アゼルバイジャン 戻る
 1.計画コース概要
地域分類 中央アジア区間番号 53〜56
国名 アゼルバイジャン( AZERBAIJAN )実施時期 2001.5.12〜5.28
計画区間 BARAKAN〜BAKU歩行者 6名
 2.メンバー表
No役割・分担氏  名備  考
1リーダー 和田 航一 3期
2記録 土屋 淳一 4期
3渉外 跡部 輝彦 6期
4会計 綾部 迪夫 7期
5ビデオ・渉外 荒井 龍男 8期
6--- 林  正康 8期
*添乗・通訳 Asaf Bakirov トーメン//アゼル現地社員
*ドライバ ロフシャン 運転
 3.行き・帰り
出発日出発到着便名
往路01.05.12 成田 モスクワ・第2 SU582/アエロフロート
01.05.13 モスクワ・第1 バクー/VIZA取得 SU189/アエロフロート
復路01.05.26 バクー モスクワ・第1 SU190/アエロフロート
01.05.27 モスクワ・第2 成田(5.28) SU587/アエロフロート
 4.現地/アゼルバイジャヤンの活動
滞在日年月日出発〜到着区間距離天候宿泊
01.05.13 バクー空港〜市内ホテル   Baku Intourist Hotel
201.05.14 ホテルトーメン事務所〜日本大使館   Zagatara Hotel Tara
301.05.15 グルジア国境〜Katech〜Aliabad50 km快晴 土屋・綾部警察に尋問される
401.05.16 Aliabad〜Daymadacil〜Agyazi50 km Saki Karavansaray
501.05.17 Agyazi〜Kudurlu〜Saki50 km Saki Karavansaray
601.05.18 Saki〜Oguz〜Gabala53 km Saki Karavansaray
701.05.19 休養日、林帰国   Ismayill MotelTalystn
801.05.20 Gabala〜Tppcu〜Ismayill50 km Ssmax Rest House
901.05.21 Ismayill〜Basqal〜Samaxi53 km Ssmax Rest House
1001.05.22 Ismayill〜Basqal〜Samaxi53 km Ssmax Rest House
1101.05.23 ISamaxi〜  〜Baku54 km晴・強風 Baku Intourist Hotel
1201.05.24 Baku〜日本大使館〜Azadilq9 km Asafの案内、全員で歩く
1301.05.25 Baku観光   Baku Intourist Hotel
   歩行距離 計424 km  
 5.区間コース
 6.見聞録
6−1.ルートの状況
 昨年到達したグルジア国境(TSODNA)とのアゼルバイジャン側の接続点には村落は無く国境検問所がある場所であった。
ここから東南に走る大カフカス山脈の南面に沿った国道を歩く。
 但しZAQATALA−QAX(ガフ)−SEKI 間は車両通行不備でナビ車が入れないのでZAQATALA から 盆地側の国道をSEKI への分岐点迄迂回してSEKI の町へ入った。
 SAMAXI(シャマフ)に至る間は桑、クルミ、オークなどの長い並木や牧草、麦畑の原の緑に恵まれた余裕のある一車線の 舗装道路であった。
 シャマフを過ぎMARAZAに至ると以降BAKU迄は疎らな枯れ草のステップから土漠の日陰のない道となった。
車両の通行は少なく、トラックも少ないので歩行時の気苦労は無かったが、山麓や盆地の道路では道一杯に広がって移動する羊や牛(水牛も混ざっている)の群にしばしたじろぐ場面もあった。
特に羊の群を追う牧羊犬は我々に向かってくるので牧童が制御(声や棒で)してくれなければどうなることかとただ佇むばかりであった。(トルクメニスタンでは要注意)

6−2.自然環境
バクー手前100q以前は大カフカス山脈の麓の道であり5月の木々の緑と黄色や紫の花々に目を癒され、道路の並木は桑の木、クルミの木、オークの並木が続いて歩行者に日陰を作ってくれていた。
 根元に雑草もなく奥まで見渡せる鬱蒼とした森の中の道もあった。かと思うとザガタラからシェキ分岐の道は山麓から離れた盆地の中であり周囲は麦畑や雑草の低い丘の中の道であった。

