第31〜34区 トルコ西部(KAPIKULE〜IZMIT) 作成;99.12.05 3期 土屋 淳一
353kmの行動記録 藤田一郎(1期) 土屋淳一(4期) 途中参加者:石塚正太郎夫妻(4期) 森妙子(11期)
客員参加:上村生子
<記録>
5月15日(晴) 成田→モスクワ 藤田、土屋の二名、成田空港に集合して出発。 モスクワノボテル泊 5月16日(晴)
モスクワ→ISTANBUL→(長距離バス)→EDIRUNE イスタンブール空港にて両替。1$=391,200TL。 イスタンブール到着後直ちに空港バスHAVASに乗りアクサライからメトロに乗り継ぎオトガル駅へ出る。
長距離バスEDIRUNE行きを見つけて乗車。高速道E80経由で約二時間一人270万TL。 EDIRUNEオトガルからはミニバスにより町中のガレジに到着一人10万TL。
公園のチャイハネで英語の出来るサリーさんに聞いたホテルに飛込み、藤田さん値段交渉。 一泊一部屋(二人)350万TL。 ( EDIRUNE ) HOTEL
AKSARAY泊 <右写真 チャイハナの主・SALIHさん/右、と化粧品販売のEBURUさん/中央、左は藤田>
5月17日 (晴)ブルガリア国境KAPIKUL〜EDIRUNE 〜EDIRUNE5q先郊外 23q歩行日。サブザック。
朝6時ガレジからミニバスで国境検問所で下車。一人25万TL。E90とD100の合併道で検問所のみある。 町は右方にあるのか見えない。係官に写真許可を得て周囲を撮るが平坦なまだ青い麦畑。<右写真 藤田が検問所係官に旅の目的を説明中>
道は広く舗装状況良し。車両の往来殆ど無く路肩も充分あり歩きやすい。 道路脇には人家が数軒点在したのみで人に会うことも無かった。 EDIRUNEの町手前で高速道E90と分岐したD100を歩く。
直に静かな町に到着。町中でパン、水、牛乳を買ってホテルへ戻り昼飯とする。 昼食後一休みして歩行開始、町を抜けオトガルへの分岐までは歩道があったが以後は二車線の国道、路肩あり。
相変わらず車両少ない。国道左右の奥に建築中や既存の住宅ビルの団地が見えるが道路周辺は相変わらず人家が無い。
ルノーのショウルームがポツンとあったので明日の始点として目印になるので本日の終着点とする。
通りかかったミニバスに乗ると周辺の住宅団地を回って町に戻った。日射しの暑い一日であった。 ( EDIRUNE ) HOTEL AKSARAY泊
5月18日 (晴) EDIRUNE5q先郊外 〜 HAVSA 22q
歩行日。サブザック。8時15分オトガルからHAVSA 行きに乗車すると10分ほどでルノー前に到着。 人家の無い周辺。トラキア大学の10階建てほどのビルが左手奥に見て通学バスが入って行く。
低い丘の隆起に従った道なので緩いが長い上りが終わると下りになり又登り坂となる。 周囲はまだ青く短い麦畑。所々にポピーの赤い群生が麦畑の中にある。 路肩には白や黄色の花を付けた雑草に混じってポピーや赤子の握り拳ほどの薊の花、
そしてこぼれ麦のやせた青い穂が疎らであるがランダムに続く。 見渡しても林のような木立は無い。 路傍の雑草に癒されて暑い日射しの中を今日も歩く。 HAVSAの町への分岐が右にあり国道と別れる。
国道は町をバイパスしている。町への道に入ると道沿いに住宅が並び やがて四階建てほどの一階部が商店や事務所風の建物となりミニバスが一台停車している四つ角がセンター部
と判定して終了13:30。 小さな静かな町で人通りがない。バス停前のパン屋に入りパンとトルココヒーを頼む。 二人分で95万TL。持参の水をがぶがぶ飲む。帰りのバス待ちの際、
十字路の角で椅子に座っていたおじさんに席を譲られチャイをご馳走になった。 <右写真 炎天下をHAVSAに到着、アタチュルクの祝日のため国旗が並ぶ>
14:50出発。25万TL。 3:30 ホテルに戻りビールを飲み、外でトルコ料理(ケバブ)の夕食。 公園のチャイハネホテルへ戻り又ホテルのバーでビールを飲んで寝る。
( EDIRUNE ) HOTEL AKSARAY泊 5月19日(晴) HAVSA 〜 BABAESK 27q 歩行日。全装備携帯。EDIRUNE
のオトガルからミニバスでHAVSA へ移動する。 昨日のパン屋PASTA SALONE VENEDIK店で朝食して8時に歩行開始。 十字路を右に上り詰めると国道に合流。もう家並みは無く麦畑の低い丘陵地。
10:30浅い谷間に泥水の小川があり植林状の林の中の道が暫く続き上り詰めるとKULELI村。 平屋の家屋が左右に二・三棟。右手の店でナッツとチョコを藤田空腹故か購入。
主人は小僧に命じて向の店からチャイを取り寄せ振る舞ってくれた。歩行証明を貰う。 又日陰のない起伏の道を歩く。沿道には店が無く道端で朝、念の為に残してきたパンの半分を食べ水を飲んで昼食とする。
BABAESKの町への道が左へ分岐して国道は右に下って行く。 町への道に入ると眼下に遠くオレンジ色の屋根の群を見下ろす。 下りきると町中に入る。セントルムはどちらかと尋ね歩きHOTELの看板を路地奥に見つけて入り藤田さん交渉する。
14:40 TV、水洗トイレ、シャワー付き二人一部屋800万TL。 しかし部屋の水洗トイレは使用できず部屋の対面の共同水洗を使用した。 この日はアタチュルクの祝日で夜近くで花火や祭りのラッパの音で一頻り賑やかであった。
