ユーラシアを歩く会 行動報告書

The Trans-Eurasia Walking Journey Program

1.計画コース概要                                 提出日:

地域分類

ヨーロッパ

区間番号

21

国名

ハンガリー

実施期間

08.05.22

05.31

計画区間

 

出発地    到着地

ナギラク   キステレク

参加人数

4

 

2.メンバー表

No

役割・分担

氏   名

 

 

行き

帰り

リーダー

森 正昭

出発日

08.05.22

08.05.30

記録

斎藤 篤二

出発場所

成田/アムステルダム

ブタペスト/アムステルダム

記録

篠崎 次郎

到着場所

ブタペスト

成田(5/31

会計

池辺 一男

使用便名

KL862/

KL3209

KL3206/

 KL861

 

 

航空会社

オランダ航空

オランダ航空

 

3.現地での歩行結果

 

年月日

国名

出発〜到着

区間距離

Km

天候

気温

最低/最高

日目

08.05.22

ハンガリー

成田〜ブタペスト

 

 

08.05.23

 

ブタペスト観光

ブタペスト〜Mako

晴れ

30

08.05.24

 

鉄道でMakoNagylak

歩行 NagylakMako

21km

晴れ

 

08.05.25

 

@  歩行 ホテル〜Szeged

A  タクシーでVilmaszalls

歩行VilmaszallsSzeged

27km

 

22km

晴れ

雷雨

 

08.05.26

 

鉄道でKisterek

歩行Kisterek Vilmaszalls

鉄道でDebrecen/観光

15km

晴れ

 

08.05.27

 

DebrecenHortobagy Eger/観光

晴れ

 

08.05.28

 

Eger観光〜Budapest

晴れ

 

08.05.29

 

Budapest

晴れ

 

08.05.30

 

Budapest

 

 

 

 

 

区間概念図

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


4.見聞録

 

1)ルートの状況  −地平線まで続く麦畑−

2008.09.14 森 正昭

<歩行の旅・第1日目 ナギラク〜マコ>

今回、歩行開始の基点となったマコは、中心部に数軒のレストランや商店が並びこじんまりした街だった。しかし、ルーマニアの国境から繋がる43号線が中心部を通っているため、大型トラックの交通量は多い。

早朝のマコ駅は入り口が閉まっており、脇の錆びた鉄の扉を開け構内に入った。一組の若い男女がいたが、男はベンチに寝ていた。側線に停まった客車は一面に落書きされているし、本線も見て分かるくらい線路がゆがんでいる。列車発着の時刻表示も無い。ホームに入ってきた人に聞くと、時刻どおりナギラク行きの列車が来るようで少し安心した。

ナギラクの小さな集落を抜けて、ルーマニアとの国境へ。日本の高速道路で見かける料金徴収所のようなゲートがあった。その向こうにもルーマニア側の検問所があるのだろうが、これまで国境ではろくなことが無かったので、それ以上は近づかないこととした。

 おりよく越境してきた若者に、我々の写真撮影を英語で依頼する。これまで、私は1997年と1999年にハンガリーを単独旅行したが、田舎では英語がほとんど通じなかった。民宿では、中学生の女の子が通訳してくれ助かったことがあったが、10年間で英語事情はかなり変わったように感じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

空気は乾燥しており気持ちよい天気だ。41列で国道沿いを歩くが、頻繁に来る大型トラックには要注意だ。荷台の車輪は、片側に4つ以上並び日本のトラックの2倍は長い。

突然、目の前に警察の車が停車し、日焼けした男からパスポートの提示を求められた。早速、ハンガリー語で書かれた「歩行説明書」を見せる。

大体、国道沿いを歩いている人間は、「金が無く何かをたくらんでいる怪しいやつ」と思われても当然なのだ。2回目のハンガリー歩行で、キスケンフレチハザのペンションに泊まったときには、そこのマダムが宿代をタダにしてくれ、昼のパンも貰ってしまったほどだ。きっと貧しく金もないと思われたのだろうと今でも思っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

歩行説明書を見た警察官は、信じられないといった顔で両手を広げ、「車に気をつけて」の一言。折角なので、「一緒に写真を撮らせてくれ」というと、「仕事中だから・・・」。

我々が警察の車を背景に写真を撮っていると、車から出てきて我々の後ろに登場し、「HPには掲載しないでくれよ」。

やがて国道の両側は、果てしない緑の麦畑になった。ところどころに見える木立の連なりは、国道に繋がる横道だった。まだ穂の出ていない畑から、すでに色づき始めた畑まで、多少の濃淡はあるものの、壮大な眺めである。しかも、ほとんど平らなのだ。北海道の畑もこの大平原の麦畑に比べたら、ちまちましてしまう。農産物の国内需給率を議論するなら、この風景を見たうえですべきであろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