近くの3千、4千メートル級の山の影響を受けやすく山々から雲が下ってくると風に乗って雨となる。  しかし行程中、5/15小雨後晴、5/18雨の二日間以外は、湿度の  少ない25度位の快適な日中の気温であった。   山麓地の河川は粘土を含んだ黒い流れで、雨の日は山からの石を含んだ  濁流が道路の暗渠を塞ぎ道路上を走っている場面にも出会った。
 それでも山陰から湧き出る水や盆地での湧き水は清く流れていた。


  バクー手前100q近辺からは樹木は無くなり道路沿いに僅かに生えた雑草  はもう枯れ草色になり山麓では紫色に咲き誇っていた薊もこの近辺では  背も低く既に枯れかかって綿毛を着けている。

  周囲の緩い緩い丘陵は乾いた土漠で所々に細い葉の雑草が僅かに固まって  生き延びている。

 この地域は雨も少ないらしいが、始終、強い乾いた風が吹きつける。
 土漠の丘の谷間などを通過するときなどは身をよじるほどである。

 6−3.人々の生活
  バクーの町では古びた石油の油井群と新設の海上リグ、近郊のビール工場とコーラ工場が目に付いたが、田舎では牧畜と麦以外で一体何をして生活しているのであろうか。
  交通警官が多くバクー市内では辻々に何をするでもなく群れている。町の境にも検問所があり何をするのか  分からないが屯している。ポリスカーにのって道路途中で待機している者もいる。この地では昼休みは1時から2時と聞いているが歩行中我々が2時過ぎに森の縁のチャイ屋で休んでいた時、車を止めて寄ってきて雑談をし、いつものように木陰でチャイ屋のアンちゃんとゲームに熱中してしまった警官もいた。
  このゲームはどこへ行ってもやっていて男達は夢中でサイコロを振って駒を進めていた。軍隊と警察などへの就業が  多いのかもしれない。

  農業は麦が多そうだが山麓では羊、牛などの多くても50頭前後の牧畜の群、少なかった葡萄畑。町中では小さな  間口の商店、雑貨、パン、土木材料店、元気の良い肉屋  (羊の皮むき状態をつるしてある、頭をぶる下げたりして展示するのが新鮮さ自慢か?)   バザールには香草、ジャガイモ、トマト、サクランボ、小麦、中国製雑貨等、商いをする人々。
 そして昼間中チャイ屋に屯している男達。農産物の商いには女性が多い。

 学校は早組、遅組の二部制のようで昼過ぎBalakanの町を歩いていたら下校、登校の生徒に遭遇した。
下校組はだいたいは三人四人と群れているが登校はその辺の辻から出てくるので一人が多い。
女の子は制服らしいブラウス、スカートを着用している。 アゼル語のサラームとトルコ語のメルハバが通じたがこの近辺ではハローに応えてくれた者はいなかった。 しかし、イスマイリでの休日にバザールの帰り道にハローと声を掛けて途中迄付いてきた一人の 15歳の少年は英語が話せて当方の英語可のメンバーと会話していた。
翌日イスマイリから20qほど戻り歩いていたら町の2q程手前で左の藪になった林から少年が5人程出てきて、 一人が昨日会ったねと声を掛けてきた。
 細身のリヤカーに8p程の太さの枝を綺麗に山盛りにして弟と二人で引いて我々の歩調に会わせて町へ戻る。 毎日曜日に家で使う薪を取りに来るのだそうだ。親の仕事は聞かずじまいであった。
この地にも学校で英語を教える波がやってくるに違いない。
 ホテルは何れも宿泊者が少ない。トイレは一応水洗であるがイスマイリでは便座が無く紙もなかったので 事前情報で持ち込んだロール紙が役に立った。行程中で会う人々は挨拶すると応えたり頷いたり手をかざしたりしてくれる。
 随分手前から我々の歩行を凝視していて、すれ違うとき手を挙げると応えてくれたりする。 羊、牛馬の群を追っている牧童は激しい声で家畜を追い日焼けして厳めしい顔立ちをしているが、挨拶を交わしたり、 犬を追ってくれたり中には自慢の羊を捕まえてきて一緒に写真を撮れなどと誘ってくれる。
 カウボーイ風に馬に乗って牛や馬の群をしたがえている組みも見かけた。同じ牧童でも乗馬組は多少誇りを持っている風であった。

