グルジア 戻る
 1.計画コース概要
地域分類 中央アジア区間番号 47〜52
国名 グルジア( GEOGIA)実施時期 2000.9.3〜9.18
計画区間 SARPI〜TSODNA歩行者 6名
 2.メンバー表
No役割・分担氏  名備  考
1リーダー 石塚 正太郎 5期
2記録 安藤 潔 7期
3  和田 航一 3期
4会計 新井 清 5期
5ビデオ 荒井 龍男 8期
6--- 土屋 淳一 3期
*添乗・通訳 オーレグ トーメン//アゼル現地社員
 3.行き・帰り
出発日出発到着便名
往路00.09.03 成田イスタンブール TK1023/トルコ航空
復路00.09.18 イスタンブール 成田 TK1018/トルコ航空
 4.現地/アゼルバイジャヤンの活動
滞在日年月日出発〜到着区間距離天候宿泊
00.09.05 トルコとの国境Sarpi〜Batumi15km Batumi泊
200.09.06 Batumi〜Ureki〜Lesa75km Ureki泊
300.09.07 Lesa〜Kutaisi〜Terjora96km 土屋/荒井/安藤/石塚・新井、ナビ;和田
400.09.08 Terjiola〜Zestaponi〜Khasuri83 km Borjomi泊
500.09.09 休養日   Borjomi泊
600.09.10 Khasuri〜Gori〜Kaspi87 km Gori泊
700.09.11 Kaspi〜Tbilisi〜Sasgaredzo81 km Tbilisi泊
800.09.12 Sasgaredzo〜Vardisubani81 km Tbilisi泊
900.09.13 Vardisubani〜Tsodna(アゼル国境)27 km Tbilisi泊
   歩行距離 計545 km  
 5.区間コース

5.記録  新井(5期)
9月3日に成田を発ち、4日イスタンブールのグルジア領事館でビザを取得(手数料一人$50)
5日黒海沿いのトラブゾンより旅行社手配のワゴン車で国境のSarp迄行き、歩いてグルジア入りをした。
ここより東のアゼルバイジャン国境Codnaまで約550kmを横断した。

今回は宿の問題、言葉の問題、安全確保の問題等よりトヨタ(東京)、トーメン(東京、モスクワ) の格別の厚意によりワゴン車を1台チャーター(運転手はグルジア人のYuri氏)、さらにトーメン社員2名 (モスクワよりOleg氏、グルジア駐在員のGia氏)が通訳を兼ねながら最後まで車で伴走してくれた。

毎日の行動は歩行グループを3班(2人、2人、1人)とナビゲーター1人とに分け、夫々別行動とした。
1人歩きの班にはGia氏が氏の自家用ボルボ車で伴走し、2人歩きの二班にはチャーター車にナビゲーターとOleg氏が乗り 安全確認と各種情報提供を行なう事とした。
出発点への送りと歩行終了後の収容とホテルへの移動は夫々の伴走車が行なった。 歩行ルートは両トーメン社員による事前の調査とアドバイスに基づき幹線道路(A305、M27、A302)を採用し、 首都トリビシ付近はバイパスを歩いた。以下に新井が歩いた所を中心に報告する。

第1日(9月5日火曜日、晴)Sarpi〜Batumi、歩行距離15km
トルコ航空46便(A310)トラブゾン行きは7:23離陸、ほぼ満席。8:45 黒海沿いのトラブゾン空港に着陸。
9:04出迎えのRITUR社のワゴン車で国境のサルプに向かう。黒海沿いに北上、10:30Rize、12:10Hopa、 12:20国境と順調に走る。
国境の建物は小さく出国手続きは簡単に終わる。金網の門をくぐり数十メートル歩くとグルジア側で入国手続に3ドル払う。
つぎの建物が税関で申請書を記入提出。1時間少々を要する。門を出ると車の客引きが多い。 ロシア人のオレッグ、グルジア人のギア、同じく運転手のユーリの3人の出迎えをうける。

ここからホテルまで15km、歩くのは土屋氏、石塚氏、安藤氏の3人。ギアは歩く3人に車で伴走する。 残りの3人はユーリの車でオレッグと一足先にホテルへ行く事にする。 3:50 国境を後にする(時差がトルコと2時間あり)。道路はトルコ側より若干悪い様だがそれほどでもない。黒海沿いに走ると、途中海水浴の姿を散見する。国境より4km先のレストランで遅い昼食をとる事にしたが言葉が全く通ぜず往生する。オレッグ氏に手伝ってもらい結局、美味しい赤ワイン(AKHASHENI 26ラリ、約500円)とトマトサラダ、チーズで前途を祝す。