夜は2軒あるレストランのもう一方へ足を運ぶ。時間が早いせいか、客が誰もいない。ワインは若い娘が薦める“セクサールド”にしたら、なんと巨大な1.5リットル瓶が出てきた。これには一同にんまり、味も上々だった。料理は、前夜の経験から2人前を4人でシアーすることとし、それでも量的に満足した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

<歩行の旅・第2日目 マコ〜ビラモシュザラシュ>

翌日は、2人づつ2組に分かれ歩くことにした。私ともう1人はホテルから歩き出しセゲドへ、残る2人はタクシーでセゲドの先まで先行し、セゲドに戻ってくることとした。

そのタクシーだが、前夜にホテルで聞いてもらうと、セゲドの先までで14000Ft。ディスカウントはしないとのことだった。

セゲドへの先行組がバスで行く決心をして出て行こうとしたら、タクシーは7000Frで行くこととなった。弱みを見せない交渉の成果だった。

タクシーで先行した2人は、私の3年先輩で両方とも69歳、山歩きも時々している。今日の私のパートナーは同期で、高校の元生物教師である。ルートは車の多い国道を離れ、ティサ河の右側の農道を行くこととした。国道から離れ、民家の並ぶ道に入ると、赤いサクランボや紫色のプラムが実る並木になった。人々の豊かさを感じる眺めである。

間もなく、左手にティサ河の作る柳やクルミからなる樹林帯、右手は果てしない麦畑という風景に変わった。ガチョウの養鶏場に近づくと犬にほえられた。

日差しは強く汗がにじむが、日陰に入ると空気が乾燥しているため涼しい。休憩を入れ1時間、5kmのペースで歩く。連れは、珍しい草花を見つけると立ち止まり、鳥がいたといっては双眼鏡を出して、研究に余念が無い。付合っていてはきりが無いので、私は一定スピードで進んでいると、後から走って追いついてくる。律儀な男である。学生時代からその律儀さはちっとも変わっていないのが可笑しい。

 

大型トラクターの横で作業をしている2人の大男に出会った。「ヨーナポット、キバノック」と挨拶。ついでに「ソミヤッシュ」と言ったら、1リットルのペットボトルを手渡してくれた。10年前に憶えた、サバイバル単語が通じた。しかし、折角くれたペットボトルはガス入りで、慣れない私たちにはお荷物になってしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

暑さにへばりながら、やっと渡船場に到着。ティサ河の流れは100mほどの川幅だ。釣りをする男たちと話しているうちに、対岸からフェリーがやってきた。

クラシックな服装でひげを蓄えた男に、「写真を撮ってもいいかと」聞いたが「No」。トルコや中央アジアでは、カメラを出すと率直に喜んで我勝ちに並んでくれたのとは大違いだ。

暑さに耐えながらやっと“ティサホテル”を探し当てる。通された部屋はクラシックな作りだが清潔で気持ちよい。先輩2人組はすでに戻っていて、開催中のワイン祭りでご機嫌になっていた。

ワイン祭りの賑わいを見物に出かけると、橋の上は食べ物や衣類、食器類などあらゆる店が並び大賑わいだった。女性たちはほとんどが胸元まで開いたシャツで、胸をゆさゆさしている。若い娘はへそ出しが多く、この国では太っていることが美人の条件のようだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

結局、このティサホテルがハンガリー滞在中一番値段が高く、約10,000Ft/人だった。

 

<歩行の旅・第3日目 ビラモシュザラシュ〜キステレク>

3日目のセゲド駅。列車の出発時間が、インターネットで確認してきた時間と違う。うろうろしているうちに、その普通列車は出発してしまった。仕方なく、特急列車でキステレクへ行き、荷物を預けそこからビラモシュザラシュへ歩くよう計画変更とした。

キステレク駅で荷物を預かってくれるよう、赤い帽子をかぶった駅長さんにお願いする。初めは難色を示したが、例の「歩行説明書」を見せると、どこかへ電話し結局預かってくれることになった。

ビラモシュザラシュを目指し15km、緑の木陰に日差しを避けながらひたすら歩く。この間の国道は高速道路と並行しているせいか、車が少ないのが助かる。途中で、父親と自転車に乗った息子が追いついてきて、父親が盛んにハンガリー語で何か話す。「家に寄って行け」と言っているようだった。身振り、手振りと雰囲気から「家が貧しく子どもが多いので金を恵んでくれ」と言っているようだった。

途中のバス停で戻りのバスの時刻を確認したが分からず、結局、時間の分かっていた列車で戻ることとした。しかし、そのためには歩行距離7kmに対し、1時間しかない。

これまでの何回かの歩行で、これほど必死で急いだことは無かった。汗が目にしみるのに耐え、やっと目的駅へ10分前に到着、ところが無人駅で時刻表も無い。ここでもまた、時刻どおり列車が来るのかどうかが気になった。

キステレクでは、たった一人の駅長さんがにこやかに我々を迎えてくれた。駅長さんありがとう!