( BABAESK ) HOTEL MINNI泊 5月20日(晴) BABAESK〜 LULEBURGAZ 23q
歩行日。全装備携帯。昨夕食を取った小綺麗なレストランでパンとスープで朝食。 7:30 出発。 20分も直進すると国道に合流。相変わらずの緩い起伏の道であるが徐々に高度は下がって行く感じ。
周囲の丘陵は麦畑であるが所々作付けの無い場所がありトラックターがかき回している。 相変わらず日陰がない開けた道を黙々と歩く。 今日も時々往来する路線バスやトラックの運転手がプップカと警笛を鳴らし手を振って通過する。
1 3:30 LULEBURGAZの町に入る。 町の入口近くの小さなバザールのある広場を囲む二間間口ほどのロカンタに入り藤田さんが指さしで盛りつけてもらった
煮物を購入し二人の昼食とする。二人分で350万TL。 CORLUへ移動するためバス停を求めて中心街へ向かう途中、中学生くらいの女の子達に囲まれて片言英語で雑談、
掌にそれぞれ漢字で姓名を書いてくれとせがまれる。同姓なのに私のは違う字だと他と比べて文句を言う子もいる。 字画が少ないと軽視されたとでも思うのか。彼女たちの群に男の子も混ざり腕まくりしてここに書いてくれと
泣きそうな顔で女の子をかき分けてくる。
> 男の子二人がCORLU へ行くから着いてこいとバス停へ向かう。女の子の一人が追いかけてきて、 あのこら金を取るかもしれないから注意してと助言してくれる。
賑やかな国道上に停車していたバスに乗り40分ほどでオトガルに着き大勢が降りるので一緒に降りてしまった。 中心街からはずれているので荷物を担いでセントルムはどちらかと尋ね歩く。
商店街で見つけた HOTELに飛び込んで藤田さん価格交渉。 カウンターの表示板に450万とあるのでなかなか譲らない二泊目を400万TLにして握手。 トイレ、ぬるいシャワー付き。
まだ日が高いので町中に出てPTTではがきを出し、 歩行中の若い娘からイタリヤ料理店を聞き出しピザとビールで夕食とした。 ( CORLU ) HOTEL
MELIH泊 <右写真 途中知り合った休暇中のソルジャー・SITIKさん/中央と藤田/右、左は魚屋>
5月21日(晴) LULEBURGAZ〜CAM SANAYII 藤田 22q CAM
SANAYII〜CORLU 土屋 26q 歩行日。サブザック。拠点間の距離が長いので二人で分割して歩くことにする。 7時過ぎに二人で街角でLULEBURGAZ行きのミニバスに乗り、藤田さんがここだと言う場所でバスを降りる。
藤田さんはそのまま行ってしまった。 見渡すとTRAKYA CAM SANAYII A.S と書いた看板があった。 この奥に見える工場らしい。 8:05
一服して歩き出す。周囲は平坦な畑地。 道路沿いにはTEKSTIL 工場が点々とあり夜勤明けと思われる女性達が工場の門の近くに集まり専用バスで CORLU方面へ帰って行く。
隣の工場に行くのか国道上を歩いている二三人にも遭遇する。一時間も歩くともう工場もない草地の中の国道。
<右写真 道端で休んでいるとバスの運転手や乗客が手を振ってくれる> 12:00
CORLUの町を見下ろせる丘の道脇で休憩。 盆地に広がる町はオレンジ色の屋根が展開している。 その先左方の丘には5〜6棟の高層住宅ビル団地が見える。 30分ほど休んで丘を下ると一時間ほどでガラジに着き、町中を散策しながらホテルに戻った。
藤田さんはまだ帰着していなかった。 藤田さんと凱旋を祝おうと二軒手前の小さな店でエフェスビールを二瓶購入して部屋で待機していたが待ちきれず 二瓶とも飲んでしまった。
藤田さんは一時間後帰着。聴けば途中、 戦車を乗せたトラックが砂利を跳ね時計のガラスに直撃して壊れてしまったと言う。 直に腕に当たらず不幸中の幸いと言う。 時計直しを兼ねて町へ出る。時計屋へ寄りPTTで藤田さん自宅にTEL。
電話の順番待ちの間に藤田さんと言葉を交わした休暇で平服のソルジャーのCITIK CETLAN さんが 町の路地のチャイ店の路上でチャイをご馳走してくれて、バザール、
酒保を案内してくれた。 家へ遊びに来いと言うが失礼して別れる。ガラスの直った時計を受け取り、昨日のピザ屋で同じメニューの夕食。 ( CORLU )
HOTEL MELIH泊 5月22日(晴) CORLU →SILIVRI 移動・休養日。ホテルのある横道の商店街から大通りの国道に出て大型バスに乗る。
何も勉強していないのでただ藤田さんに着いて行くのでどこで降りるのか分からない。 バスは今までのような低い丘陵地を抜けると右手に明るく青く輝くマルマラの海が見え平地に降りたら低いビルが
海側に並ぶ町に出た所で下車。約一時間、一人75万TL。 低い護岸が遊歩道になっている海岸。遊歩道と後ろのホテルやレストランの間にある小さな松の緑地公園のチャイ屋
の椅子に座り休んで、ボーイにホテルを教えてもらう。リゾート地であろうがまだオフなのか閑静である。 ホテルは国道側に戻った八階建ての立派なホテル。又藤田さんの交渉が始まる。
ツイン一泊70$を二泊するから一泊50$でとまとめる。朝食、バス、トイレ、冷蔵庫付きでおおいに満足。