ホテルはL−VAKURI。こじんまりとしてこぎれいなホテルだ。部屋の中はマアマアだが、バスタブには栓が無く湯温も低い。 夕食はホテルの食堂で全員一緒に取る。


<写真>グルジア〜トルコ国境 グルジア側から

第2日(9月6日、晴)Batumi〜Lanchuti、歩行距離75km
今日より全員で行動開始、各班25kmの予定。
1班:和田、2班:新井、荒井、3班:石塚、安藤、ナビ:土屋

9:00出発。和田さんはホテルより歩き始める。残りはユーリのトヨタ車で25km先の出発地へ向かう。 出るとすぐに左手に大きな教会の尖塔が見えた。右手には大きなマーケットがあり、かなりの人の出入りが見える。 直ぐに市街地を離れ山に入る。峠を2つ越えて第2班の出発点となる。
すぐに電話連絡がギア氏より入り和田さんを見失なったとの事。皆でマーケットに入り込んだに違いないと予想する。 そのとおりだった事は後で判明した。
10:10 41.5kmポスト(道路沿いの距離表示はかなり整備されていた)付近から出発。 しばらく下り坂で空気はひんやりして気持ちが良い。 しばらくして鉄道のガードをくぐり今度は線路に沿っての歩きとなり、日が昇るにしたがって暑くなる。
11:20 Kobuleti駅。比較的大きな町へ出た。この手前で1人の若者が英語で話しかけてきた。 ドイツで法律を学んでいる由。住宅の間を抜けて1本左側の黒海沿の道に入る。 海岸ではかなりの人達が海水浴を楽しんでいた。 海岸沿にはかなりのレストランが並んでおり、中にはヤシの葉を編んだような小屋も有り、トロピカルな感じを出している物も有る。そんな中の1軒で昼食をとる。ビールは通じたがその他はまるで通じず、ついに料理の材料を持ってきてくれ、手振り身振りで何とか注文をして食べる事が出来た。

Koboletiを出ると今日2回目の検問有り。特に問題なく通過。ここまでは比較的立派な並木道で木陰を歩く事が出来たが,これから先は滑走路のような道を汗をダラダラ流しながら歩く羽目となる。右側は畑が続き、左側は低い潅木が有りその奥は時折農家が有るようだが見通しは利かない。大型バスや乗用車が時折疾走して行く。

17:00漸く今日の終点Urekiへの分岐点に到着。背中のザックは白く塩を吹いている。ここから車で黒海沿いの宿へ運んでもらう。 宿は松林の中に貸し別荘のような形で、2階建ての建物が何軒か離れて建っている。その内の一軒が今夜の我々の宿泊場所となる。建物から10メートルほどの所が海岸で、プライベートビーチのようになっている。そこでは数パーティーが海水浴を楽しんでいた。日もまだ高いので我々も汗を流す事を兼ねて海水浴を楽しむ。水はさほど冷たくなくやはり少し塩っぱい味がした。
借りてきた通信衛星利用の携帯電話を東京にかけるが上手く通じない。 20:10 夕食は別棟の食堂で取る。夜中に雷雨があった。


第3日(9月7日、木曜日、晴)Lanchuti〜Tezola、歩行距離97km
1班:(27km)土屋、2班:(27km)荒井、3班:(16km)安藤、4班:(27km)石塚、新井、ナビ:和田
9:00出発。今日の起点はPoti方面と別れて脇道に入り20キロポスト(kp)から各班27kmの予定である。 今日は石塚氏と3班という事で最終区を逆向きに歩くためギア氏の車で皆と別れ先行する。
10:00 Santrdiaの町、ルートはM27となる。10:30Kutaisi入口(315kp)、 直ぐに検問有り(330kp)。11:00 350kp到着、ここが今日の出発点。
11:15 殆ど平坦な道を西に向かって歩き始める。左側は樹木が茂っているが日陰はなく暑い。 出来るだけ道路脇の草付きを歩く。時速5km。石塚氏の歩く速度は速く合わせるのに苦労する。
13:40 予定の半分近く歩いて漸く昼食にする。道端のスイカ売りからスイカ1個と丸い瓜1個買う。合わせて2ラリ(約100円)と安い。その上瓜を1個おまけしてくれる。近くの木陰で早速食べる。とても美味しいスイカだった。二人で一生懸命食べたが結局1/4ほど残した。今日の昼食はスイカとラックス。
今日のルートには殆ど人家はなく、午後になって漸く右側遠くに見えてきた丘の斜面に農家が点在しているのが見えた。