 

 

 

 

 

 

 

 

この旅行の締めは、ブタペストでのオペラ鑑賞とした。プチホテルの娘さんが取ってくれた席は中央前のほう。日本円にすると8000円に近い。そこでふと疑問が湧いた。我々の服装や履物は登山スタイルに近く、「最上の席にどんな服装で行けばいいのかなあ?」。ホテルの娘さんが我々4人の服装をチェック、その場では1人のみ合格、半そでシャツや半ズボン組は不合格となった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

国立オペラ劇場は、格調の高いクラシックな建物で、一同多少緊張しながら入場。周りを見回すとおしゃれをした女性から、ノーネクタイの男性やジーンズ姿の男もいて、気楽になった。この日の公演は「ドン・カルロ」で、ストーリ−は誰も知らない。入場案内からスペイン宮廷の話のようだと理解した。

舞台での言葉は全く分からす、登場人物の動作と服装に見とれる。2幕目、宮廷の女官や役人、兵隊など100人近い登場人物が勢ぞろいし、これがエンディングフィナーレのようだった。ぞろぞろ出る人たちの後ろに続きホールにでて、クロークへ。係の女性が不審そうな顔で我々の荷物を出してくれた。案内を見直したところ、4幕まであるではないか。

船上での夕食の誘惑に勝てずに、我々のオペラ鑑賞は幕とした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

10年前のブタペストは、廃墟みたいなビルが多く誇りっぽい街だった。しかし、街は一新され、人々の顔つきや服装も明るくなったように思う。これもEUへ加入した効果なのだろう。

10年前に予定路線だった高速道路はすでに完成し、大型トラックの通行も飛躍的に増大していた。ただ、自由市場で購入したトカイワインは3倍の値段になっていた。

しかし、人々の優しい笑顔や親切な心は、前と変わっていない。同行の3人も、美味しい食事とワイン、歴史と温かい人々との触れ合いに満足していた。

歩く旅は、人との触れ合いの旅でもあるのだ。

 

「歩行説明書」をハンガリー語に翻訳していただいた、茂木さんに感謝します。

 

補足

東京都立大学ワンダーフォーゲル部 OB会 ユーラシアを歩く会 

の活動は以下を参照してください。  http://www.tmuwvob.com/eurasia/neurasia.htm

ハンガリー友好協会、ハンガリーファンクラブの会員です。

連絡先  川崎市麻生区高石4-9-25 Tel/Fax 044-951-1089  bya15610@nifty.com

 

 

 

2)ハンガリーの自然と生活を中心に

    08.8.15  池辺 一男

 

南ハンガリーの大地は見渡す限り、草原や畑、牧草地が続いていた。左を見ても、右を見ても、ずーっと平原が続く。列車の窓から見た風景からもそれはよくわかったが、実際に歩いてみると確かに、どこまでもどこまでも、どこまでも一本道が続く。そこは平原のど真ん中。どこまで歩いても、平原のど真ん中だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

どこまでも続く平原を歩く、紫の花はヒエンソウの仲間

日本の田園風景では必ず田畑の背後に山地や丘陵地がある。EgerDebrecenなど北部は日本に似た丘陵を背負っていた。何か懐かしい風景を見たように感じたのはそのせいだったのだろうか。しかもこの平原、一面の畑とは言えず、各所に耕作していない農地が多かった。それが非常に不審だった。

帰ってから偶然見たNHKの「欧州の里山」によれば、日本のコメのように長期に渡る同一作物の作付を行わず、農地としてだけでなく、牧草地、放牧地をローテーションで使用していて、「生態系の原理」に忠実な土地使用をしているということだった。かって、日本の農村でも入会地や里山のように、環境保全、というよりその土地の環境と共に(人間も環境の一部として)生活してきた。しかし、今日本では、里山は消え、農業というより、重油を使ったり、人工的な環境調節をした「農作物工場」へ大きく変貌しているところが多い。農村は老齢化とともに後継者不足に悩み、共同体としての機能を失ってきている。それに対して欧州では、今もなお、「自然とともに生きる」農業を行っている、と。

