横贯两大陆    中国その3 戻る 
 1.計画コース概要
地域分類  中国 区間番号  89~93
国名  中国 実施時期  2006.05.21~05.28~06.03
計画区間 新疆ウイグル自治区・哈密(ハミ)西~甘粛省・嘉峪关 歩行者  6/10名
  2.メンバー表
No 役割・分担
 氏  名
グループ 備  考
1
隊長
 中村 文広 フル参加  ワンゲル5期
2
記録
 跡部 輝彦 フル参加  ワンゲル6期
3
会計
 結城 皖曠 フル参加  大阪府立大ワンゲルOB
4
 
 高平 仁雄 フル参加  荒井友人
5    久藤 宣機 フル参加  荒井友人(関西より参加)
6
 
 松見 豊和 フル参加  東京都立大学・12期OB(関西より参加)
7    石塚 正太郎 後半参加   ワンゲル5期
8    篠崎 次郎 後半参加  ワンゲル6期
9    松本 明子 後半参加  石塚友人
10    松本 美和 後半参加  
 3.行き・帰り
  出発 到着 便名
往路1 06.05.21  成田   北京   CA442/中国国際航空
 関西空港  北京  CA162/中国国際航空
 北京  乌鲁木齐(ウルムチ)  CZ6902/中国南方航空
往路2 06.05.27 成田  北京  CA962/中国国際航空(後半参加グループ)
06.05.28  北京  敦煌  CA1287/中国国際航空(後半参加グループ)
復路 06.06.03  敦煌  北京  CA1288/中国国際航空
06.06.03  北京  成田   CA421/中国国際航空
06.06.03  北京  関西空港   CA161/中国国際航空
 4.歩行の記録 跡部 輝彦(6期)
滞在日
年月日
出発~到着 区間距離 天候 宿泊
1
06.05.21(日) 北京で入国手続き後国内便でウルムチへ
  メンバー;中村、跡部、結城、高平、松見、久藤
移動日   屯河華美達大酒店
2
06.05.22(月) マイクロバスでトルフアンへ 移動日 トルフアン賓館
3
06.05.23(火) マイクロバスでハミへ 移動日 ハミ電力賓館
4
06.05.24(水) 最終組は目的地へ先行して西向きに歩く。3548kmキロポストからスタート 75㎞ ハミ電力賓館
5
06.05.25(木) 3班は蜜蜂の巣箱を輸送するトラックに遭遇 75㎞ 星星峡賓館
6
06.05.26(金) 足のマメに悩むメンバーあり、1班は逆行して下り 78km 星星峡賓館
7
06.05.27(土) 省境ではKm道標が不連続。12km短い 76㎞ 柳園賓館
8
06.05.28(日) 後半参加組(篠崎、松本明子、松本美和、石塚)到着。
ガイドに到着時間伝達ミスあり。
休養日 柳園賓館
9
06.05.29(月) 安西から完全に道路工事中。5班歩行断念。 94㎞ 安西賓館
10
06.05.30(火) 工事中の道路と未完成の高速道路を歩く。 98㎞ 玉門賓館
11
06.05.31(水) 終点を低窩鋪(Diwopu)駅と定め、4組で歩くが、
目的地までの距離が不明であった。3070kmキロポストまで
午後、嘉峪関見物
45km 玉門賓館
12
06.06.01(木) 玉門鎮からマイクロバスにて敦煌へ 移動日 西域賓館
13
06.06.02(金) 敦煌遊覧 終日観光 西域賓館
14
06.06.03(土) 敦煌から北京経由帰国 移動日    
歩行距離合計    
実測値;541㎞  キロポスト上;553km
 5.概要 中村 文広 (5期)

 中間点の柳園で後半隊が本隊に合流する形を取った。本隊は飛行機の便の関係から、北京経由で出発点から700Kmあまり西のウルムチに飛び、トルファン観光を兼ねて、陸路、出発点に達した。 後半隊は北京で一泊後、敦煌経由で柳園にて本隊に合流した。

 手配は前回と同じウルムチの新疆大自然国際旅行社にお願いした。ガイドと運転手は新任で張さんと楊さん。張さんは日本語も堪能で献身的に活動してくれた。しかし、旅行社自体の能力を含め、隣の甘粛省の情報に疎く、312号線の工事の情報を掴んでおらず、歩行計画が途中で挫折した。道路工事情況の情報収集に努めたが正確な情報が掴めず、計画を縮小せざるをなかった。結局、終着地を嘉峪関から手前約100Kmの 低窩鋪(Diwopu)駅前、キロポスト上では3070地点とし、今回の遠征を終えた

 陣容は後半のみの参加者を含め10人。内、部外者6名、女性2名、初参加者5名という、どれも初体験の部隊編成であった。班編成については、前半は3組で各25Km,後半は5班編成で、女性を含む2つの班は各22km、男性組は25Km。しかし、全面的工事に遭遇した後は組数をひつつ減らした。厳しい条件にもめげず、全員よく健闘した。

