ユーラシアを歩く会 行動報告書

The Trans-Eurasia Walking Journey Program

1.計画コース概要                                 提出日:

地域分類

ヨーロッパ

区間番号

14,15区

国名

チェコ、オーストリア

実施期間

11日間

計画区間

 

出発地 Prachtich(プラハティチェ)

到着地 Krems (クレムス)

参加人数

4名

 

2.メンバー表

No

役割・分担

氏   名

 

 

行き

帰り

リーダー

中村 文広

出発日

2006/9/11

2006/9/21

記 録

齋藤 篤二

出発場所

成田

ウィーン

会 計

篠崎 次郎

到着場所

プラハ

成田

食 事

川田 智信 

使用便名

008便

007便

 

 

航空会社

British Air

 British Air

 

3.現地での歩行結果

 

年月日

2006

国名

出発〜到着

区間距離

Km

天候

気温

最低/最高

日目

9/13(水)

チェコ

@VelesinCeskyKrumlov

10

晴れ

12/25(推定以下同じ)

9/14()

チェコ

@BrlohPrachatice

ABrlohCeskyKrumlov

40

晴れ

6/23

9/15()

チェコ・オーストリア

@TrhovSvinyVelesin

ATrhovSvinyNoveHrady

BGmund NoveHrady

46

晴れ

12/27

9/16()

オーストリア

@GmundGrossglobnitz

AZwettlGrossglobnitz

BRastenfeldZwettl

36

晴れ

17/23

9/17()

オーストリア

@RastenfeldLoiwein

ALoiweinKrems

35

晴れ

6/25

 

9/18(月)

オーストリア

@KremsDurnstein

10

晴れ

10/20

 

 

 

 

 

 

 

区間概念図

 

4.見聞録

1)ルートの状況

出発点となるチェコ南西部の小都市Prachtice(プラハティチェ)からオーストリア国境の都市、Gmund(ギュムント)を経て、ドナウ河の左岸に開けた歴史のあるKrems(クレムス)までの167Km余りは緩やかな上り下りの続く丘陵地で、ある時は森の中を進み、またある時は牧草地の中を進むという具合で、今回の行程中、クレムス渓谷以外は殆どその景色は変わらなかった。中世の歴史を残す地域で、点在する集落の戸数も少なく、昔からの馬車の通ったような歩道のない道を多く歩いた。そんな狭い道でも自動車は70Km以上で疾走するので、常に気をつけて歩いた。

宿から出発点への移動はバスを多く使った。集落を結んで走るバスは子供の通学用で、時間帯も限られ、土日は運休になる。従って、ルートの選定、歩行時間はバスのルートとダイアに依存するため、事前にインターネットで綿密に調査し、歩いた。そのため、田舎の割には、「時間を気にしない、気ままなワンデルング」というわけにはいかなかった。少しでも歩く楽しさを増やすため、また歩行距離を短縮するため二人づつに分かれ、部分的には一人になって歩いた。

(中村記)

 


2)自然環境

ボヘミア南部を通るこのルートは広大な丘陵地で、放牧場、畑、森林の多い地域である(歌おお!牧場は緑”の舞台)。山岳部もあるがルートからやや離れていて山の高さは丘陵地との高差凡そ1000m以下である。

9月中旬のこの頃農地は一部にトウモロコシが植えられている以外収穫も終わり地肌を出し、牧草地には大きな干草のロールだけが散在し、放牧はあまり見られない。街道沿いの森の樹高は10mほどで、樹木の密集度は少ないため暗い感じがしない。カバ、ナラ、カシワ、カエデなどの落葉樹や赤松が多く見られ、大きな防風帯を成している。