確かに、私たちの見たハンガリーの農村では、コウノトリが人を恐れずに電柱の上に巣をかけている姿を見かけた。畑では草原の野鳥であるヒバリやオオジュリン、セッカ、ヨシキリの仲間が(オオヨシキリのようにギョギョッシ、ギョギョッシと啼いていた。もっとも、オオヨシキリは東洋にしか分布していないようですが)啼いていた。また、カッコウは啼いていただけでなく、姿もよく見えた。

世界遺産となっている大湿原があるHortobagyでは冠羽の大きい鳥が眼の前にとまった。その時わからなかったが、帰って調べたら、多分ヒバリの仲間(crested lark、冠毛のあるヒバリ)らしい。

公園では、カケスが人を恐れずに歩きまわっていた。他に黒と白のカラスみたいな鳥がいた。カササギのようだった。カササギは日本では佐賀を中心とした九州北部にしかいないので珍しいが、中央アジアからヨーロッパにかけて広く分布している。Budapestのホテルの庭ではシジュウカラやエナガが見られた。郊外では、高らかに囀る小鳥が何種類かいたが、よく見えず、日本の図鑑ではわからないものが多かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

真白に化粧をし、独特の芳香を漂わすグミの仲間

 

田畑の畔や道端には大きな樹木が多かった。だが、

予想外に針葉樹が少なく、多くは落葉樹だった。クロバナエンジュやコマツナギの仲間などマメ科の樹木、シナノキ科・ボダイジュの仲間、それにシラカバ、ヤナギが多かった。非常に目立っていたのは樹全体が白い綿毛に包まれたグミの仲間で、そこかしこにあり、独特の、強い芳香を漂よわせていた。    

 

草本類では、道路脇や草原は大部分がイネ科で、紫色のアキノタムラソウの仲間やヒエンソウの仲間、赤いヒナゲシなどきれいな花が所々に群生していたのが目立った。

 また街路樹では、ニセアカシア(ハリエンジュ)が強い香りを放っており、セイヨウトチノキ(マロニエ)、ボダイジュ、プラタナス(スズカケノキ)が多く見られた。ヒマラヤシーダーは公園や大きな建物の庭に似合っていた。こうして植物から見ると、ハンガリーのこの時期は関東地方の4月下旬から5月上旬くらいの感じだった。

 

この平原を歩いていて気づいたことがいくつかあった。まずは、水と土壌のこと。雨の少ないこの地域(年間降水量:約600mm)で、農作物の水管理がどうなっているのか、又、土壌が日本のように肥沃ではなく、火山灰地そのもののようで痩せていて、土壌形成があまり進んでいないようにみえた。冷涼で、雨量も少ないからだろうか。

ハンガリー東部・アルフェルド、と呼ばれる大平原では、コムギ、トウモロコシなどの穀物、サクランボ、ブドウなどの果樹、酪農などが行われている。食用油のヒマワリ畑もある。

実際に私たちが見たものはコムギやジャガイモ、ネギの他、ヒマワリや満開の菜の花、家畜ではガチョウ、羊。ハンガリーの特産パプリカの畑を見たかったが、時期ではなく、全く見られなかったのは残念だった。

水については・・・所々に掘り抜き井戸と思われる施設があった。川に近いところでは灌漑用の水路も(水路と言うほど整備されたものではないが)あった。でも大部分の農地ではそういう施設はないようだった。コムギやジャガイモ、タマネギの類はあまり多くの水を必要とせず、割合涼しい気候に適している作物だからだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Hortobagyの湿原地帯、9つのアーチ石橋付近

 

雨が多い日本でも、ほとんどが水田耕作のため、用水路を切り拓いてきた。しかも水が不充分な

土地では平地だけでなく高度の高いところにも水を引くので、岩を穿ちトンネルを掘り、尾根を越え

山を巡って、水路を建設し、保全してきた。江戸時代に作った用水が今も使われているところも随分

ある。トンネルを掘るための、空気抜きの穴や掘削した土を運び出す穴も残っている。日本では農家の長い年月の努力で、畑も田圃も素晴らしい土壌を作りだしたところが多い。もちろん北海道や山岳地のように冷涼で、土壌形成があまり進みにくい地域では、コメではなく、ソバやジャガイモ、コムギやトウモロコシ、など代替作物を耕作している。

 

田園地帯に「広告」が全くなかったのが、とても印象的だった。日本の道沿いの田畑には、広告が所かまわず立ててあるのが不快だったから。(もっとも、最近北海道を列車で旅をした時も広告は全く見られなかった。まァ「見る人」がいないからなのでしょうが)