 一方、5/21アグスへの分岐あたりで二班がジプシー風の少年二人に密着され背中のザックなどを触られるようなことがあり  ナビ車が到着したら右折して消えていったそうである。
 翌日の一班行程のバクー100qほど手前のマラザと言う町はジプシーの町と言われて彼等の中にはバクー市内へ通勤して  物乞い等をを業とする者がいると言う情報で我々は緊張した。
 この地域はナビ車が密着して通過、二班の昼食レストランも該当すると言うのでナビ車の三人が食事はせずに  付き添っていてくれた。
 おかげで何もなく通過したが、殆んど土漠の中に出来上がった町の住人に悪いが猜疑心を持って通り過ぎた。

  バクー市内は都市化が進み銀座通りは老若男女が行き交い、  若い女性にはノースリーブにぴちぴちパンツやスリットスカートを  ひらひらさせて闊歩したり、15pもある上げ底靴を履いた子も  いる。所々に緑の樹木のある公園もあり人々が屯している。
  昼休みには海岸の公園に人並みが多くなり出店で簡単な昼食を  取っているようだ。食品のスーパーマーケットもあり品揃えも  豊富である。勿論マックもあり類似した店もあり、人々で  賑わっている。しかし銀座通りを離れると人通りは少なくなる。
 交通量は多く乗用車やバスが行き交う。ミニバスの横窓には  系統番号が張られて500マナト(約13円)の表示がされている。
  朝九時ホテルの前で道路を眺めていると、どれもほぼ満杯で  走っている。市内への勤め人男女のようだ。

 6−4.食べ物・酒・その他
 食べ物 :
 料理のことは解らないので大抵焼き肉(ケバブ、シャシリク)と言うと羊とチキンの選択になる。 黙っていると殆ど羊肉のあばら骨付き、柔らかく旨い。時に脂身だけの焼き身が一皿に一・二塊出るがこれが又旨い。
 サラダには輪切りのキュウリとトマトの皿、それに香草が別皿に盛り付けられてくる。 ワケギのような茎のソーガン(白い球根がついているのもありオニオンだと言うが?)、 タンポポの葉のようなヴァサリ、細長の葉っぱを付けたタルホン、せりの葉のようなキシニシュ、 形と色は赤紫蘇の葉のようなレイハン等、肉を食べてはこれらの草を指で束ねて口に入れる。 特有の香りが強いので好き嫌いあり。

 ザガタラでは鮭のような大きい川魚サザンのフライ(唐揚げ)も良かった。
歩行中に昼食をと道端の木陰の焼き肉露店に寄ったらブタ肉専門。 イスラムではいかがなものかと気にしていたら現地人のアサフや運転手も一緒にたべたそうだ。
 ライス物ではポロ(チキンのピラフ)、汁物では羊肉のぶつ切りと臀部の脂身とジャガイモやトマト等を 素焼きの壷で煮込んだピテイ、20p程の羊の前足を一本放り込んだカレー味のどんぶりスープ (前足を取り出しスープにパンを千切り啜り、別皿にしたすねをかじる:SOYUTMA)パンはフランスパンを 一回り大きくしたような外形の輪切りしたもの、場所によりナンのように薄くたたんで出るラパス、クタブも 付いてくる。

 朝食はパンに蜂蜜、白いチーズ、バターとチャイが定番、バクーのホテルでは蜂蜜はなかったがサラミ二枚と卵、 日替わりで玉子焼きとゆで卵。昼と夜にはサラダが付き、大抵はトマトとキュウリの輪切り、香草の盛り合わせ皿が定番。季節のサクランボ、イチゴや縦割りキュウリの酢漬けもあった。