16:30 Kutaisiへの入口の川(25km走破)。ここより残り2kmの道は石畳の上り坂となりとてもきつい。17:00 坂の上の教会に汗びっしょりで到着、漸く終了。車でホテルに向かう。 17:10ゲストハウス着。他の人達は既に到着していた。こじんまりした2階建ての屋敷といった感じの宿で、 入口はブドウ棚になっている。きょうの夕食はギア氏宅に招待された。

20:30 ギア宅は2階建ての立派な邸宅で彼はこの地では上流階級に属しているようだ。 玄関には美人の奥さんも出迎えてくれる。食堂は20畳くらいの広さで立派なシャンデリアが懸っている。
ピアノもあり、本箱には何やら立派な装丁の本も並んでいる。テーブルには手作りのご馳走が一杯並んでいたが今日は昼間の疲れで食欲が無い。 帰り際に可愛らしい息子と、娘も出てきて皆で記念写真をとり、22時に辞す。
今朝、出発前に携帯電話会社に連絡が取れ新しいエリアコードを聞いて各班毎の連絡を試みるもやはり通話できず。 ネットワークが無いとの表示が出る。地上局が無いと言う事か。

第4日(9月8日、金曜日、曇り)Tezola〜Chasuriの8km先、歩行距離83km
1班:(27km)荒井、安藤、2班:(27km)和田、土屋、3班:(29km)石塚、ナビ:新井
7:00 1階の食堂で朝食。パンとチーズがおいしい。デザートに果物が付く。
8:10 出発。石塚氏はギアの車で先行する。
8:40 350kpが第1班のスタート地点。間もなくZestaponiの町となる。 工場もありかなり大きい町のようだが工場はまるで廃虚のようだ。昨日見た工場もそうだった。
9:10 第2班(377kp)のスタート地点。山の中となる。
9:40 2班の終点(404kp)を念のため見ておく。途中霧雨となる。ひどくならなければ良いがと心配する。 引返す途中2班に会い写真を撮り、1班の状況確認のため更に戻る。Zestaponiの町を過ぎても1班に会わないので心配になり、 ユーリーに日本人に会わなかったかと街頭の物売りに聞いてもらうが分からず。 朝の出発地点まで戻るも二人に会えず。もう一度Zestaponiの町を抜け橋を渡って間もなく二人の後ろ姿を見つけた時はほっとした。
左手に川と川に沿って走る線路を見て道は徐々に山の中へと入って行く。 線路はこの先右へと別れる。山中の村では所々で果物や、かご、それに焼き物まで売っている。
ハイエースの運転手のユーリーはトルコ音楽のカセットを大音響で鳴らし続ける。 彼は気をきかせて途中交通警官がいると我々のことを説明してよろしくと頼んでくれている。 後で聞くと彼は黒海よりのアジャラ自治共和国からの宗教難民との事だが、街道筋には顔見知りの運転手仲間が大勢いるようだ。 運転暦30年で55才の気の良いオヤジで良い人を選んでくれたと思う。

12:10 365kp付近の検問所近くのレストランで昼とする。豚の焼肉が美味しかった。 後から来る1班にここを薦めておく。また小雨が降ってきた。しかし、それ程強くはなりそうにも無い。
14:30 398kpでまた2班に会う。残り4km地点と二人は速い。昨日貰った瓜を出して皆で食べる。 冷たくないが結構美味い。そばで物売りのおばさん達が並んでいるので見物に行く。 きのこや果物と茶色の透明感のあるゴムシートみたいな物と、長さ30cm、太さ5cm位で途中いくつもくびれのある棒状物を売っている。
不思議な顔をして眺めていると少し切ってくれる。表面は透明なゴムシートで中に何かナッツみたいな物が入っている。 食べてみると少し甘みが有り中身はピーナッツだった。オレッグ氏によればシートは蜂蜜と小麦粉を練った物でこの地のお菓子とのことだ。 再びバックし1班を終点で待つ事にする。
16:15 1班到着。2班のピックアップに向かう。16:45 2班ピックアップ。17:30 Chasuriで3班石塚氏に合流。 ここから30km程南西に入った、今日の宿泊地、保養地として有名なBordzomiに向かう。