 最終的には目的地の嘉峪関も訪問でき、帰路は敦厚経由で、現地で一日観光した後、全員無事帰国した。

尚、詳しい経緯、反省事項等は中村メモにまとめたので申し送り事項と含め参照されたい。


 全員勢ぞろい(柳園賓館の入り口にて)
 前列右から/篠崎、松本美和、松本明子
 中段右から/松見、中村、跡部、
 後列右から/結城、高平、石塚、久藤
 6.見聞録
 6.1ルートの状況 中村文広 

 今回の歩行計画はアミの西38Km地点から嘉峪関までの約650Km。ゴビ灘を切り裂くように走る国道312号線をひたすら東進した。312号線のキロポスト上では、3623から2971まで。途中、オアシスや住む人のいる地域はごく一部で、おそらく全長の5%にも満たない。
 殆どが無人地帯、強風を最も警戒した。途中の都市、ハミ、星々峡、柳園、安西などは大小の差はあるが集落を抜けると土漠になった。幸い晴天に恵まれたが、かなり゙強い風は吹いた。風向きは日毎、場所毎に変わり、坂道と合わせ運不運があった

携帯電話の中継塔は散見したが、前半の無人地帯では電話が通じない地域もあった。

ルートの歩行条件を決める地形を見ると、大きく5つに変化した。

1、出発地点から星々峡手前約40Kmまでの約190Km;どこまでも平坦な赤茶けた土漠、道は視界の範囲を超え、はてしなく真直ぐ伸びる。強風地帯でもある 

2、星々峡付近の50Km;山岳地帯、道路の標高も1800mを越え、かなりの登り坂。ここらで天山山脈の東端の眺めとも別れる

3、柳園の少し先までの丘陵地帯、約70Km;道はうねりずっと緩やかな登りが続く

4、柳園の先約20Km以東;再び平坦な土漠。色は灰色に変わる。右手に遠く祁連山脈 

5、玉門鎮以東;道は狭く平坦。本格的オアシスもあり、水路や麦畑も道の左右現れる。

道は新疆ウイグル地区から甘粛省に入ると両脇の歩道も舗装され、二人並んでも歩ける広さになった。 距離は舗装道路ではキロポストを。又工事区間では車のメーターと50m間隔で並ぶ電柱Noを利用した。昼食は原則持参とした。

 今回の歩行実施時点では安西の郊外以東では312号線の全面高速道化が進められており、 かなり長い区間に渡って312号線をつぶして高速道を建設していた。 仮設道路は平行して設けられていたが、単に土漠をそのまま道にしただけで、ひどいでこぼこで道とほこりで、 通行する車の平均時速は20Km程度。

 移動、パトロール、回収に大幅な制限を受けた。工事区間でも一部を除いては工事中の高速道路を歩かせてもらえ、埃をかぶった程度で特に歩行上大きな障害はなかった。


  5/24 出発点


  5/31 三歩行ゴール地点
   (拡大できます)

 ハミから100km、ゴビ灘には入る
      (拡大できます)


  星星峡の山道
         (拡大できます)


柳園郊外の長い上り坂
   歩行者・篠崎  (拡大できます) 


 三歩行ゴール地点からハミ方向の
  道路標識を写した
 6.2 自然環境  久藤 宣機
 砂漠の朝は実に心地が良い。特に私達の歩行の間は天候に恵まれたかも知れない。しかし、良い心地も午前十時頃になると、段々暑くなり、「逃げ水」が現れる頃になると、風がなければとても歩く気になれない程(37~8℃)でした。幸いに弱い追い風ならラッキーですが、強い向かい風でも吹いて砂埃が立つと、堪ったものではありませんでした。

つむじ風も数回出会しました。急いでシャッターを切ったものの、実際に見たようには

写っておらず、ただ埃が舞っているだけで、つむじ風の説明にはなりませんでした。

星々峡の夜はたまたま闇夜で、空は闇を塗ったように真っ黒で、星が大きく見えました。小便をしながら5分ぐらい眺めていたら、すっかり冷えて(10℃以下)しまいました。

砂漠の湿度はきわめて低い所為か、日に日に皆さんが日焼けして、特に唇の荒れに苦労しましたー―メンソレータムが大活躍しました。

私は花が好きなので、花を捜しました。その結果、砂漠にも花が咲いている事を確認しました。色は紫、黄、赤、それぞれ名前を知りたくて、こっそり採取して地元の人に聞きましたが、解りませんでした。後で聞いた話ですが、養蜂業者がトラックでミツバチを移動しており、その蜜蜂が花に群がっているのが解りました。――しかし、その蜜蜂に襲われたグループもありました。

鳥は雀のような小鳥が群がっているところを見ました。泣き声は日本の雀より静かで、可愛い声でした。それに、オアシス近くになるとカッコ―が鳴いていました。渡り鳥と聞いているので、丁度5/下旬~6/上旬が新疆ウイグル自治区に居て、7~8月頃日本の尾瀬沼に渡ってくるのだナー―と思いました。虫は日本のコオロギの大型で、白っぽい虫が沢山いました。人が近づいても逃げません。これが雀やカッコーの餌になるのだと思いました。