 酒と水:
  町の食品店にはワイン、ウオッカ、ブランデー、ビール等あり、ホテルやレストランでもOK。
露店や路傍の焼き肉屋でもビールは可。ビールに関しては昼飯時と行程終了時及び毎夕食時には無しではいられなかった。ビールには二銘柄に出会ったが多くはXIRDALAN銘でラガーと黒があったようだが大抵はラガーがだされた (500ml瓶 2500〜3000マナト=65〜75円位)。
 ワインについては今回はワインノート等持参で蘊蓄を傾ける者もなくその日の気分で赤だ白だで飲んだが何れも辛口。 ウオッカは町で買った物を夕食後の一杯時に皆でちびちび飲んだ。
飲料水に関してはノンガスの1.5リットルボトル(40〜50円/本)を略毎日8本(パックになっている)を購入して各自歩行時に携帯し、予備をナビ車に搭載して置いた。
 水道水は濁りも無く綺麗であったがシャマフの山奥のレストハウスで湧かしてインスタントコーヒを飲んだ程度である。
 その他:
  初日の一班終点でビールを買ったときオヤジがおまけに呉れた小さなポリ袋に入った煮干しサイズの 薫製はチィップの香りが香ばしい物でなかなかいけた。
 翌日の行程中露店で見つけたので5袋ほど購入し以後の夕食後の一杯時につまみとした。
 土漠地帯の歩行班からリクエストがありナビ車でバクーの町に戻り、  露店でトマトを購入した(1s:2000マナト=53円)。
 ゴルフボールの1.2倍程度の小粒だが1.5s購入して歩行者に配布したが取れたてでジューシであった。 ASAFは安いだろう日本ではいくらすると聞かれたが、応えられなかった。

 7.人々との交流の記録
 7−1.現地でお世話になった方々
株式会社トーメン バクー事務所長 二宮靖雄氏
  事前の現地調査等を指揮して頂いたほか、現地入り後は所員のMr.ASAFを全行程密着ガイドに付けてただいた。その他プリペイド式携帯電話の準備、レンタカーの確保等我々の安全歩行のためにご配慮を頂いた。 初日には事務所でバクーの歴史や石油の状況、見所などのガイダンスと共に大使とのアポを取っていただいた。

 特命全権大使 廣瀬徹也氏 アゼルバイジャン国駐在
  二宮氏の案内で大使に当会の趣旨と今回の行程を報告。グルジアも兼務とのこと。学生時代にはワンゲル(京都府大?)だったそうで歓迎を受けた。
 踏破完了日(大使のご都合で一日前になったが)には我々のために公邸のレストルームでドリンクパーテーの踏破祝いを開催して頂いた。我々の他二宮氏,Mr.ASAF、武藤書記官と在住日本人(イスラムに詳しい若い男性)であった。 ご多忙中にも拘わらず熱い歓待を受けた。

トーメンバクー事務所員  Mr.ASAF BAKIROV
  バクー空港到着時から空港出発まで14日間、我々に密着して案内と通訳をしてくれた26歳新婚6ケ月目の若者。
  英・露・アゼル語でホテル予約の確認、メニューの案内と選択、買い物の支援と交渉等、きめ細かく年寄りのメンバーの面倒を見てくれた。 カメラを構えるとナビ車の助手席からわざわざ乗り出したりおどけたりする。

   レンタカー運転手 ロブシャン氏
  バクー到着二日目から12日間 、我々の出発点への移動や終点からの回収と共に歩行期間中は監視の往復のナビ車(ベンツ・15人乗り)の運転手。バクー在住27歳、2歳の女児。露・アゼル語。坊主頭で毛が薄い。
  日中はあまり車から降りずハンドルに掴まっている。言葉の関係からか我々には無口。
 しかし、アサフとは今回初めての出会いであるに違いないのに運転中は二人で話題がつきない。
 二人で笑ったり感心しあっている。
  後部席のナビゲータ当番は何か聞こうとしてもきっかけがつかめず困惑した者もいる。
  イスラム圏を旅行したとき同じような経験をし日本人ガイドに静粛を求めたら「しゃべることを止めることは、死ぬよりつらい」とのこと。二人は言葉の通ぜぬ我々との二週間をどんなに耐えていてくれたのか、誠にご苦労さまでした。

 トーメンモスクワ  Mr.OLEG USTINOV
   トーメン東京からの事前連絡により計画を知っていたオレグが行きの中継点モスクワのインツーリストホテルの
  ロビーで待機していてくれて赤の広場近くのレストランで夕食を共にした。   昨年のグルジアでの支援を謝す。
  復路の5/27はホテルを16時迄に出ればよいのでその間、町を案内してくれると赤の広場内を一巡、地下鉄に乗って
  モスクワ大学近くの市内が展望できる場所や地下鉄マヤコフスカヤ駅の天井のモザイク見学を案内してくれた。
  ホテルから空港へのタクシーとして8人乗車の車を$40で手配してくれた。
  日曜にも拘わらず、田舎の別荘から出てきて面倒を見てくれたのである。