昼、海岸に出て埠頭に係留してある小舟がレストランTARZANとあるので狭い渡り板を渡って入る。 客は居らずオヤジが一人。魚があるかに冷蔵庫から小魚のパレット二枚。内一枚に小鰺を見つけてフライを頼む。
ビールを飲みキューリとトマトのサラダ、パンで昼食。ビールは一人二本も飲んで二人合計380万TL。 <右写真 船のレストランTARZANにて土屋 魚もビールも旨かった>
夜、又海岸に出て左手の少し小高い芝生に囲まれた高そうなレストランでイカの唐揚げ焼き魚、 ビールにデザートの豪華ディナーで二人分1200万TLをつぎ込む。 (
SILIVRI ) PARK HOTEL泊 5月23日(晴) CORLU〜KINAK2 土屋 28q KINAK2
〜SILIVRI〜SELIMPASA 藤田 23q 歩行日。サブザック。CORLU、SILIVRI間を二人で分割して歩くが藤田さんはSILIVRIの先へ行ける所まで行くことにする。
7:54 国道からバスに乗る。8:05 高速道分岐をすぎて坂を上り詰めた場所で藤田さんは降りてSILIVRI 方向へ歩いていった。 8:21 CORLU
の町境を行き過ぎたところで下車した。 トラフイックポリスの詰め所がありパトカーが一台停っていたが人影は無かった。 8:30に歩きだし 8:40予定していた出発点ホンダのショールームに出会った。
隣から松林があり道路際は金網が続く軍の駐屯地の様子。 30分も歩くと今度はトヨタのショールームがポツンとあり左右は平らな草原となってきた。 左遠方に松林があり軍の基地の門が見える。門の近くに展示品と思えるジェット機が二機鎮座している。
軍基地に続く先に道沿いに飛行場があるようで小型の旅客機が一機見えた。 道沿いには暫く錆びた低い金網が続いた。 草原の中の緩い起伏の道で車の往来も少ない。
11:45 国道沿いに10軒ほどの集落があり小さな店で水を購入。冷蔵庫に入っていたもので冷たくて生き返った気分。 どこまで歩いても日陰となるようなものはない。
12:30 左手遠くに低い小山が見える路肩で朝食時にポッケットに入れてきたゆで卵を食べて昼食とした。 前は荒れ地に見えるが南京豆畑のようであった。
13:46 藤田さんが下車した先まで歩いてきてしまったことに気が付き反対側でバスを待ち手を挙げて乗車。 ホテルの近くでビールを売っている店を見つけて購入し飲んでいたら30分ほどして藤田さんも帰着。
夕食は海岸を散歩して又漁船レストランTARZANで同メニュー。ホテルへ戻ると上階のラウンジで音楽の音。 二人で行ってみるとギターの生演奏とアベック一組。 おもしろくも無いがビールを飲んでいるとフロント係のムラトが来て同席、やがてマネージャーも来て同席。
アベックも演奏者も帰ってしまってBGMのみ。マネージャーが勧めるカクテルを二種類ほど飲んでお開き。 二人分500万TL。 ( SILIVRI ) PARK
HOTEL泊 5月24日(晴) SELIMPASA〜 HARAMIDERE 24q 歩行日。全装備携帯。
8時SILIVRI から SELIMPASA 迄国道をミニバスで移動。 8:30 歩行を開始する。山側に国道、直ぐ隣り海側に舗装された旧道、海岸を挟んで旧道沿いに海浜ホテル、
海の家、別荘(部屋貸し・売り)ビル、住宅が並んでいる。我々は旧道を歩く。 海岸は近いが占有されているのか入り込めない。 旧道には所々大きな鉄製の箱がありごみが放り込まれている。
燃やされて煙が出ているものもある。ジプシー風の老婆が中をあさっていたのも見た。人は殆ど通行しない。 一カ所海へ抜ける路地を見つけてマルマラの海岸に出て休憩する。砂地で小さな貝殻がうち寄せる小波に集められていた。
青い静かな海であった。国道は左の坂に登っていってしまったが旧道は緩く上りながら岬の腹を巻いて行く。所々林の中に住宅や邸宅風が散見できる。 上り詰めて海側の松林にジャンダルマの門が出ると国道と出会うが以後の旧道は未舗装で平行する。全般的に下りつつある。
13:10 BUYUKCEKMECEの境界表示のある湾に架かる橋を過ぎ小一時間歩くと左側に分岐。 分岐の奥が賑やかなので入ってみるとBUYUKCEKMECE(ビューチェックメゼ)の町であった。屋台のケバブサンドトアイランで昼食。チャイはおごって貰った。
14:50出発して国道沿いの砂利の旧道を歩く国道の車は多くなったが、旧道には無い。 16:00 HARAMIDERE で歩行を終了する。ミニバスでメトロのYENIBOSNAへ出てAKSARAY へそこからトラムで GURUHANEで下車した。 藤田さんにぶら下がっている土屋はどこがどうなっているのか分からずただ付いて行くだけであった。 GURUHANE駅の近くの石畳の路地を少し上りトプカプ宮殿の外壁に薄く貼り付いた建物の半間幅の入口を登って
4階に相当する小さなテラスで宿泊交渉。藤田さんは地球の歩き方で見たチエコさんがオーナー夫人のペンションと 言うことでとびこんだもの。 長逗留するからとツイン一部屋一泊25$で決めた。
夕食はチエコさんに教わった近くの中華料理店にした。 ペンションに戻りテラスで雑談中一人旅の奈良県の上村嬢が会の趣旨にえらく感動して明日の同行を藤田さんに求め、
藤田さん同意する。 ( ISTANBUL ) COSKUN PENSION 泊 5月25日(晴) HARAMIDERE〜