 また、ここでは、イヌが日本のように放し飼いにしていないのが印象的だった。ほとんどが自宅の庭の中で放し飼いで、道路に面した表側はしっかりと門が閉まっており、何度も吠えられた。番犬として飼っているように見えた。放れネコは1匹も見かけなかった。ペットとして、室内犬や室内ネコはきっと飼っているのだろうけれど・・・

             

私たちはEgerで温泉に入った。プールになっていて、水着で入る。打たせ湯もあったし、ジャグジーもあった。温度が低く温泉から出ると寒かった。

ハンガリーは温泉が至る所に沸いており、2000年の歴史がある「温泉王国」である。温泉の数は約1500見つかっており、450の公衆浴場がある。しかしハンガリーの温泉は一般に温度が低く、日本のように40℃を超えることはほとんどない。またヘーヴィーズという温水湖(冬は2325℃、夏は3336℃)もあり、大量に湧き出るので、48時間で水が入れ替わるそうである。なぜ、ハンガリーにはこんなに温泉が多いのか?

 

観光局の方に伺ったところ、ハンガリーの大部分は、カルパチア盆地(ハンガリー盆地)と呼ばれる、かっては大きな海だった低地で、地下水位が高く、岩盤の割れ目から入った地下水が熱せられ、温泉として湧き出すのだそうだ。Hortobagyが広大な大草原と大湿原になっているのも、地下水位が高いため、樹木が育たないことによるとのことだった。

 

追記

ハンガリーの農村もEUに入った結果、世界規模の商品経済に巻き込まれていくに違いない。企業倫理も商道徳もかなぐり捨てた、今の日本のようにならなければいいが・・・と祈らずにはいられない。市場経済の良さを認めつつ、「グローバル化」の名の下に、各国・各地の「現地経済」「地域の特性」を破壊して、飲み込んでしまう。そこで生活する「民の幸せ」とはどういうものなのだろうか?

 

 

3)ハンガリーの経済と人々の暮らし

篠崎 次郎

 

 このようなテーマを掲げたが、1週間強の旅でどの程度把握できたか大変疑問であるが、調査資料を含め感じ取ったものを書いてみた。

 

ハンガリー共和国の概要

 面積  9.3平方キロメートル(日本の4分の1)

 人口  1000万人弱

 首都  ブダペスト

 民族  ハンガリー人

 言語  ハンガリー語

 宗教  カトリック50%強 カルビン派新教、他

 産業  機械工業、農業、化学製薬工業、畜産業

 ベルリンの壁崩壊、冷戦終焉、への流れの中で東欧改革の先導役を果たした  

 国、1990年自由主義国家へと変革、旧東欧圏の優等生とも言われている。

 国土の南北を縦断するようにドナウ川、テサ川が流れており、南部、東部は

 大平原で穀倉地帯、北部、西部は丘陵も多い地形で工業地帯、ワインの生産

 も盛ん、また7つの国と国境を持っている。

 

ハンガリー共和国の歴史

 4世紀 フン族が侵入しローマ人を駆逐

 9世紀末 遊牧民のマジャール人が移住

 1000年にローマ教皇からハンガリー王国として認められる

 13世紀モンゴル帝国による侵略後、16世紀にはオスマン帝国の脅威にさらされ王朝は断絶、ハプスブルグ家が北部、西部、を支配した。 17世紀末にはカルロヴィッツ条約が結ばれほぼ全域ハプスブルグ家のものと成った。

 その後独立への蜂起が何度となく起き、ハプスブルグ家との間に和約が結ば

 れ、1867年オーストリヤ、ハンガリー帝国が成立した。

 第1次世界大戦後ハンガリー帝国が成立したが、第2次世界大戦では一時ド  イツの占領を受けるが大戦後はソ連に開放され、1949年ハンガリー人民共和国が成立、共産主義政党による一党独裁国家となる。しかし独裁政治に対する市民の反発は強くハンガリー動乱が勃発、ソ連のペレストロイカの影響をうけ民主化が進み1990年には自由主義国家、ハンガリー共和国となった。

 2004年にはEUに加盟現在に至っている。

 

ハンガリー共和国の経済概況

 主要産業はすでに記した通りで

 2007年のGDPは 1、363億ドル 1人あたり13、560ドル

 2007年の経済成長率 1.3%  物価上昇率8% 失業率7.4%

 2006年の総貿易額 輸出733億ドル 輸入757億ドル

 現在財政赤字が最大の課題で、緊縮政策の影響を受け成長率は失速、またEU加盟後物価上昇に苦しんでいる。特に食料、エネルギー、の上昇が主因通貨はフォリント{HUF}であるが、ユーロ導入に必要な基準が満たせずユーロ導入の見通しは立っていない。