チェコでは、色ずいた実をつけたリンゴやナナカマドの木が、畑や道路境の土地に無造作に植えられている。リンゴの実は小さくジャムや料理に使うのかもしれない。

ドナウ川に近いクレムス付近では、今収穫時の葡萄畑があちこちに見られる。急勾配の山も段々畑として貪欲げに使っている。それにしても温暖な気候が続くのか菜の花が一面に咲き競っていた丘もあった。クレムスの川辺の路傍では低山帯の野草、キキョウ、唐松草、アキノキリンソウ、野菊類、マツムシソウ、ツリフネソウ等が咲いていた。

 

 歩行した小さな村々は、都会のプラハとは違い長閑なメルヘン的魅力を放つ。人家の佇まいは優しく、教会の塔がアクセントをつけ、青く澄んだ空、広大な森や畑とのコントラストが美しい。この味合いはどことなく日本の富良野や阿蘇の山村の地と相通じるが、自然の厳しさはまったく感じられずむしろ暖かみを覚える。気温は早朝5℃位でも昼間は20℃以上の暖かい日に出会ったからであろうか。このあたり全体が世界遺産といってもおかしくない。かりに道路の舗装がなければ、何世紀も前にタイムスリップした田園風景である。1日目の歩行ではまさに世界遺産のチェスキークルムロフをゴールにし、瀟洒(ぜいたく)を味合った。適度にかいた汗が引き、心地よいひと時を川べりのテラスで休憩し気分は最高。見物人も少ない古城の塔と城壁を鑑賞した。ループ状に流れるウ"ルタウァ川の川面は優しい陽ざしの部分と陰影部があり、柿色の屋根の家々ははっきりした存在感でしかも自然に溶け込み、歴史の重みを確実に継承している姿を俯瞰した。

 

 


3)人々の暮らし

人々の暮らしと言う課題であるが、何処まで本当の姿が書けるか大変難しさを感じている。何故ならば我々はチェコ、オーストリヤのごく限られた一部(チェコの南部:プラハテイッチェ‐‐チェスキークロムロフ‐‐ノバハーデー、 オーストリヤの北東部:ギュムント‐‐クレムス)を歩いたに過ぎず、ホームステイなどして生活をともにしたわけでもなく、また長期滞在したことでもなく、単にツーリストとして通過しただけである。従って外から見た人々の暮らしを感じ推察したに過ぎない、と考えている。しかし人々の生活を知る上で欠かせない知識としてその国の歴史的背景はどうしても触れておかなくてはならない1つであろう。そこで両国の歴史的背景をごく簡単に触れて見たい。

 

 チェコのボヘミヤ地方は10世紀末に初めて王国として統一され、11世紀にはドイツからの移民も入り、建設、鉱業が発展、銀の産地として豊かに成った。しかしこの王国も3世が暗殺され滅び、14世紀にはカレル1世がハプスブルク家の対抗として神聖ローマ皇帝に選ばれ発展、カレル大学、プラハ城、カレル橋など建設された。15世紀になると宗教改革が始まり指導者ヤン‐フスが絶大な人気を集めるがローマ法王に処刑され、これに人々は怒り、戦いが続いた。そして一度はハプスブルク家を王として迎えたが、カトリックに対する抵抗から宗教戦争に突入した。しかし長い戦いに敗れ再びハプスブルク家の支配下に入り、暗黒の時代と言われた時代が400年間も続いた。その間チェコ語は公用語として認められず弾圧された時代であった。そして第1次大戦後はスロバキアとの共和国として独立したが1次ドイツの支配下に入った。第2二次大戦後はチェコスロバキア共和国としてよみがえったが共産党の支配が続き苦しんだ。そしてベルリンの壁が崩壊すると反政府デモにより共産党は崩壊し独立、1993年には連邦を解消してチェコとして独立した。

このようにチェコの人々は長い間痛めつけられた歴史を背負って今日に至っている。

 

 一方オーストリヤは13世紀から600年間ハプスブルク帝国の華やかな時代が続き他国からの支配も受けず、ある意味では安定した国であった。そしてウイーンを中心に歴史的建造物も多く、その迫力には圧倒されるものがある。また音楽の都ウイーンと言われる様に、芸術面でも素晴らしい発展を見たのである。しかしこの裏で苦しみ泣いていた人々も多かった事と推察される。