18:30 Bordzomi到着。高い鉄の柵で囲まれており、ガードマンがその都度門を開けて入れてくれる。 昔はサナトリウムと言って貴族の保養地で広大な敷地に中に建物が点在している。路で会う人達は手にボトルを持ちゆっくりと歩いている。 有名な鉱泉を汲みに行くらしい。後で飲んでみると生暖かくあまり美味しくない。宿舎は1892〜1895年に作られた2階建ての 立派な建物でパレスと案内の女性は言っている。流暢な英語で色々説明してくれる。
スターリンも泊ったとか言っていたが外見は立派だが内装は派手な色使いで決して上品とは言えない。1人1泊食事付きで$64程。

オレッグ氏達3人は別棟だった。我々の建物の近くにシュワルナゼ大統領の別荘が有り銃を持ったガードマンが寄せ付けない。 明日は休養日なので2晩ここに泊ると思うと何となくのんびりとする。
食事は大食堂でとるがアルコール類は一切無い。 夕食はパン、ハンバーグ、オムレツ、それにおじや風ご飯は果物入りの味がして糊みたいで非常にまずい。 飲み物は紅茶。料理はあまり美味しくなかったので翌日の昼は外でとる事にした。 夜は石塚氏がわざわざ外出して買ってきたビールとワイン、スイカで楽しむ。

<写真;元ロシア皇帝の別荘、スターリンも利用したという。我々も2泊した>

第5日(9月9日、土曜日、晴)
 今日は休養日なのでくつろぐ。午前は大勢の人達が水を汲みに来る源泉に行って飲んでみる。やはり生暖かくそれ程美味しくない。 駅のそばのレストランでシシカバブ風焼き肉を食べる。量がすごく多い。 午後はパレスに戻り対岸の山上の5世紀の古城跡へ腹ごなしを兼ねて登る。
パレスの二階バルコニーからトーメンアゼルバイジャンの二宮氏に現況報告が出来た。 彼氏から東京及び大使館への報告もしてくれる由。藤田先輩へは和田さんより連絡取れた。

第6日(9月10日、日曜日、曇り、西風強し)Chasuriの8km先〜518kp、走行距離87km(各班29km)
1班:土屋、2班:新井、安藤、3班:和田、石塚、    ナビ:荒井
8:50 出発。
10:00 今日は安藤氏と第2班で460kpからスタート。辺りはこれまでと違ってなだらかな丘陵地帯だがすっかり秋の景色といった黄色から茶色の世界だ。終日強い西風が吹いて涼しいくらいだが、追い風だったので良かった。日曜のせいか車が非常に多い。時には10台くらい団子になって走って行く。途中殆ど民家もレストランも無く果物を買て食べる。
10:50 Kareli郡。11:15 465kp、右手にGoriの街並みを見過す。
13:15〜13:45 道路脇の草むらで昼食。
15:15 480kp 果物売りのおばさん多数。写真を撮るために立ち寄るとリンゴ、梨、プラムをくれる。 あめをお返しとして上げる。皆親切だ。
17:30 489kpで終了。(約4万歩)程なく3班が到着。彼らは向かい風に随分悩まされたようだ。
18:30 ホテルVictoria着。ゴリの中心地から少し脇に入った所のホテル前にはリンゴを満載したトラックが何台も駐車していた。 すでに暗くなりかかっていたが途中、市役所前にスターリンの銅像が依然として立っているのが見えた。
21:00 夕食。
第7日(9月11日、月曜日、晴)518〜599kp、歩行距離81km
1班:(28km)和田、新井、2班:(29km)土屋、石塚、3班:(24km)荒井、    ナビ:安藤
8:30 ホテル出発。市役所前にスターリン博物館が有り、彼の生家が復元されていた。
9:15 518kpから和田さんと組んでスタート。道路脇の木陰を選んで歩く。暫くは農家が続く。 A―301との合流点付近より並木も無くなり気温が上がり、非常に熱くなる。 これより中央分離帯もある立派な道路となり、車の往来も激しくなってきた。
11:18 Aravi川。11:50 530kp、ナビ車と合流。道路右側に有ったレストランに入り昼食をとる。 左側山上に古い教会が見える。右下、川の向こうに世界遺産のムツヘタの村が見える。