海岸回りYESILKOY 〜EMINOUNU 42q 歩行日:藤田、土屋 客員:上村生子。サブザック。
7:30 昨日の逆順でトラム、メトロ、バスを乗り継いでHARAMIDEREに着く。 9:10 片側二車線の国道は車両の往来が多いが右側にガードレールがあるのでその内側を歩く。
草付きであるが現地の人達も歩くらしく踏み込まれている。 上村さんのピッチは早く年寄りに合せるよう頼む。 国道が長く登っているのが見通せる先で斜面を下りオリエント急行の線路を跨いで急な斜面をよじ登って短絡を試みた。 <右写真 HARAMIDEREから上村嬢と土屋で歩く>
10:05町並みに出て車道から30pも高い歩道が続く。ガソリンスタンドでトイレを借りようとしたが施錠されていて不可。 暫く行くと二階建ての大きなマーケットがありそこに入る。女性は苦労する。
国道から右に旧道が分岐して小さな町IETTKAPIに入り小さな店のショウインドウを覗いたりパン屋に入り窯なぞを見学する。直に国道に合流。 又暫くすると旧道は右に分岐して少し登るとマルマラ海が見渡せる場所に出た。閑静で人も車も人家も殆ど無い。下りながら少し歩くと又国道に合した。
12:35国道右にマクドナルド店を見つけて昼食。宣伝中のバーガーセット90万TL。客のグループに海側への道を聞き13:25出発。 空港の海側外縁を回る日射しの暑い長い道を過ぎると木立に囲まれたYESILKOY町に入った。街角のカフエテラスでチャイしながら少ない通行人を観察。
しっとりとした静かな小さな町である。 16:15後方にもう海岸が見える場所のガソリンスタンドで距離を聴いたらまだ10qはあるというので各員ややがっくり。
海岸に出て一休み。海岸通りに戻ると海側の一車線が電話線工事らしく車両通行止めとなっており我々の専用歩道となり 足取り軽くなる。 KUMKAPIの魚市場に出て鰺1s、小エビ0.5sを購入して夕暮れで現地の人達がそぞろ歩きする海岸公園の海沿いの道を
とろとろ歩き、 長いトプカプ宮殿の外壁を回り込んでガラタ橋の袂に到着20:00 。
31・32・33区のヨーロッパ側の完了を 祝し合う。 帰りにヒマワリ油、ラク、ビールを購入してペンションのテラスで鰺をフライにエビを塩ゆでにして豪華な自炊のディナー
とした。 ( ISTANBUL ) COSKUN PENSION 泊 5月26日(晴) 休養日 10時過ぎにトラムでFINDIKZADEに出てGRAND
ANKA HOTEL に行き30日より宿泊する石塚夫妻と森妙子さん、 31日の藤田、土屋の宿泊予約が入っていることを確認。 カウンターで藤田夫人経由での連絡FAX依頼。A4一枚25万TL。
午後 DORAK社を訪問して社長・副社長の両TAN氏に挨拶。森さんと行くカッパドキヤ観光日程を託すが日本語の分かる 通訳が明日5時に来るとのことで再訪を約す。
( ISTANBUL ) COSKUN PENSION 泊 5月27日(晴) HAREM〜KARTAL 21q
歩行日、藤田、土屋。サブザック。EMINONUでフエリーに乗りHAREMから出発する。 船着場先に居た交通警官にアンカラへの道を尋ね舗装道路の急な坂を上り詰めると国道に出た。
左遠方にインターチェンジのような高架道が見えて、藤田さんは国道をはずれて左に入ってから直進しようと左に曲がる。 町並みに通学する女学生群に遭遇するが皆スカーフをかぶり例のワッチャネームはない。
何回も道を尋ね辿り着いたのは左折した先が見えるもとの国道。一時間程かけて町を一周してしまった。 道は片側三車線で往来は激しい。左側対向車線の路肩を歩く。右の海側には5・6階のビル群の町が点在するが左側は
疎らな草付きの荒れた丘。 12時過ぎに左方に小山が見え出す頃、 道は二車線になりHAREMへ20qの表示があったのでその先の陸橋迄行き本日の歩行終了とし13:30.。
海側陸橋下の食堂に入り肉サンドと牛乳を頼み、明日の為にバス停の地名を聴いたが店主・店員・客や近所の人動員したが、 かいもく通じない。 誰かのアイデアで近所に日本人が居る工場があると店員の少年が付いてこいと1q程戻る。
国道をそれた海側に細長く二階建ての事務所があるゲートで守衛に何か言っている。 入口に ISUZU HONDA等日本の自動車会社名が出ている。前方に丁度乗用車から降りた日本人がこちらへ出て来てくれた。
いすゞの北山さんで経緯を話しここはKARTALと言うことであった。日本の各社がサービスや進出などの共同事務所らしい。 14:40バスでハレムに戻りフエリーでEMINONUに渡りチュネル、トラムを乗り継いで
DORAK社に約束の5時に着く。 通訳のKOCAさんがいて31日のパーティーの件とカッパドキヤ観光の見積りの件の打ち合わせを行った。 帰路、タクシム広場下の日本料理店の「忍者」にて天ぷら定食18$や握り定食15$ で夕食とした。
( ISTANBUL ) COSKUN PENSION 泊 5月28日(晴) KARTAL〜GEBZE 24q 歩行日。サブザック。ペンションを7時に出てフエリーとミニバスでKARTALへ。
8:30 昨日の店前から出発。路肩までアスフアルト敷きなので歩きやすい。 10:00 KAYNAUCAの小さな町並みに入り藤田さんPTTを探してDORAK社とカッパドキヤへの出発時間などを打ち合わせした。
