月日 | 天気 | 歩行場所 | 距離 km | 道路 | 安全評価 | 宿泊 |
5月30日 | 曇 | ヴィディン〜ディモボ | 30 | E-79 | ○ | ヴィディン |
5月31日 | 晴一時雷雨 | ディモボ〜ベロティンティ | 30 | E-79 | ○ | ベロティンティ |
6月1日 | 晴のち曇 | ベロティンティ〜モンタナ | 34 | E-79 | ○ | モンタナ |
6月2日 | 晴 | 休養日、ベルコビッアへ移動 | *** | E-79 | ○ | ベルコビッア |
6月3日 | 晴 | モンタナ〜ベルコビッア | 26 | E-79 | ○ | ベルコビッア |
6月4日 | 晴 | ベルコビッア〜ギンツイ | 33 | E-79 | ○ | ベルコビッア |
6月5日 | 晴一時雷雨 | ギンツイ〜コスチンブロド | 36 | E-79 | ○ | ソフィア |
6月6日 | 晴一時雷雨 | コスチンブロド〜ソフィア〜ベリワ | 20 | E-79/80 | ○ | ソフィア |
6月7日 | 晴一時雷雨 | ベリワ〜バカレル(藤田) | 22 | E-80/8R | ○ | ソフィア |
バカレル〜コスティネツ(塩野) | 33 | 8R | ○ | ** | ||
6月8日 | 晴のち雨 | コスティネツ〜ベロボ(塩野) | 21 | 8R | ○ | ソフィア |
ベロボ〜パサルジク(藤田) | 28 | 8R | ○ | ** | ||
歩行距離合計 | 313 |
6月5日(金)晴れ
ギンツィからソフィアへは概して下り道。ギンツィから36キロ、そしてソフィアへ
9キロのコスチンプロドにホテルがありとの情報を信じてソフィア盆地の一角をめざし て目にしみる汗をこらえて歩く。しかし、ああ、ホテルは廃業。形もなし。バスでソフィ
アへ。駅の案内所で歩いて数分、公園脇にあるカネバおばさんの居心地のよい民宿を紹介 してもらう。そこには4泊して通勤型から身作戦で歩くことにした。ソフィアの水は真水
で冷たく、世界一だ。
6月6日(土)晴れ一時雷雨
身体を休めるために少しだけ歩く。残りのソフィアへの9キロと、ソフィアからの11
キロ。E−80のカフェでイスタンブールの男と話す。いよいよトルコ近くの感。夕食はとん かつを食べ、馬力アップをはかった。
6月7日(日)晴れ一時雷雨
残り2日間に100キロ余なので、4区間分担制とした。バザルジク迄のはじめ1/3は 登り、後半は谷間の下りから平地へ。8号線は車が少なく、かっこうや野ばらを楽しみな
がら歩く。ブルガリア正教の鐘の音が平原にカンカラカンと響いた。バカレルは登りの途 中にある小さな村。右手に3000mの残雪の山。この日塩野さんはバカレルから10キロ白
い花清閑のアカシアの森を登り,奥多摩を思わせる樹林の谷をコステネッ迄33キロも 頑張った。プロプディフ見たさの執念だ。
6月8日(月)晴れ後一時雷雨後雨
塩野さんはコステネッから続きの谷間下りでベロボ迄、そしてプロプディフへ。藤田 はミネラルウオーターの町ベロボからの最終区間。畑では要地物のトマトの植えつけ作業
。雷雨が2度。並木のプラタナスのかげでやりすごす。10分程でやむのだが、3度目は やまず、とうとうずぶ濡れでバザルジク駅に着いた。
<ブルガリアでの楽しい交流 塩野 昭夫>
初日。塩野は親指大のマメを作る。で、藤田さんが駅へレストランを探しにいってい る間待っていると、おじさんがサクランボを大きな木に登って採りだした。少し欲しいと
頼むと、登って自分で採れという。悲しいかな登れない。藤田さんが駅舎内のバルの夫婦 が歓迎していると戻ってくる。哀れに思ったおじさんが枝付きのサクランボをくれた。
電車を待つあいだ、主人のおごり酒(ドプロクのコーラ割り)とケバブチェ(豚荒挽き細 長団子)で乾杯する。主人たち・通訳の高校生カップルと記念撮影。帰途、途中駅までつ
いてきたカップルへ富士山の絵はがきとボールペンをプレゼントする。
2日目。セルビアとの分水嶺、バルカン山脈のローソク岩峰や山の中腹の美しい集落
を見ながら歩く。今晩はこの村で野宿だろうと思いながら、村の中心ただ1軒のバルに着 く。一休みして藤田さんが村はずれの羊番小屋泊まりを願い出ると、バルの主人が「そう
はいかん。どこかの家に泊まれるようにする」と言ってくれた気配で−−一安心。近所の人達 が夕食後のカフェを飲みにくる。主人アンギャ・隣のスタニ少年ら大勢にワインとウィス
キーをふるまううち、日本・ブルガリア交歓会になった。