 このような歴史的背景が人々の暮らしの中にどのような違いとして現れているのか、残念ながらそこまでは感じ取ることは出来なかったが、最近のテレビで見た話で「こうして仲間と一緒にビールを飲み、チェコ語で語り合える幸せ、たったこれだけの幸せを得るのに何百年かったのだろうか」と言っていた事が印象強く残っている。チェコの人々の気持ち、心がこの一言に読み取れる気がする。以下に幾つかの項目にして暮らしぶり、感じたことを記してみたい。

 

@  古い町並み、建物との共生

   我々が目にした代表的な古い町並みを挙げれば 

  プラハ:プラハ城、カレル橋、旧市街地、など

  チェスキークロムロフ:チェコのヴルタヴア川に沿った盆地に出来た中世

        の町並み、世界一綺麗な町と言われている世界遺産

  デユルンシュタイン:ブドウ畑に囲まれたクーエリンガ城跡とその城壁に

        囲まれた小さな中世の町

  ウイーン;ハプスブルク家の歴史の街   があげられる。

  どの代表的な町もその歴史的な建造物のわき道を、あるいは中の道を人々が通勤に買い物にランニングにと行き交い、まさに共生している。不便さもあろうがその歴史的建造物を上手に活用しているようだ。こうした町に生活している人々は生活様式が古くて不便かと思うが決してそうではないようだ。建物の外観は基本的に改造が許されていないが、中は時代に合わせた改造をし、現代に合わせた生活様式にすることが許されているとの事である。

  このように上手に共生し古き良き物を大事にしている。

 

A  農村と森

   町を外れると我々が歩く道はボヘミヤの森と大きな丘が続く牧草地、そこには冬に備えて刈り取った牧草が大きな束に巻かれ、あるものはポリのシートなどでパックされている。そんな中をしばらく歩くと再び森の中の歩行が続く。高さ30メートルはあろう森、充分な森林浴を楽しんでいるとまた広大な牧草地に出る。この広大な牧草地のわりに牛、馬、羊などあまり姿を見せないのは何故だろうか。こうした歩行が続く中に所々集落が出てくる。こんな情景はチェコもオーストリヤも同じだ。しかしよく見るとチェコは酪農がほとんどであり、オーストリヤは酪農と麦などを刈り取った後の農地とが混在していた。また農家はどちらも大きな家で裕福な感じだがオーストリヤの方が立派でセンスも良く綺麗だ。ともにまだ薪ストーブが使われているらしく庭先に薪が積まれている。そして薪割りの音が響きのどかさが漂っていた。

   ドナウのほとりクレムスまで来ると農村も一変する。周りはすべてブドウ畑、その中を歩くと所々で集落が在り、どの町も綺麗で気持ちが良い町並みだ。そしてそこには小さなワイナリーがある。地ワインである。地元ではこれらのワインも手にはいる。また日本の農家にもあるような無人スタンドでブドウを売っており、1パック1ユーロ、美味しく、4人で食べるには充分すぎるほど入っていた。

 

B  音楽の国オーストリヤ

   オーストリヤに入り、ギュムントの小さなホテル(ペンションと言ったほうが当たっているか)で泊まった。家庭的な雰囲気もあり今夜はここで夕食と決めた。入り口周りは居酒屋風で奥がレストランになっていた。我々はレストランに陣取ってワインを飲み始めていたら何やら町の人々が三三五五入って来た。夫婦連れ、家族連れ、宿泊客も集まって来た。何だろうと思っていたら、入り口にコンサートの張り紙がありその会場がこのレストランであることが分かった。そのうちに若き美女が2人楽器を持って入って来た。ハープ、ギター、チターを取り出し音あわせが始まった。町の人々はこのコンサートが目当てで、それぞれ席に着き飲み物や食事をオーダしていた。よく見ると入り口近くでお金を受け取っている人もいる。「我々はただでいいのかな」「代表して俺が払ってくるよ」とリーダーが払って音楽を聴きながらの夕食と洒落込んだ。決してプロと言えるほどの腕ではないが、若い人を育てる意味もあるのか、こうして身近にコンサートを楽しみ、人々の生活の中に入り込んでいる姿を目にしたラッキーな一夜を経験した。