 

  近年の経済面の歴史に中で大きなポイントは1968年の経済改革、これにより国営企業のマネージャー達は経営判断が自主的に出来るようになり、利益が出れば収入も増える仕組みとなり経営体質は大きく改善された。もう1つは農業改革、これにより1人1.5ヘクタール程度の土地を自由に使い、出来た作物を自由に売ることが出来るようになった。この結果 産性は伸び食料輸出国となった。こうして民営化はどんどん進み現在国鉄 郵便が国営のまま残っている。

 

 自動車産業

  機械工業の中で自動車の占める割合は約50%あり、年々増加している。乗用車、自動車部品、などは大幅な輸出国であるが外資系がかなり入り込んでいる。外資系メーカーとしては、アウデー、オペル、スズキ、で今回の歩行地域に工場は無かったので直接見聞きしていないが、大きな町で広告を目にした程度であった。しかし国道での自動車の往来は結構激しくトラックが多かったのは、ハンガリーが7つの国と国境を持っていることにも理由があろう。

 

 農業、畜産業

  国土の東部、南部が大平原になっており、そして南北にドナウ川、テサ川が国土を縦断するように流れて肥沃な農地を展開している。農地の面積は国土の60%以上あり農業改革により生産性も急速に向上した。さらに2002年に農業政策が転換され土地の購入が認められ大規模農園化されてきた。とうもろこし、麦、甜菜、などが生産され、生産性もさらに向上、ドイツ、オーストリア、イタリア、などに輸出され、ヨーロッパの穀倉地帯とも言われている。今回の歩行はこの農業地帯が中心で、どこまでも続く麦畑、地平線まで出続く大規模農園には驚きと感動さえ覚えた。

  またワインの生産も量、質、共に有名である。ルイ14世が[王のワイン、ワインの王]と讃えたと言われている。国土の西部、北部の丘陵に葡萄畑があり、多数のワイナリーがある。特にトカイの貴腐ワイン有名で世界の3大貴腐ワインの1つと称されている。今回我々も毎晩ワインを楽しんだが安くて旨いと言わざるを得なかった。歩行中セゲドに1泊したがその日は公園でワインフェステバルが行われており、100ほどのワイナリーが店を連ねていた。そしてごった返すほどの人出があり、皆ワインを試飲し好みのものを購入していた。公園横の道路は歩行者天国にし露天が1キロメートル以上並び、雑貨から民芸品までさまざまなものを売っていた。子供達は顔にどうらんを塗りさまざまな顔を作り家族共々楽しんでいた。ワインは国民の飲み物であり、フェステバルは市民の大きな楽しみ、喜びであることを感じさせられた。

 

 最後に今回のハンガリー歩行の雑感を記してみたい。

  1つは、EC圏は1つに成りつつあることである。EC圏内には国境は無くなってきている。入国は最初にEC圏に入ったところで処理され、ハンガリーではフリーとなっていた。特に経済面ではボーダレスの時代になったのだ。国道を走る車の30%、40%ぐらいがトレーラー(18輪をつけた大型)でこれらのトラックのうち何割がハンガリーを通過するのだろうかと思い見ていた。隣接する国が7つもあるので通過するだけのトラックが多いのだろう。

  またハンガリーは工業国と言われている。乗用車の輸出は輸入の3、4倍であるし、地下鉄がヨーロッパ大陸で最初に作られた国 (世界でもイギリスに次いで2番目) としても知られている。文化遺産としても有名な「鎖橋」もその1つ、この鎖は鉄板に穴を開けピンで繋いだもの (チエーンの巨大なもの)で、 鋼鉄製のワイヤーが無かった時代に考案されたのだろう。

  ブダペストやエゲルなどでは古きよき時代の文化遺産を大事にし、またそれを楽しみながら庶民は生活している。レストランも結構人出が多い。たまたま我々もオペラを楽しむチャンスが出来て、かの有名なオペラハウスで見てきた。さすがに若い人は少なく中高年以上が多かったが、満員であり多くの人々が生活の中で楽しんでいるのだろう。文化の違いも感じさせられた。

  もう1つ目に付いたのは、最近日本でも話題になっているメタボの人が多いことだ。中高年の80−90%はメタボでそれもかなりのメタボだ。皆良く食べる。食事の量は日本人の2倍、そして甘いデザートをたっぷり食べているのでメタボは当然であると思うが、それを気にしている人は少ないようだ。皆食を楽しんでいた。

 