11:17 TUZLA への分岐を過ぎると左手に新設道路が出現、その左は金網で草付きの丘が広がる軍の訓練場が続く。 車の通らない新設道路を日射しの中を上り詰める。
訓練所への分岐のガーデンレストランで二人で羊肉ハーフキロとビールで昼飯にした。 炭火のコンロがテーブル脇に供され自分たちで焼く。骨付き部が旨い。計350万TL。
1:38 出発してほぼ平坦な日陰のない国道を歩き海側へGEBZEの町が分岐する道に入る。 分岐から5分も歩くと小さな町並みとGEBZEの駅舎があり終点とする。
高台にあり海はもっと下のようだ。15:30 着。 16:10 発の電車でハイダルパシャへ戻る。 17:50 ハイダルパシャからフエリーに乗りエミノウニュ経由でペンションに帰る。
( ISTANBUL ) COSKUN PENSION 泊
5月29日(晴) GEBZE〜HEREKE 20q 歩行日。7:40 ペンションを出て、昨日の逆順でGEBZEに着いたのは10:20
。 車の往来がそれほど多くない国道に出て、左の路肩を歩く。 11:30電話を借りたジャンダルマで小隊長のエシェル氏に歓待を得て昼食をご馳走になる。
<右写真 ジャンダルマにて、いわゆる重装備の警察、地方の治安維持に当たっている--右端が隊長>
13:40ジャンダルマを辞して新設中の幅広で未舗装の道(右側には国道あり) を上り詰めるとサクランボ売りの露店があり数台の乗用車が止まり冷やかしていた。 眼下に遠いが海が見え、国道は右に巻いて下がっていた。面倒なりと藪漕ぎしサクランボ畑を下り海岸線の国道に出た。
国道は緩いが起伏が多く海岸より一段高い。山側に越える高速道の下を潜るが国道はまだ海岸線より高い。 前方左山肌にオレンジ瓦の家並みが見え左上にセメント工場、右下にスクラップ運搬の船が見えた先を下ると
HEREKEの駅であった。 駅前と上の国道に挟まれた狭い通りにはミニバスが数台停車して小さな商店が並びそして 又国道への道に沿って登っている。 駅前の商店でビールを立ち飲み、
線路を潜った小さな湾の公園を見て一時間に一本の電車でハイダルパシャに戻った。 残りのHEREKEから最終点のIZMIT間は30日に合流する森妙子さんと歩く事として一旦終わりとする。
( ISTANBUL ) COSKUN PENSION 泊 5月30日(晴) 休養日(後続隊参集日) 藤田さんペンションにて休憩。土屋近辺を散策。
夜8時過ぎ後続隊がホテルに着いたとの電話を受けGRAND ANKA を訪問し合流を祝す。 通訳の KOCAさんを交えて明日の歓迎会、カッパドキヤ観光及び石塚夫妻のトラブゾン区の歩行について打ち合わせを行う。
藤田、土屋 ( ISTANBUL ) COSKUN PENSION 泊 石塚夫妻、森 ( ISTANBUL ) GRAND ANKA HOTEL
泊 5月31日(晴) 市内観光日 及び到達祝賀会 全員でブルーモスク、地下宮殿、トプカプ宮殿を見学して藤田、土屋も荷物を纏めて
GRAND ANKA に集結し夜の歓迎会を待機。 夜8時過ぎ迎えの車でKUMKAPIの道沿いのレストランに入る。 DORAK 社のTAN 副社長とスタッフ及びイスタンブル観光局の女性部長が同席でイスタンブル到達祝賀会を始める。
何度かの乾杯、店の楽団が席に来て演奏などそろそろメインの魚料理かなと思われる頃突然藤田さんは うなだれ失神状、多少の吐瀉あり。直ちに閉会としてGRAND ANKA
HOTEL のベッドへ担ぎ込む。 ( ISTANBUL ) GRAND ANKA HOTEL 泊 6月 1日(晴) 待機日
明け方4時頃藤田さんベッドから半身を落としトイレへ行きたいと言うが、左手足の自由が利かない。 KOCAさんを電話で呼び出しホテルに来て貰い、救急を頼んで貰う。
病院の救急車が来て心電図など診断後、救急車でタクシム下のALMAN HASTAN病院に搬送。 集中治療室のような部屋のベッドに寝かされる。 CTスキャン等各種検査されて一週間位の入院が必要とのこと。
入院補償金10億TL(約$2500)前払いが要された。付き添い不要の為、ホテルへ戻る。 連絡係として土屋はホテル。他は近在を見学する。
12:50
総領事館の音丸さんよりDORAK社からの通報についての状況確認の受信。 14:19 藤田宅にはなかなか架からなかったがやっと夫人と通話連絡が出来た。
16:10 石原さんよりTEL。DORAK 社→メフメット氏→石原氏の電子メール連絡網あり 16:20 藤田夫人よりTEL。6/323:30 着とのこと。
( ISTANBUL ) GRAND ANKA HOTEL 泊 6月 2日(雨) 待機日 連絡係は石塚。他は近在見学。
( ISTANBUL ) GRAND ANKA HOTEL 泊 6月 3日(晴) 待機日 全員でフエリーに乗りアジア側を見学後、病院に行き面会。意識あり。歯切れは悪いが会話も可。
但し左手足は不自由状態。 帰途、総領事館により音丸事務官に面談。 小川副領事が空港に藤田夫人を迎えに出るとのこと。 夜、石塚、土屋で空港へ。
小川副領事に会い藤田夫人を迎え領事館の車でホテルに戻る。 到着が一時間遅れであったためホテルへは午前二時過ぎだった為、早速床に付く。 ( ISTANBUL