13:05 トビリシ市街地への道を避け左バクー方面へのバイパスへ入る。途端に車がこなくなり静かになった。 右下遠くに首都トビリシの町が見える。かなりの高層アパート群があるが薄汚れて汚い。 日差しはきつく、その上迎え風となりばて気味になってきた。また、足のマメが痛い。 分岐から間もなく小さな街並みを通過するが、その後は左に低山を見、右には市街地に続く畑となる。 だらだらした登りが有り、それから路は右にカーブし、また左に曲がっている。その辺りが今日の終点と思われるが、非常に暑い。

16:30 13kpで石塚、土屋組の出迎えを受ける。二人が既に1km余分に歩いて来ているとは何と速いのだろう。 早速車に乗り今歩いてきた道をA―301の合流点まで戻りトビリシのホテルへと向かう。 さすがに首都だけ有って大きなビルが立ち並んでいる。
ホテルはムーザ(母の意)の銅像が有る円形の体育館のような建物の前にあった。 ホテルの名前はMUZA、3階建てのこぎれいなホテルだ。
当初の予定では安全面から当地で一番良いホテルを手当していたが1泊132ドルと非常に高いので変えてもらった。 ちなみにMUZAは相部屋で1人$37.5。部屋は3階で表通りに面していて特に問題はなかった。 ただ、お湯の量が少なくシャワーしか使えなかったのは残念だった。
20:30 夕食は近くのレストランでとる。明日から先はホテルが無くここより毎日通う事になる。 今日も各班間の電話連絡は出来ず。


第8日(9月12日、火曜日、晴)Sagaredzo〜133kp、歩行距離81km
各班27km、1班:荒井、安藤、2班:和田、土屋、3班:新井、ナビ:石塚
8:00 朝食。ハム入りオムレツ、ヨーグルト、パン、チーズ、紅茶。以後毎朝のメニューとなる。オムレツは金属プレートにのって4人分出て来た。
後の分が中々出てこないと思ったら最初の分のプレートを回収してからでないと出来ない事が分かった。 そのため当初よりスタートが遅れた。
9:00 出発。第1班は52kp、第2班は79kp、自分は106kpスタートで今日は一人歩きの行程となる。

10:50 歩き始める。道は左手(東側)に大平原を見ながら丘陵地帯の裾を南に向かって小さな上り下りを繰り返すコースとなる。 路面は荒れていたが車は少なく問題ない。両脇は農家が続いていて、所々で男達が屯してゲームか何かに興じている。
3km程歩いた所、コンビニ調の店の前で警官に呼び止められる。デップリとした体格の良い年配のポリさんで腰には拳銃を持っている。 パスポートポリスといって、身分証明書を見せながら当方のパスポートの提示を求められた。
ちょっと警戒して手帳に挟んであったコピーを見せるが納得せず。 ドイツ語は話せるが英語はだめなのでといって英語をしゃべる婦人を呼びに行かせた。 婦人が来てビザに次いでイミグレーションカードを見せろと言うが、そんなもの持っていないと答えると、それが無いと旅行は出来ないので発行してやるからオフイスまでこいと言う。 これ以上係わるのも嫌なので4km程先行しているはずのギア氏に電話をしてもらう。
ギア氏が直ぐにやってきて話をつけてくれる。 結局そのまま釈放されたが、ギアは心配して彼の名刺と彼の車のナンバー書いたメモをくれ、この後1km毎に待っていてくれることになる。

かれこれ30分もロスとなったので、一気に5km休まず歩く。
道は東に向いて下り坂となり鉄道にぶつかり、そこから今度はまた南へと向う。 しばらくするとトマト売りが並んでいたので1$払って10個ほど買う。 もっと持って行けと言っているみたいだが重たいので断る。歩きながらかぶりつくと、とても美味しい。 続けて2個食べる。道は平坦になり両脇に民家が続く。
途中レストランなく10kmほど歩いた所でギアの車の中でハトサブレとトマトのお昼とする。
今日も気温が上がりかなり暑い。しばらくするとちょっとした街並みとなる。鉄道の終点の町のようだ。 そのまま通過し、昼食後は4km毎に休憩を取る事にする。 119kp手前で道は左折してガードをくぐると、今度は北北東に真っ直ぐに畑の中に伸びている。 両脇には並木が有るが太陽は真後ろから照りつけるようになり、とても暑い。 両脇は畑か牧草地のようだが、作物らしい物は何も見えない。車は殆ど通らず、時々燃料にするのか木を積んだ馬車が前からやって来る。 ギアの車は1km毎に先行して待っていてくれるので車の姿を目標に歩く。今日の終点は遥か前方に見える森のなかのようだ。