9時ごろこざっぱりしたなりの 銀髪のおじさんが釆た。聞くと、53才でソフィアでの生活がいやになって羊飼いをして
いるという。上手くはないが英語を話す。多分政変か国営企業の閉鎖によって失業したの ではないか。夜遅くまで歓談。我等がねぐらも結局バルに一番近いスタニ少年のはなれと
なった。翌朝親切な人々に見送られ、今回最長36キロの道へ出発した。
4日目。ベルコビツァの街の警察で藤田さんがホテルを訪ねているあいだに、塩野が
入口で当たりを見回していると突然可愛い娘さんが「メイ アイ ヘルプ ユー」。山裾 のローカルホテルまで案内、キリル文字の受付手続き−切の面倒をみてくれた。
翌々日の バルカン山脈の峠越えでホテルがなくなって困っている、夕方車で迎えにきてくれる人は いないだろうかと相談すると、夕方5時までに探してみますとの答え、彼女は工場早番の
父親を口説いてOKさせ、5時きっかりにホテルに現れた。それから、待ち遠しい週末の ロックフェステバル会場のステージ作りを見に行こうと誘う。サッカーゴールのある草っ
原の会場で若者たちがステージを作っている。皆ダニエラの知人、手作りの祭典なのだ。
ミュージシャンはテント泊まりもいるらしい。スポンサーはコカコーラだ。
次に隠れブルガリア正教の教会。普通の平屋を大きくしたような建物の内部はまさに 教会。一本ずつお灯明を捧げ、しばしイコンを見つめる。ダニエラはちょっと前に線香を
買ったといって日本人を驚かす。ダニエラ(高一)の英語はかなり上手だ。いまやブルガ リアでは中学から英語の授業がある。
翌々日の夜、ダニエラ、父親メトージ、母親クラシミラさんの5人でレストランの食
事をする。両親は英語は話さないが、日本のこと、日本の宗教について関心を持っている 様子。ダニエラから日本の4つの島の名がでる。2年前迄長崎の同年代のペンパルがいた
ようだ。お母さんは娘時代、300キロ離れた村からここに移り住み、お父さんと知り合 ったこと、是非白分の家で手料理を食べてもらいたかったなど話はつきなかった。
8日目。ソフィアのプライベートルーム(民宿)の宿泊代は大人14ドル、学生11 ドル、子供9ドル。外観に比べ室内は大変きれい。ここに500年続いたイスラムの影響
だろう。部屋数4、カネバ老婦人が一人で住んでいる。息子が泊まった日もあった。
ここ を拠点として最後の100キロを空身で歩く。その間、洗濯物を干しておくと、きれいに
たたんであり、心遣いを感じる。3日間に歩いたコースを説明しサインをもらった。この 次は案内所を通さず、直接訪ねてきてくださいと国番号まで書いてくれた。
9日目。バカレル駅から炎天下の平原を歩いていたら、昼過ぎ3人の子供がついてき
た。物珍しかったようだ。子供達が消えると、こんどは3人の大人が後ろを歩いている。 1時間後、青年たち20人程が合唱しながら街道を歩きだす。何かの祭日のようだ。街道
の両サイドを20分はど並行して歩く。彼らもみな手を振ってくれる。
ソフィアへ戻るコ ステネッの駅で、列車待ちの40分間、3人家族のおばあさんと英語で会話を楽しんだ。
この日3人の英語の上手な人に出会った。
<付記 安全・荷物・天候・食事・交通・通信・費用など >
● 防犯についてはホテルの人達から充分に気をつけるよう注意された。ジプシーと浮浪
者。街道は人っこ一人いないので町外れあたりが要注意。しかし多くのブルガリア人 はシャイで純粋な人達です。
●荷物はできるだけ軽量に。雨具は不要。下着は毎晩洗濯すればすぐ乾くので2着で間
に合う。薬は特には不要。マメ対策用のバンドエイドは充分に。日用品は現地で調遠 できる。 ・天候は晴天が続き、午後入道雲が出た。最高気温は30℃を超えた日もあったが、
朝晩は涼しい。 ・食事はカフェ、レストランで。飲み物・パンはカフェで売っている。トマト、キュウ リ、ワイン、ヨーグルトはうまくて安価。コーラ小瓶30円、ジュース小瓶10円、
ワインボトル300円位。
●鉄道の客車はそんなに汚れていない。駅のトイレは汚い。運賃は大変安い。乗客には 荷物を持つ人が多い。生活物資か。タクシー代は1キロ1ドル位。メーターのついた
車ならぼられないようだ。
●電話はカード式が多い。2社制。
●製造工場は5施設の内3つは窓ガラスが破れ、鉄骨は赤錆が出ている。人けが全くな
く、うらぶれた感じだ。隣接して小規模の新しい企業が見受けられることもある。
●−方、町や村では新築中の住宅を多く見受けた。4階建てのモダンなものもあり、う
らやましい。多分出稼ぎ族のものだろう。
●滞在日数11日、滞在費用総額300ドル。すべてシングルルーム、タクシー多用。