を咲かせている仲間を置いて、再び訪れることもないだろうこの静かな、緑濃いシヴィレングラードの街をまぶたに焼き付けるため表に出た。善意に支えられた快い旅だった。
ホテルで乾杯
ホテルの近くのメインストリート
追記;
今回ソフトバンクの携帯を持参した。毎日、知人や家内やオーストラリアに行っている息子とメールや電話で即時のコミュニケーションが取れた。またメンバーの川田さんとも東京経由で連絡を取り、現在位置の確認などに使い重宝した。技術の進歩が世界を狭くしていることを実感した旅でもあった。
幸運の最後の締めくくりは帰路、モスクワからビジネスクラスに座れたこと。歩く会の遠征でビジネスクラスに乗ったのは多分我々が最初だろう。ただし、飛行機が引返し、到着が7時間遅れた。この遅れのため成田で西安帰りの藤田さん達に会えたのはこれまた幸運。
2)ブルガリアの食事
食料担当 4期 川田 智信
料理
ブルガリア料理ということで事前にガイドブック等で調べておいた名前をオーダーしたら、煮込などを中心にしたあまり着飾らない物が出てきた。
後で考えるとこれらは、田舎料理または家庭料理の類だったようで、後日TVで放映していたブルガリアの旅の中でタレントがホテルで食べていたコース料理はフォアグラのソテーや牛肉のステーキ等もっと高級な物であった。
我々としては分相応の食事だったが、味はあまり癖が無いので抵抗無く毎回美味しく頂きました。
ディナーで食した料理。
@ ショプスカサラダ
トマト・キュウリ・玉葱などをぶつ切りにしてその上にすごく塩味の強い
シレネ(ホワイトチーズ)を掛けたもの。
Aタラトル
冷製ヨーグルトスープであるが非常に薄くてあっさりとしている。
B キュフテ
ブルガリアのハンバーグ、チュプリッザーというスパイスが効いているが
ぱさぱさしてあまり感激は無かった。
C オムレツ
オムレツはオムレツ、どこで食べても大差なし
D ムサカ
ひき肉と野菜の重ね焼き、卵も入っていてお好み焼き風。
E カヴァルマ
ラム肉と野菜の煮込み料理でブルガリアではもっともポピュラーの料理。
その他
@ ランチはケバブとピザ
ラム肉の薄切を厚さ50cmくらいに積み上げ棒でつるして回転させながら表面を焼き、焼けた所をそぎ落としてナンに似た小麦粉の焼いたのに乗せる、その上にザチキと言うヨーグルトにきゅうり・玉葱・おろしにんにくなど加えたソースを載せて巻いて食べる、我々の食べたのにはフライドポテトものっていた。ドイツ在住時代に豚肉の物を食べたが、イスラム教の関係でか他の国は羊のようだ。
ピザは直径50cmくらいのものを切り売りしている。
A さすが農業と畜産の国です、野菜(キウリ、パプリカ、キャベツ、ネギ等)は
新鮮で水分が多く、サラダにも何にでも最高(日本で言うと生産地で食べる朝取りの野菜の新鮮さ)ヨーグルトは色々な種類があるそうだが、我々の食べたのはホテルの朝食時に出た物だけで、そのままだと明治ブルガリアヨーグルトそのものだった。
しかし蜂蜜を乗せて食するといけます。食べたチーズはいつもサッパリ系(他のものは味わう機会がなかった)、肌合い、色はモッツァレに近いがそれより粘りが少ない(山羊の乳か?)
B 秋なのでブルガリアではマナタルカと言われるポルティニ茸があるかと思っていたが街中では見当たらず料理にも出くわさなかったのは心残り。
酒類
@ ワイン
ブルガリアといえばヨーグルトとなるがワインについてはトラキアといわれた3000年前より更に1000年位前の頃から作られていてヨーロッパでは最古のワイン製造国といわれ赤が主流である、しかし我々の飲んだワインはボルドーのような重いものではなく、チリとかカルフォルニア製と同じく癖の無い軽い物ばかりであった。しかしこのことでブルガリア製ワインを綜合評価してはならない。
予算の都合上レストランで注文したのは大体1500円位のものである、ブルガリアワインの価格帯は街中で150円から1000円くらいだそうで、多分中間くらいの物ばかり飲んだのだろう、ちなみに日本での販売価格を調べたら95年物(赤)900円〜94年物(赤)2380円であった。
現地1000円物を飲めばもっと重厚な味がしたかもしれない。
メンバーは皆十分満足していたのであるが又のチャンスには1000円物も試してみたい。
A ビール
ブルガリア製のビールはあまり癖が無く抵抗無く飲むことが出来た(キリンラガーのような苦味は無い)逆に言えばドイツビールなどと違って、これぞブルガリアビールと言うような特色はない
毎日ビール&ワインに満足しほろ酔い気分で就寝できたが、おかげで銘柄はすっかり忘れてしまった、しかし次にいかれる皆さんどれを頼んでもはずれは無さそうなので、ご安心ください。
一つ残念なことは、ブルガリアの後渡ったギリシャでウーゾというなかなかいける蒸留酒(焼酎40度)に出会ったがブルガリアではこれはマスティカと呼ばれ、更にぶどうから作る物ではラキーヤ呼ばれる蒸留酒があるそうですが、事前の勉強不足で味わうチャンスの無かったことです。
全体的にローカルなブルガリアは食事良し、ワインよし、ビールは特に味が良くて安い、日本人に良くあって言うことなし。
日本で年金もらってブルガリアに居を構えれば少なくとも食に関しては優雅な生活になること請合います。
5.ブルガリア歩行会計報告
会計係 篠崎 次郎
航空運賃 {燃料追加分、空港利用税、含み} 143,300
ホテル代 ホンダ支払い分{6泊} 45,650
現地支払い分 {4泊} 8,550
食事代 レヴァ分 8,410
ユーロ分 20,170
交通費 レヴァ分 4,800
ユーロ分 9,370
観光 レヴァ分 1,460
ユーロ分 4,290
他 保険代金 、他 6,140
合計 252,140
土産、交通費及び飲食の一部は各人負担分がありますが含まれていません
10円単位に丸めてあります
レート ブルガリア 1レヴァ 91円
ギリシャ 1ユーロ 165円 で換算
多少の変動があります
メモ ホテル代は現地分が安い
食費は ギリシャが ブルガリアの2倍
交通費はバス利用で安い
アテネの観光が高い
以上