 

C  サイクリングと交通ルール

   我々は歩行中に毎日サイクリングの数パーテーと出会った。夫婦2人、

  恋人同士、数人のパーテーと若い人から年配の人まで楽しんでいる。ほとんどの人がサイクリング用のスーツを着、ヘルメットをかぶり、かっこいい自転車に乗っている。ハーローと声をかければにこりとして答えてくれる。皆実に楽しそうだ。道も所によってサイクリング専用道路が出来ているが長距離となると一般道を車と一緒に走らなくてはならないようだ。町の中になると車道、自転車道、歩道、と区分され、道行く人々はこの区分を正しく守っている。そうしてお互いに迷惑をかける事無く通行できている。車も横断歩道にいると必ず止まってくれ歩行者保護が徹底している。しかし横断歩道以外では無視されてしまい、ルールが優先されている。また鉄道も自転車の持ち込みOKが多い。(代金は必要らしいが)このように自転車と言う乗り物は社会で大きな地位で認められている。

 

D  女性の流行

  女性の流行が世界を駆け巡る速さに感心した。小さな町に行っても女性の流行は速い。若い女性の臍出しルック、胸を大きく広げ胸の谷間をのぞかせたシャツ、が流行っていた。こんな田舎町で臍出しルックに遭遇するするとはビックリであった。中年からの年配者になると一変し、体格のスグレタ人が多い。特にチェコでは目立った。よく話には聞いていたが「結婚するなら母親に会って将来を予想しておく方が良いよ」とのことを思い出してしまった。

 

  以上思いつくままに感じたままに記したが、我々が歩行した所が両国の全てではないし、ほんの数日での旅で何が分かるのかと言われてしまえばそれまでであるが、この目で見た感想としてまとめて見ました。 

 

 

5.人々との交流の記録

 

特記事項なし

6.健康・安全面の記録

メンバー全員が60歳代後半で、過去の病歴を含め注意が必要と感じたので、過度の行動は避けるよう計画段階から歩行距離等考慮した。ちょうど季節的にも歩きやすい時期だったので、道を間違え思わず計画の倍も歩いた者もいたが、幸い、体調を崩す者はいなかった。疲れと酒で夕食後は早々にベットに入り、十分な睡眠をとったのも良かったと思う。

 

イギリスで爆破の計画が明らかになり、しかも出発日が同時多発テロの発生した911日だったので、ヒースロー空港等の警備は厳重で、繰り返し行われた荷物検査に長時間を要した。歩行中は人に出会うこともなく、むしろ狭い、歩道のない道を歩いたので、自動車との曲がり角での出会い頭の事故を心配し、気をつけて歩いた。

チェコの中程度の都市では道を尋ねても若い婦人等は取り合ってくれなかった。彼らも素性の分からない人には、関わらないよう注意しているように思えた。

 

 

7.総費用 

個人

渡航費

160,000

 

グループ

 

 

宿泊費

57,000

 

 

食費

35,000

 

 

その他

10,000

 

 

 

合計

262,0000

 

合計

 

 

8.記録写真・ビデオなど

 

シェスキー・クルムコワ城からの市内の眺め

 

プラハ市内、王宮を望む

 

こんな道を歩きました

 

デュルンシュティンの小径

 

クレムス渓谷の古い教会

 

プラハティチェへの道

 

森の中の道を歩きました

 

プラハ城近くの鹿の道