) GRAND ANKA HOTEL 泊 6月 4日(晴) 待機日 午前、藤田夫人に経緯と状況説明。午後全員で病院へ行き治療室にて面談。付き添いは
出来ないので全員ホテルに帰る。 藤田夫人はホテルにて休息、他はバザールに出てみる。 ( ISTANBUL ) GRAND ANKA HOTEL 泊
6月 5日(雨後晴) 待機日 雨 今日は森妙子さん帰国するので午前中近くを石塚夫妻と見学に出る。藤田夫人と土屋はそれぞれ部屋で待機。
12:20 病院のDR.KUTUAY 氏から病状説明するから14:00 にロビーに来るようにとの電話を受ける。 午後、石塚さんは森妙子さんを空港に送る。 他は電話で呼び出したKOCAさんと共にDR.KUTUAY氏から説明を受ける。
脳梗塞であり尚1〜2日は監視を要すが検査次第で月曜(6/7)には一般病棟への移動は可。 但し帰国後もテラピーは必要とのこと。 帰途、タクシム下の日本料理店「優曇也UDONYA」で偶然、小川副領事と合い挨拶。
( ISTANBUL ) GRAND ANKA HOTEL 泊 6月 6日(晴) 石塚夫妻 HEREKE〜KORFEZ
15q 土屋 KORFEZ 〜IZMIT( KOCAERI ) 12q
病状の確認と安定化を知り、残りの区間を手分けして歩くことにする。 DORAK社が供して呉れたKOCAさん同乗の車により出発点 HEREKE駅へ 8:25石塚夫妻、終着点
IZMIT 駅へ 9:00土屋をそれぞれ配置して貰う。 <右写真 土屋、IZUMITからHEREKEへ向かう>
それぞれ合流すべく国道を歩く。 IZMIT 駅は海岸線にあり国道は一段上を走っている。 低いホームを降りて線路を渡ると国道に上がる道があり直ぐに国道に出る。
山肌にオレンジ色の屋根の群があるが国道沿いには民家がない。 広い歩道には所々露店があり包装した菓子の売店があったが店にも道にも人影を見ない。 高速道路の分岐が終わると国道は片側一車線程の道が暫く続いたが道沿いに町並みが見えると道幅は広くなる。
舗装道路の横には未舗装の箇所が広くあり将来拡張されるのかもしれない。 10:40自動車修理屋のオヤジさん二人にチャイを頂き歩行証を書いて貰う。 又町並みに入り前方道路上の小道を歩いてくる石塚夫妻と合流する11:35.。
KOCAさんが待機して居た道路左にあるチャイ店で合流完歩を祝す。 帰路HEREKE駅近くの絨毯屋に寄り絹製の高級品を見せて貰い目の保養をする。 合わせてアダナケバブの昼食とビールまで出前でご馳走になる。病院に寄り藤田さんに今回のコースの完了を報告する。
我々は明日帰国であり以後の療養を託す。 ( ISTANBUL ) GRAND ANKA HOTEL 泊 6月 7日(晴)
藤田夫人は病院近くのホテルに移動する。土屋はアエロ便による帰国のため10時にホテルを出る。 石塚夫妻は藤田夫人のホテル確認後、夕方のJAL便により帰国する。
6月15日 夫人と付き添い看護婦と共に藤田さん帰国する。ストレッチャーに乗っているが左手足以外は元気である。 迎えに来ていた病院の救急車により一路静岡総合病院に向かった。
<見聞録> ルートの状況 ヨーロッパ側(トラキア)ブルガリア国境の小さな村KAPIKULEの検問所から
アジア側(アナトリア)のマルマラ海の最深部IZMITまで国道100号線を走破した。 トラキア側は緩い丘陵の中を長い登り下りを繰り返してマルマラ海まで下り、アジア側に入ると海岸線に沿って
やや登り気味GEBZEに至り内陸に入り峠を越えて又海岸線に下る。 片側2車線はある幅広で舗装が整備された良好な道路であり、その上舗装面の両側には土或いは小砂利の側帯がある。
市内では歩道もあり車両の通過時に不安は無かった。アナトリア側には国道に沿って新設道路が各所で建設拡張中であった。 トルコの路線バスは長距離、短距離のミニバス網が整備されていて移動には不便を感じなっかった。
これらのバスが我々のルートを走っていたが交通量は少なく歩行に不安は無かった。 しかしイスタンブールからゲブゼ間は交通量が多く道路の横断は注意が要される。
イスタンブール中心部へは100号線を使わず途中から空港脇を通りマルマラの海岸線を歩いたので快適であったが 距離が伸びてしまった。 食事
a.昼食 国道沿いには家並みが殆ど無く所々に多くは休止中であったガソリンスタンド兼レストランがあった。
又レストランのないガソリンスタンドには小さなショップがあり菓子パン程度は調達できる。大きな町の近辺は バス停に店がある。 我々の歩行は殆ど午後2時半位で終えたので途中二人で昼食を意識しての食事はGEBZEの手前で道沿い
の焼き肉ガーデンで腰を据えた時だけで後は朝や昨夜の残り物で済ませた。 b.朝夕食
ホテル近辺のレストランで可である。 但しレストランにはビール類のアルコールは置いてない. CORLUまで来てイタリアン、ISTANBULでやっと中華料理店を見つけることが出来た。後は羊と鶏のトルコ料理である。
宿泊設備 藤田、土屋の歩行行程では調査も予約も無しでEDIRUNE(ツインで約1050円)、 BABAESK(ツインTV付き約2400円)、CORLU(ツインで約1200円)、