 7−2. 現地で遭遇した人々
  歩行中や飲食、買物等で挨拶や何らかのやりとりを交わした人々は多いので一部を記す。
 バラカンの町を過ぎた所で歩行中に巡査と私服のKGBに旅券とVISAの提示を求められたが当初はCOPYしか提示しなかった故か現物を出しても埒があかず言葉が通じないこともあってバラカン署に連行された。
 KGBは旅券の入出国記録を一生懸命写していたがそれでおしまいになった。歩行証記入用紙を出して我々が歩いているのを見たのだから書いてくれとせがんだら記入して呉れて握手して別れた。署名は半丸の一端にひげで氏名不詳、30代後半か?。
 バラカン署を解放され、ナビ車で元の位置に戻してもらい一時間も歩いた頃、羊の一群と遭遇、牧童が黒くて角が大きい一匹をねじ伏せ写真を撮れと誘ってくれた。
 その後20分も歩くと左手の丘の道から少女二人、サラムとあいさつするとやや細くて背の低い方が何か言ってくる<、真っ赤なバラを二本持った少しふくよかで大きい方ははにかみ消極的。写真を撮って送るからと名前と住所を書けと身振り手振り。低い方が書いてくれたが判読も難。
 彼女はMYZEJCANちゃんか?住所にKAMEXとある箇所があり地図のKATEX村に該当するのではないか。 兎も角、記入部をコピーして宛名として帰国後写真を送った。

  この日の終点にあった露店でビールを買った。冷たいのを呉れ(身振り)と言ったらオヤジ裏の母屋にいって持ってきたがついでに奥さんと婆ちゃんも出てくる。
 元々露店の脇でゲームをやっていた3人のアンチャンとオヤジの他に更に二三人のオヤジが立ち飲みしている我々二人を取り囲む、オヤジは店の棚から薫製煮干しの袋を出して袋を破りおごってくれた。ナビ車が迎えに来てくれて話が見えるようになり写真を撮ってくれと並ぶ。 婆ちゃん最初はいやがっていたが家族に誘われだんだん積極的。住所氏名を書いて貰ったのでコピーして宛名とした。名前の最初の一字が不明 〇AMEDOV ILTIJAT 住所はKATEKH村69。

  5/16の2時、道から少し離れた森の縁のチャイ屋に寄って木陰のベンチに座りビールを求めたが無くて、チャイのみ、冷たい物を求めたらラベルがQAXとあるビール瓶を一本持ってきたので開けて飲んだら炭酸鉱泉水(ILISU)、三人で一応飲み干す。この奥にQAXの町があり有名な水だという、タバコを交換しあい雑談身振り、以前日本人がバイクで通っていったそうだ。ポリスカーが来て少し先で太っちょと細チョの交通警官二人降りてきて握手を求め日本人か等と我々のベンチに同席して雑談する。写真を撮るとカメラを示すと皆でポーズ。
 チャイ屋のオヤジに歩行証明を書いて貰う。場所はKAXUと記し名はKSPUEOB?判読。
 金を払おうとヘサップ(トルコ語の勘定書)を繰り返したらオヤジはいいよと言う。警官も同調していいよと言うようなこと示したのでチャイと鉱泉水一本をゴチになった。

  オヤジはサインしてくれと小さな手帳のあき頁を探してよこしたのでローマ字で住所と名前そして漢字で氏名を  書いたら嬉しそうだった。細チョ警官はチャイ屋の倅と道端の木陰でゲームを始めてしまった。強い日射しに光る道路には全くと言うほど車は通らなかった この日の昼に道から小川を渡った草付きにレジャーシートを敷いて靴を
 脱ぎ捨て休んでいたら、長い柄の大きい草刈り鎌を持った日焼けした若い男が反対の藪(藪の奥が農地のようであった)から出てきて目の前の小川で鎌を洗い我々の横にしゃがみ込んでタバコを吸い始めてしまった。
 靴を脱いでいるので不用心とは思ったがこちらは3人、暫く無視していたが近づいてヤパーニのタバコと言って
 マイルドセブンを一本出すと受け取り彼のタバコを一本呉れた。全く言葉は通じないが彼のタバコはナーシャプリーマと言うらしくここはカースだそうだ。どうも町村名でなく日本で言う県名を言っているようである。
 前記のチャイ屋ではKAXU、アゼルの地図ではQAX、カナダ製地図ではGACH