4) 新発見 ハンガリーの食

斎藤篤二(6期)

ドナウ川の東側は広い平野。水位も高い、森林も少なく、まっ平な土地だ。アクセントになるのは川と湖。第2の都市のDebrecenから国立公園Hortobagyはこの平坦地の北端に近く、南側は視界をさえぎるものはない。これだけの土地があれば農業や畜産に最適だ。しかも水と太陽に恵まれている。マジャール人でなくとも住み着いてみたくなる。小麦、野菜が豊富で畜産にも恵まれ、迫り来る食料危機には移住を勧めたい。

マジャール人は瞳・髪の色は黒く、目が細いと言われている、民族はアジア騎馬系(1説にはスラブ系)、身長のバラけている現ハンガリー人はヨーロッパ、アジアなどのいろいろな人種の混血で、西欧人の感じの人もいるがそれ以上に半西欧、アジア系の人が多い。言葉にも西欧ほどの大きな抑揚がなく、トルコと共通している。ブダペストで走る車からも同じことが言える。西欧(ベンツ等のドイツ、シトロエンのフランス、フイアットのイタリア)、北欧(ボルボ)、日本(スズキ他各社)、韓国(現代)など、多彩でかつそれぞれが数を揃えている。食(料理)が美味しい所以は、西のフランス、ドイツ、北のロシアとスラブの国、東のトルコ、中央アジア、中国、南のギリシャ、イタリア、やアフリカのすべての要素を取り入れているところにある。と同時にそこの場所でとれる産地のもの(パプリカ、タマネギ、淡水魚、肉の加工品等々)を存分に使用しているところにある。フランス、イタリア、トルコにもまさるとも劣らない旨い食を誇りにしている国である。(フランス版ミシュランに乗っていないが)

丘陵地帯(標高300m位、最高点は1000m)には大陸性の温度差の大きいなど良いブドウができる条件が整っている。ハンガリー各地に競い合うワイン醸造の地区が22箇所ある。ワインは輸出しないらしい。肉、魚に合うもの。デザートに合うもの、どれも秀逸のものが多い。今回は歩行距離が少ない分、ゆっくり見て歩き、食べ歩きをennjoyできた。

お酒類は苦味のやや少ないが日本人によく合うビール(Arany AszokBrsodi)。ハンガリーを代表するワインは豊富(後述)。食はグヤーシュ(肉と野菜のコッテリしたスープでパプリカ風味)、ハラースレー(トマトとパプリカ風味のコクのあるナマズ(または鯉)スープ)メジーレベシュ(さくらんぼ等フルーツの冷スープ)、ガルシュカ(チキンとすいとんのパプリカ風スープ煮込み)

ハンガリーに詳しい森君の企画でユーロレイルの5日間パス(11,000円)を日本で購入し、鉄道をフルに利用する。ブダペスト セゲド マコ キステレク デブレチェン ホルトバジー エグリ ブダペスト(センテンドレ)を周遊する。

 

@     マコ(ルーマニア国境に近い小さな町、パプリカ、タマネギの産地)にはレストランが2件しかない。店内は広い、テ―ブルがユッタリ15くらい。キビキビした、愛想のいい女性が英語で対応してくれる。飲み物はビールと赤ワインを頼む。ワインはボトルにする。何と出てきたボトルは1.5リットル(Szekszardの赤)。このサイズしかないのだ。不満な顔は見せかけで、うれしさを抑えきれない。味はいける。池辺さんは下戸、森さんはやや下戸、上戸の篠崎と斎藤2名であける。歩行1日目の翌日、朝起きると、やや2日酔いで気分すぐれない。

A     セゲド(リングの内は静かで風格ある都市で淡水魚のスープが名物)で歩行2日目を終え、3時ころから“ワイン祭”を見物しに町に出てみる。周辺は農地でたまねぎとパプリカの有名な産地。ホコ天の道路とテイサ川(ハンガリー第2の川)に架けられた橋には屋台が約1Kmの長さで、丁度世田谷のボロ市を小綺麗にした感じ、青葉に陽光がまぶしい。露天市に続く並木道の両側に国内各地の自慢のワインを並べたプレハブの店が100件くらい競うように客待ちしている。まだ人出は少ない。1軒目の若い男の主人に試飲をできるかと聞く。OKだ。そこで赤、白の辛口を頼む。2件目から若い女性のいる店に行く。試飲できるかと言うと有料だと言われる。残念だ。財布と相談しながら篠崎と飲む。トカイも、バラトンもあるが高いのはやめて1200フオリントFt(1Ft0.7)程度のものにする。