SILIVRI(ツイン$50観光ホテルでバス付き)、ISTANBUL(ツイン$25)と飛び込みで投宿した。 何れの地にも複数のホテルはあった。 観光シーズン前でいずこも閑散としており、まず藤田さんの値切り交渉から始めた。
SILIVRIは海岸の観光地でありバスタブもある一応のホテルであり夏のシーズンにはこの地は予約が必要になる かもしれない。 その他の地では日本で言えば商人宿に相当する安宿でシャワーとトイレは共同。
但しISTANBULは地球を歩くで見つけたペンションで日本人の一人歩きの若い男女達がオーナー夫人のチエコさん を頼って投宿していた 自然環境
5月中旬から6月始めの滞在中5/16夜8時頃から3時間ほどの強い雷雨と6/2昼間の雨、 6/5明け方から10時頃までの雷雨があったがその他は昼は30度、
朝夕は18度程度の気温の中晴天に恵まれた。 空気は乾燥して日射しは強い。殆ど沿道には日陰になるような樹木はない。道路脇の土手や原には野バラ、薊、 ポピーが花盛りであった。
周辺と其の先の丘陵は灌木が点々とある荒れ地か、まだ青い穂の麦畑。 道を横切る小川は殆ど水量が無く表土で白く澱んでいる。樹木が少ない。細く小さな松、柳は大木があった。
マルマラの海は青く静かで海沿いの町はこれから迎える海水浴シーズンの為の改装や修繕がのんびりと行われていた。 人々の生活
イスラムの国らしく早朝からお祈りを呼びかけるアザーンが拡声器に乗って流れる。 国道から見える村や町には必ず丸いドームのモスクと他の村と競うように高くしたミナレット(尖塔)を配置している。
都市での服装は現代的で若い女性などは臍出しルックもある。 子どもたちは制服(上っ張りなど)で二部制の学校に通い 、英語も習っているようだ。小学生、 中学生位の子どもたちは積極的に通りがかりの我々にワッチャネーム
と言いながら集まってくる。屯している年輩の男達は言葉が通じなくてもチャイチャイと言って呼び寄せて ご馳走してくれる。 一方学校へ行けず道沿いの荒れ地で牛や羊を追っている子供やロバに引かせた荷車に親と共に廃品集めする
子供も散見した。イスタンブルの町中では物乞いや絵はがきなどの押し売りの子どもたちも屯していた。 交通手段はミニバス、長距離バスが発達していて不便は無いようだ。
近所なら10万TL(約25円)、20q先は20万TL程度だ。人々は常用している。 都市の近郊には高層住宅の団地の建設ラッシュである。 景気刺激策か出来上がったものは黄色や緑の色が塗られて
遠目では綺麗に並んでいる。建設中のものは細くて薄いコンクリート柱の枠に中空の赤いレンガを積み上げて 外壁にしている。 これらに住民が移り住んだら道路事情は大幅に変化するであろう。 沿道での産業観察は殆どは麦を
主体とした農業であった。町のバザールでは、トマトやキュウリ、サクランボ、青い小さな実(エレキ)等の果物も豊富。 CHORLUの近郊では沿道に点々と外観の新しい織物工場があり交代制なのか通勤バスで若い女性達が町へ戻っていった。
アジア側の海岸には、いずれも大きくはないが造船、セメント、自動車のOTOSANの工場が目立った程度である。 工業地はこの先のADAPAZARIだそうである。
食べ物・酒・その他
トマト、キュウリのサラダと羊肉の焼き肉の三種類、回転焼き薄切りのドネルケバブ、 ミンチのアダナケバブ或いは塊肉のシシケバブを主体にした(これしか名前が解らない)
LULEBURGAZのロカンタのカウンターにある料理を指さしで決めた詰め物をしたピーマンの煮物も良い。 アダナケバブもHEREKEの絨毯屋で出前でご馳走になったものは美味であった。
JANDARMAのESREL小隊長が取り寄せてくれた ドネルケバブと白いご飯も美味であった。立ち食いでは(ドネル)ケバブサンド、変わったところではガラタ橋や
USKUDARでの鯖サンド。忘れられないのは5/22 SILIVRIでマルマラの海に浮かぶ小さな船のレストランターザン (ビールあり)でリクエストした小鰺(イスタルビッチ)のフライである。
頭もしっぽも丸ごと10匹ずつ食べてしまった。<右写真・満足そうな藤田、小鯵とビール2人合わせて、約1000円>
その後歩行中KUMUKAPIの市場で1sの鰺を買ってペンションのベランダでフライにしてペンションの人達にも分けたが、 自分たちで2日間食べた。
酒類はビール(商標エフエスが普及)、ビラと言わずも銘柄のエフエスで通ずる。 味は思い出せないが決して悪くはない。歩行終了後まだ日の高い内にホテルのバーや部屋で一本二本と瓶を開けて
飲むのは堪らない。ラク(RAKI)も癖になる。 アルコール度50、アニスの香り、水で割ると白濁する。ちびちび飲む。 現地の人はビール等とチャンポンすると頭が痛くなるから注意せよ、ラクは果物を摘みに飲めと言う。
が、我々はビールをいつも先に飲むのでチャンポンになってしまった。ビールやラクは殆ど町中の小さな店で購入した。 ワインはあまり気にしていなかった故か目に留まらなかった。その他、各種の菓子が特徴的であろう、
砂糖菓子の上に蜂蜜をかけたようなヘビーな甘さは堪りません。 人々との交流の記録
EDIRUNEのオトガルからの満員のミニバスで出会って道案内してくれた化粧品セールス外交をしている若いEBURU嬢が 友人の英語が出来る男SALIHさんの喫茶店へ連れていってくれて我々は若い女性にもて始めた。