  5/20 前記した薪取り少年に会いイスマイリで宿泊したモーテルを過ぎた検問所で珍しく若い警官に英語でこの道は安全だよと声を掛けられた。
 終点の大木の枝に赤い紐がぶら下がっている場所の日なたでナビ車の到着を待つためにしゃがみ込んでいたら背後の藪から若い牧童が出てきて近くに佇む。サラムと挨拶を交わす。
 タバコを一本進呈。何やら話してくれているが相互に不明。藪の奥の牛が気になるらしく去っていった。

  言葉は通じなくとも、土地の言葉での「今日は」と共に大人には日本製タバコの一本、子供には二箱百円のキャラメル一粒が交流のきっかけになる。他のメンバーにも忘れられないエピソードがあったようだが一例では。
 シャマハ(SHEMAKHA:SAMAXI) 近くで歩いていると「なぜ車が無いのか、金が無いのか」等と老婆が心配してくれて近くの若者に乗せてやる車を探せ等と指図して呉れたと、夜のミーティング時に感動しながら話していた。
 シャマハ迄は緑豊かな田舎で人々はシャイで朴訥な感じ。
 妙な異邦人に対して興味はあるようで近くまでは寄るが、自分からは滅多に声を掛けない。 一旦うち解けると何かと親切、これを機に村人仲間や親族が寄ってくる場合がある。

 8.健康・安全面の記録
8−1.健康
  下痢、腹痛、風邪等の申告者はなかった。足のマメは2〜3名 作ったようだ、一名が多少庇うような
 足運びであったが歩行には差し支えなかった。
 第3歩行日に、昔バイクで負った左膝の怪我の古傷が冷たい雨と温度にうずくと8q程残して林君がナビ車に
 乗ってしまったが以後の日程の歩行は支障が無かったようである。

8−2.安全面(各種トラブル)
@ 5/14モスクワ第一空港からバクーへの出国の申告に際して、一人が詳細に持ち金をチェック(バック内を点検、一枚一枚数える)された。申告した日本円が3万円多いと取り上げ、暫く問答のうえやっと返してくれた。
 他のメンバーの分は検査官も違い提示した札だけを数えて特に指摘は無かった。

A  5/14国境検問所で写真撮影禁止と言うので、正面の奥に見える円い屋根の二階建て検問事務所をスケッチしていたらゲートの銃を担いだ衛兵がのぞき込み、止めろそれを破けと身振りするので半頁分千切ってポッケットにねじ込んだ。

B 5/15バラカン先で車で追跡してきた制服警官を同行させた私服(KGB)にパスポートの提示を求められたが、用心のためコピーを提示、オリジナルを見せろとでも言っているようだが暫くとぼけた問答をして提示しなかった。
 ASAFに電話して確認後懐中より出したのが相手の気に障ったのかバラカン署迄、制服警官の車で連れて行かれた。KGBは近くに停めてあった自分の車で後から来た。署長室らしき所で我々二人を前に座らせパスポートをめくっては白い紙に入出国日付を書き写してお終い。歩行を停められたこともありKGBに貴方は我々が歩いているのを見たのだからこの歩行証にサインしてくれと
 求めたら一度突き返されたが迫ったら書いてくれた。制服警官に送って行けと言って一人去っていった。制服警官は昼飯時変な者に付き合わされた故かやる気がなかったように見えた。

C 5/21アグスへの分岐を過ぎた先でジプシー風の少年二人がだっまってつきまとい背中のザックを触ったりされたらしいがナビ車が来たら程なく右手に折れていった。

D 5/22バクーへ普通の服装で出勤して町で物乞いをする人が多い町だとASAFが神経を使うマラザの町を通過するに際してナビ車は密着同行してくれた。又其の先の土漠化した場所に有った一軒のレストランも其の範囲に有ると歩行者二人が焼き肉を食べている間、同席して いてくれた。幸い何事も無かったが不安な行程であった。