5月末の土曜日絶好の団欒の時、栃、すずかけ、アカシアの若葉の並木の下で家族連れや老若男女、老カプッル、若いカップルが皆陽光に空気を目一杯楽しんでいる、雰囲気がいい。

 

セゲドのワイン祭り

 

夕食は森君に案内される。ハラースレー(トマトとパプリカ風味のナマズのコクのあるスープ)が旨い。ワインはBalaton Merlot(赤ワインの甘口)

B     デブレチェン(ハンガリー第二の都市)でごご8時過ぎでまだ明るさが残る。夕食に町にでる。

通りで出会った家族連れにレストランの場所を尋ねる。日本人と知って寿司バーもあるが行かないかと言っている。がこちらはハンガリアンレストランを教えてもらう。そこは地下室にある地元の人の行くレストラン(Csokonai)で、通りがかりの人には見つけにくい店だ。真ん中の仕切りをはさんで喫煙、禁煙の客室に分かれている。喫煙の方が混んでいる。禁煙のほうは先客は2組、4人の若い女性客、1人で料理を食べながら読み物をする男性の2組。スープ(グヤーシュ)を頼む。実にコクのあるいい味をしている。地元の人が使うところだからさすがに味がいい。量は多いのでいつも1人、半人分にしてもらう。感激を伝えると、サービスとしてデザートをおまけしてくれた。

C     雄牛の血という名のハンガリーの代表的なワインで有名なエゲルの町、オシャレで明るくて綺麗な町だ。この日はワイナリー(kulacs csarda)で食事をする。ピッチャーの赤ワインをもらい、ゆっくり味合う。トイレで一緒になったドイツ人の8人連れに引き込まれ合流する。われわれと同じ年金組で、あの白ワインにうるさいドイツ人がここの白ワインを次々にあけている。ワインは一流と言うことだ。交流のしるしにはハンガリー民謡等2曲を4人で歌う。

エゲルのワイナリーでドイツ人グループと乾杯

 

D  センテンドレ(ブダペスト近郊の工芸品つくりや芸術家の住む町)でワインセラーのある店に寄る。小さな間口の店の奥の螺旋状階段で地下に入る。地下室は縦20m、横10m位のスペースで2本の通路の両側にワイン棚があり、幾種類ものボトルが置いてある。どこそこ(ハンガリー内の)の何年ものと言うと、うす暗い棚から出して見せてくれる。紳士風の担当者はいろいろ薀蓄を披瀝する。観光地のせいか結構、試飲も高い。購入すれば1種類を試飲できる。

E    ブタペストの1夜は船上レストラン“Spoon”での食事。予約なしで入れたが、満員である。顔をみて日本人とわかるらしい。こんにちはと声をかけられる。船上の空いているテーブルにつく。ワインとお勧めの料理をとる。美味しいのは覚えているが。そのうちに王宮のオレンジ色にライトアップされ、くさり橋のライトは暗いドナウに映える。

 

王宮を望む船上レストラン(Spoon)での食事

 

F    ブダペストのホテルは家族的で暖か味のある小さなホテル(Mix Fogado)だ。ブダ地区北にありダウンタウンから遠いが、まわりは日本大使館公邸などのある高級住宅地にある。朝は小鳥が歌い心地よい森(庭が森に感じられる)の空気が注ぎ込み、さわやかな幸福感にひたる。明るい居間の雰囲気の食堂は大小さまざまな鹿の頭部と鳥の剥製や熊の毛皮に飾られ、ユッタリと朝食のコンチネンタルをとる。

3泊目のエンタテイメントに森さんの勧めでオペラ「ドンカミロ」を国立オペラ座のS席で観ることにする。

残念ながら、内容が理解できない。でも舞台上の出来事の一挙手一投足に息を飲む。劇場内の内装様式、装飾に古さと品格を感じ、客の着こなし、振る舞いも観察。伝統の力を見た感じがして、えもいわれぬ感覚を味あう。

 

国立オペラ劇場の幕間

 

本題のユーラシア歩行は最後の残された“歯抜け”区間であったが、距離も短く平坦でそのうえ4日間天候に恵まれ(30°C以上)無事完遂できた。これでロンドンから中国まで連なった。おかげで観光にたっぷり時間を使い、これまでの歩行では味合えない、楽しさばかりの経験をした。

 

5.総費用

 

項目

内容

金額/円

航空券

サーチャージャー、空港税を含む

150,700

レールパス

5日間用

11,500

現地費用

ホテル/8

39,900

 

飲食費

25,700

 

交通費

10,000

 

その他

15,000

合計

 

252,800

1Er=160円、1Fr=0.7円とした。