15:25 Alazani川を渡り森の中へと入る。大木が茂り、涼しくとても気持ちが良い。 森が終わる頃民家が数軒見えてきて大きな楠の木(?)の下で数人女の子が遊んでいた。犬が出てきて吠え掛かってくる。
17:30 漸く終点133kp。道路脇のポールに目印として赤いテープを巻きつけ帰路に就く。
20:00 ホテル帰着。
帰りはどうしたわけか朝よりも時間を要した。ロービーでは石塚氏が心配して待っていてくれていた。 夕食はホテル近くの中華レストラン「Picaso」となった。やはり中華は美味しい、特にチャーハンは米もジャポニカ種で美味しかった。 ただ先客に中国の若い観光客のグループがいて大声で喋りまくっているのには閉口した。 マスターは女性で中国風の名前であった。またウェイトレスの若い二人は美人で愛敬が有った。

第9日(9月13日、水曜日、晴)133kp〜国境Codna、歩行距離27km
1班:(12km)和田、荒井、ギヤ、2班:(10km)土屋、新井、3班:(5km)  安藤、オレッグ、ナビ:石塚

9:50 出発。今日は最終日なので全員で歩く事になり、車はトヨタハイエース1台に全員が乗り込む。
11:00 第1班、133kpから和田、荒井、オレッグで12km。
11:15 第2班145kpから。初めて土屋さんと歩く。土屋さんも速い。初めの内は正面にコーカサス山脈の南の端の山々が見える。 一部頂が白く光っているのが見えるが、雪でなく岩が光っているようだ。 1時間程でT字路。両脇の民家はLagodehi村か。角の店で色んな木の実を売っていた。ちょっと顔を突っ込む。
民家の造りは殆ど同じだが中には立派なお屋敷もある。貧富の差が拡大しているようだ。 T字路より道は右折し南下する。途中土屋さん子供達に囲まれる。

13:25 川を越えた所で終了。当初、各班12km歩く予定であったが残りの距離が短い事が分かり、2班は10kmで終わり、 3班は5kmと短縮された。車を待つ間に小学生らしき男の子と英語でしゃべる。学校がトビリシまでとかなりの遠距離通学で驚く。 ここから車で国境のそばまで移動する。

14:00 国境。
100m程手前から全員でゲートまで歩く。許しを得て税関前で写真をとる。 トルコ側と異なりそれほど重々しい雰囲気はなく往来もあまり無いのか静かな国境だった。趣旨を話し職員にサインを貰う。
14:30 少し戻った所で遅い昼食をとる。成功を祝し生ビールで乾杯。焼き肉が美味しい。帰りの車では殆ど全員が居眠りをする。 全行程無事に終了し安堵感が車内に漂う。
18:00ホテル帰着。
19:00 川沿いのレストランで夕食。
フライドポテト、マッシュルームのクリーム煮、ステーキを頼んだが、出来たステーキは薄い肉のから揚げのような物で唖然とした。 これで75$ということなので二度驚く。今日でユーリ運転手ともお別れとなるのでチャーター料を清算し、チップとして30$払う。 とてもいいおじさんだったと感謝する。
オレッグとギアはモスクワからボスが来るとの事で空港に迎えに行き、我々だけでホテルに帰る。 ホテルでユーリと別れる。一人一人抱き合って別れの挨拶をする。彼の家はKutaisi、明朝帰る由。
ホテル近くのスーパーでワインとオレンジを買う。赤5ラリ、白6ラリ、オレンジ6個1.7ラリとは安い。ホテルで再度祝杯をあげる。

以上でグルジア横断歩行は無事終了した。
今回の歩行は車のチャーターという新しい方式の導入で一気に1国を済ます事が出来たが、トヨタ、トーメンの協力の賜と感謝したい。


 6.見聞録
6-1.ル−トの状況
グルジア全土をほぼ西から東へ約550km歩いた。道程の80%は幹線国道、残りはそのバイパス的国道であった。 どちらも片側一車線以上の舗装道路であるが、後者は穴があり、工事中の所も多かった。
道路の両側には1〜2mの土又はジャリの測道があり、ほとんどここを歩いた。首都トビリシ近郊以外は車も少なく、車が危険に感じられることはなかった。
沿道には果物の露店、飲み物の売店、ガソリンスタンドは多いが、昼食がとれる食堂は少なく、昼食は手持ちの食料ですませる場合が多かったようだ。