E 5/26バクー空港からの出国時に荷物透視で市内の露店で購入した壷が摘出されてアンチック物ではないかと疑われ係官同士で値踏みしたりして足止めされた。露店での購入の為、販売証等が無く、念の為と書いて置いた手帳のメモの金額で納得して貰ったそうである。(ホテ ルや本屋で絵はがきや地図を購入した際A5版販売証記入して呉れた)。

F 5/27帰国の為にモスクワに滞在し、オレグの案内で赤の広い場の地下鉄駅で乗車しようとしたらホームの陰にいた6歳位の女の子ずれの女三組ほどにメンバー二人が後ろから乗車口に押し込むように取り付き、尻のポケットから財布を抜いた。二人は気づき手をねじ上げ財布 を取り上げたが札だけが綺麗に抜かれていた。
 捕まえていたら子供がギャーギャーわめくので手を離したら逃げてしまった。オレグが奔走してくれたが警官は来なかった。エスカレーターを登って改札口の警官詰め所に行ったら入口に警官が立っていてオレグが何か言っていたがどうも埒があかない。詰め所の奥を覗いたら同じよ うなジプシー女の一群が見えた。別のグループだそうだ。警官は扉を閉め鍵を掛けてしまった。埒があかないので諦めることにしたが一人は200ドルほどもやられたようである。オレグは申し訳なさそうにしょぼんとしてしまった。
 彼女たちの早業は札だけ抜きカード類は残っていた。尻のポケットへの収納は止めようと反省する出来事であった。

G 5/27夕方、モスクワ出国に際して無申告ゲート側に入った三人が荷物の透視チェックで500グラム入りのキャビアのガラス瓶を取り上げられてしまった。環境?保護法とやらで250グラム迄だと埒があかない。 日本人ツアーの添乗員が口を利いてくれたらしいが一瓶につき$50徴収されたと、たっぷり遅れて出国審査を終えて出てきた。
 持ち金が1000ドルを越えていたので用心のため申告側に回った二人は荷物を持ったまま申告書を出したら入国時の申告書と一寸対比しただけでOKであった。

 9.費  用
 9−1.
個人概算費用   ドル換算  途中帰国者は渡航費以外は滞在日数で減
渡航費  937.5モスクワ宿泊費含む:本田へ112500円
ロシア査証  75ダブルビザ 国内にて本田へ9000円
査証二国分  80ロシア・アゼルバイジャン各$40
宿泊費   265シャマフ、バクーは$。他はマナトで支払
食費  215朝食、夕食分及び移動日と休養日の昼分
その他飲食代  11主として飲料水
共同分担費  343チャータ車・携帯電話
AIU保険  31.5国内にてアイエスオーへ4830円
その他  95個人別買い物等の支払いは含まない
基本合計  2053ほかに歩行時の個別昼食代  約$50
  *1.本田とあるのはホンダトラベル、
  *2.換算 1$=120円=4600マナト=28ルーブルとした。

 9−2.共同契約料金
   チャーター車: $135/日(運転手の宿泊・食費は別)12日間。
   携帯電話  : $210 ( 借用3台のリース料とプリペイドカード代)
    *滞在利用日数により個人割り振りした。

 9−3.参考:当時の両替レート
  ロシア 1$=28ルーブル(ホテルで)
  アゼルバイジヤン  1$=4600マナト (空港で)
  市内では主に4630、4675,4635等あり。

 9−4.参考:アゼルバイジャン物価の一例 M=マナト
300ml瓶ビール 2、500M
ワイン一瓶  20,000M
市内バス  500M
フレンチフライドポテト  5、000M
トマト 1s  2、000M
アゼル全図 50万分一   100,000M
2L水ボトル  1,800M
はがき日本への切手代   3,500M
ソーガン(玉葱) 1s   1,800M


 10.記録写真・ビデオなど
  ビデオ担当の荒井龍男による「アゼルバイジヤン歩行」で歩行環境と状況について、具体的にお伝えすることができる。事務局に一巻提出済み。
 11.その他
  跡部輝彦が纏めた3頁の各論を参考に添付する。
 12.結 び
  グルジア同様に今回の行動も石塚氏関連でのトヨタ、トーメン各社のご協力及び当会各位の情報入手・折衝を得て無事完了できた。ご支援を感謝して報告いたします。