この町の若者の服装は渋谷あたりと変わらない。 トラキア大学の薬学部の美人CAERAやTOBAとは英語が通じて藤田さんは ユーラシアを歩くを語る。EBURUの妹たちBURUCAや11歳の小学生ERIFもその上、
母親ZHRAまで集まりサリーの店で二日間夜になるとチャイを飲みながら雑談につきあって貰った。<右写真 3人の美女と向かい合わせで>
歩行初日、EDIRUNEの村道に入ったところの小さな小学校の校庭で遊んでいた子どもたちが低い塀を乗り越えて 集まってきて覚え立てなのか一人ひとりワチャーネーム、応えてやると私のが通じたとばかり喜ぶ。
町中のセリミエジャミー前の庭にある喫茶テーブルを抜けている際も中学生位の女学生二人連れが英語で話しかける。 応えると喜ぶ。 英語が出来る子どもたちは飛びついて来るように話しかける。自信の無い者、
出来ない者は寄ってきているが一歩引いている。 LULEBURGAZの町でも女子中学生に囲まれて自分の名前を漢字で掌に書いてくれ等と頼まれる、 それを見ていた男の子達も腕まくりしてここに書いてとねだる。 CORLUの町では藤田さんが国際電話の列で知り合った
若いソルジャーSITIK氏がチャイを近くの路地の店でご馳走してくれてたりバザールや酒保を案内して呉れて終いには 家へ来ないかとも、これ以上の好意は辞した。
ISTANBULのCOSUKUN PENSIONに二日同宿した一人旅の奈良県の上村生子嬢は藤田さんのユーラシアの話に感激して 翌日長丁場に同行した。 記念に成ったと喜ぶ、夜は仕事やお見合いのこと等の聞き係をする。
10時間超をかけ約42q歩いたが元気で翌日は早くどこかへ遊びに行ってしまった。 GEBUZEの先5qのJANDARMAで電話を借りたら小隊長ESREL氏が自室に招きチャイをご馳走してくれる。
ユーラシアの話をしたら彼英語が駄目で通訳の兵士を呼ぶ。その内非番の平服の隊長らしき人物も現れ賑あう。 ESREL氏は庭に導き自分の迷彩服や拳銃を我々に順番に着せて写真を撮らせ兵士らと共に楽しむ。
兵士に金を持たせて近くのレストランから買って来させた出来立ての弁当と菓子を振る舞ってくれた。 行きずりの我々にこのようなもてなしにどれも恐縮する。 アッラーの思し召し故か。
東京のメフメットさんの権威のある緊密な連絡でイスタンブルのDORAK社に於いてはTAN社長、 副社長を始め各スタッフの親切な応対を受けた。 DORAK社の常雇ガイドの日本語が出来るKOCAさんが通訳の域を越えて
藤田さんが倒れた早朝の呼び出しに飛んできて救急車の手配と病院同行して以来、都度我々の窓口として 自分のガイド業務の間に飛んできてくれた。 これもDORAK社のバックアップがあったことと思うが個人的にも大変な努力をして呉れた。
DORAK社のTAN副社長の計らいで(無償で)最終歩行日のHEREKE 〜 IZMITの為に運転手付きで車を出してくれて更に ナビゲータ兼通訳にKOCAさんも同行させて送迎を行ってくれた。
安全面の記録 トルコ東南部でのクルド人問題で外務省の危険度1で指定されている。 最近では他地域での都市での爆弾事件などもあり注意が必要である。外国人誘拐もあったと言う。
正直言ってこれらに応対する行動は意識せず、時には一人歩きをして沿道に屯す老若と挨拶(メルハバ) を交わすと彼等も快く応対してくれた。 歩行区域は主に田舎で問題を抱えた人物の存在が許されなかった所であった
故かもしれない。イスタンブールでは都市型の不安であるひったくりや詐欺(私服警官だパスポートを見せろと言って 奪う等)に注意するよう ペンションのチエコさんなどにきつく言われる状況であった。
これらの注意が精神的には不安材料であったが、これはと思われる事象もなく終わった。 健康安全面の記録 5月31日のヨーロッパ側完了アジア側到達の祝賀会席で藤田さんが椅子に座ったまま昏睡状態になった
(後刻脳梗塞と診断された)。当時は強い酒ラクでの乾杯のしすぎによる酩酊と皆思いホテルのベッドへ担ぎ込んで しまった。 我々に異常を診断する能力があれば即、病院への道もあったのではないか。
不幸中の幸いと言うべきか発症はイスタンブールの市内でDORAK社のTAN副社長始めスタッフと我々参加者全員がいた ことで翌朝現地でも著名な病院に入院できたことと心細さを支えることが出来たことである。
6月1日にホテルから藤田夫人への電話連絡は要領が悪い故かなかなか通じなかったが、 DORAK社→メフメット氏→石原氏へのメール、 DORAK社→領事館→外務省→藤田夫人への通報が適切に行われたようである。
万一、単独や二人だけでの歩行中或いは僻地での思わぬ発症に遭遇した場合のことを想定すると寒気がする。 5月末頃から土屋は胃痛を胃潰瘍と自己診断して牛乳を飲んで傷みをごまかす日々。
帰国後内視鏡では500円玉位の潰瘍があり薬で対応した。薬を持って行けば良かったと反省。 各人の発症についてはその原因や兆候は不明であるが、お互いに年齢を考え無理をしないの一言である。
一般考察として飲酒上の制約は無かったのか、あったとしても隣に飲む奴がいれば堪らないが。 日射しの強い中の歩行には帽子を被る。適宜な水飲みが必要。 いずれにせよ今回は残念な結果となった。効果の程は分からないが事前の健康診査などで自分の体調、
体質傾向など理解して用心したい。 |