6-2.自然環境
9月初旬の2週間の滞在中、昼間は曇り時々霧雨で夜一時雨の日が2日あり、その他の日は晴れて乾燥した日が続いた。
また、風らしい風が吹いた日は1日であった。気温は20〜25℃で昼夜の差はあまりないように感じられた。 国土は山あり川ありで、ヨ−ロッパより日本の風景に近いように感じられた。 しかし、山はなだらかで木も少なく、川の流れは緩く水は汚れているようだ。
国の西側は黒海に面しており、そのデルタ地帯は広く緑に覆われており、東に行くにつれ標高3〜400mのなだらかな高原になっている。

6-3.人々の生活
グルジア人のほとんどは農民であり、牛(肉牛、ジャ−ジ−種)、豚、鶏の牧畜、ジャガイモ、小麦などの穀類や野菜、果物を栽培しているようである。
旧ソ連時代の集団農場の跡はあちこちに見られるが、機能している様子はなく、個人経営に変わったのであろう。 しかし、古い農機はまだ使われていた。一方、近代的な工場は皆無に等しく、唯一目にしたのはコカコ−ラ工場である。 旧ソ連時代の工場はあちこちで目にしたがほとんど操業されておらず、この工場から鉄を回収するのが産業のようであった。 理由は不明であるが、人々の移動は多いようで、多数走っているバスは皆満員であった。 車は分解寸前の古いものが多く、したがって修理工場やガソリンスタンドも多かった。

6-4.食べ物・酒・その他
食事はトマトとキュウリのサラダ、パン、チ−ズ、串焼の肉、果物がひとつのコ−スで、肉を牛、豚、鳥、魚と変えるのが、食事のおもなバラエテイ−だった。 しかし、肉はどれも軟らかく、おいしかった。
旧ソ連時代にはソ連圏の高級ワインはグルジア産と言われたようで、種類も豊富であった。 甘口の赤が有名で高価だが、日本人には合わないようで、辛口の赤、白を毎晩のように飲んだ。 値段は1本300円程度で高価なものでも1000円程であった。ビ−ルの銘柄も数種類あり、味もまあまあだった。
しかし、グルジア人はウオッカとコ−ラが好みのようであった。

 7.人々との交流の記録録
ここで、今回の歩行に際して大変お世話になったトヨタ自動車の高橋信汎様およびト−メン(株)の柴田芳孝様、松井晃様、鈴木敏様に感謝の意を表したい。
これらの方々には計画段階でのコ−スの下見、電話の通じないホテルの予約、トルコでのグルジアビザ取得 のみならず、我々のグルジア滞在の12日間を通して、ト−メン・モスクワの Oleg Ustinv(オレ−グ)様およびト−メン・グルジアのGia Tsutskvashvil(ギア)様の2名を通訳兼道案内として付けてくれるという破格の援助をしていただいた。
今回の歩行が計画通り、また無事に終えられたのは高橋様をはじめとする皆様の援助によるものである。
また、これらの方々を紹介してくれた今回の歩行のリ−ダ−石塚氏にも感謝したい。

今回の歩行ではグルジア人との交流は少なかったが、高橋様他の日本の方々にユ−ラシアを歩く会を知ってもらい、賛同してもらったことは人々との交流の記録でもあろう。
さて、グルジアにおける交流についてであるが、グルジアの公用語はグルジア語でロシア語もある程度通じるようであった。 しかし、英語は一部のホテルのフロントで通用した以外、一般の人には通用しなかった。
したがって、グルジア人との会話は同行したロシア人のオレ−グとグルジア人のギアの通訳によるもので、何か伝えたい事があると我々(日本語−−英語)、オレ−グ(英語−−ロシア語)、ギア(ロシア語−−グルジア語)によりやっとロシア語を知らないグルジア人に伝わるということになる。 そのため、グルジア人と親しく交流することはできなかった。しかし、ギアが我々を一晩自宅に招いてくれたので、グルジアの家庭料理を楽しみ、生活の一端を見ることができた。また、 トヨタ車の運転手ユ−リとは通訳を介さなくともある程度意志の疎通が出来るようになった。