遠くに天山山脈、アルタイ山脈、祁連山脈の雪の峰を置いて広がる砂漠の景観は素晴しいものですが、そこを延びる高速道路と長距離トラックから投げ捨てられるゴミが近い将来、環境問題に為るかも知れないと感じました。

オアシス(市街)も昔ながらのカレーズ(井戸)から、ボーリングで地下水の汲みあげ式に移っており、その水も流し放しで、徐々に環境が変化しているとの話がありました。(敦煌、月牙泉)月の砂漠で想像した砂漠とオアシス残して欲しい気持ちがしました。
  5/29 久藤と結城


   5/26 こんなところにも花が
 
   オアシスの青々としたブドウ畑
  6.3人々の生活  松見 豊和(東京都立大学OB・12期)
1.トルファンの観光農園

 ウルムチの東200Km程の位置にあるトルファン盆地の中心にあるトルファン市は、 中国では南京などと共に「4大ストーブ」の一つと言われ酷暑で有名な街である。

最高気温は40度Cになり、真冬は-30度Cを越えるとのこと。 農業用水はカレーズといわれる地下水路で供給されているが、水量には限りがあり、 過酷な気象条件もあって旧市街の人口は8万人位で増減しないと言われた。

 我々が訪ねた観光公社と契約している農園は、おじいさん(64歳)と若夫婦と孫の4人家族で、おじいさんはまだ午睡の時間だった。 葡萄棚の下の木陰に用意されたテーブルでは揚げパンと色々な干し果実とお茶のサービスの他、 ワインと果実酒(強い酒だった)も振舞ってくれた。奥さんがお茶とワインを恐縮するほど何回も注いでくれ、 秋の葡萄の実る頃は最高だろうなと言いながらも、のんびりとしたアフターヌーンティの感覚の時間を過ごした。 トルファン観光の人気No.1と言うのも納得だ。

 こんな過酷な気候条件の中なのに平均年齢は中国の平均をかなり上回るとの事。その要因は木陰での昼寝にあるようだ。 そういえば4時半頃ここに来るバスの中から通学中の生徒の列が眺められた。学校も午前と夕方の2部授業で、午後の登校風景でした。

2.星星峡から柳園に行く土漠で

  帽子とマスクで殆ど顔を覆った女性が50頭ばかりの羊を追って歩いていた。草原でもなく、処々に草がある程度の土漠で、 羊も女性もガリガリなのが印象的でした。

  見渡す限りには集落は無く、羊の動作スピードからしても1日で帰る家は無いと思われるので、 羊を追いながら野宿してパオに戻るのだろうが、過酷な自然条件と共に孤独な生活が予想され、我々の生活との差の大きさが胸にしみました。 それでも細かく観察すると、ハミのオアシスを過ぎた土漠と比べると星星峡の前後では少し草があり、路傍には花が咲き、 それに群がる蜂がいて(刺された人がいましたが)、道端にはこおろぎのような昆虫がいて,それを食べる小鳥がいるというように 、過酷な自然でも動植物は生きていました。そういえばオアシスでは郭公の泣き声が何度か聞こえました。

3.敦煌の朝市

  敦煌でのホテル・西域賓館の隣は「鳴山果蔬批友市場」で、50m四方位の広いスペースに半分位は大きな屋根があり、 大雑把に果物と野菜の区分がある中、我々が出かけた6時頃は既にごった返していて、庶民の胃袋がここにあるなという感じでした。

農家の人達が自転車やオートバイに引かれたリヤカー、三輪駆動車、小型トラックで我先にと持ち込み、 仲買人は不在で各自それぞれに交渉をしていました。はかりは戦前の日本を思わせるような、 棒と紐と分銅のはかりで電子はかりを見慣れている私には懐かしい思いでした。

  大蒜、ジャガイモ、玉葱は決まった色の網の袋に入れられていて、 バナナや桃は箱詰で、野菜や西瓜、瓜などは裸のまま荷台や地面に並べられていました。両端には店舗があり、輸入物や種子を売っている店でした。

  こんな砂漠の中なのに、オアシスの貴重な畑では、こんなにも多くの種類と量が栽培されているのだとびっくりし、 毎日美味しい料理を食べさせてもらった裏にはこんな市場があったのだと再認識しました。

家屋は壁面は石づくりの堅牢な平屋で、独立した部屋が並び、それぞれドアが付いていた。切妻のような屋根では無く、 平だったが、内部の天井はしっかり貼ってあった。雨が少なく寒暖の差がある気候に適応させたものだろう。かまどは別棟でうす暗かった。 鶏が庭を徘徊していたので家畜も飼っていると思われた。
 トルファン観光の人気No.1というのも納得だ。

 シルクロードの人々と生活



ウイグル族の人も混じっていると思ったら・・・
 6.4 食べ物・酒・その他   松本美和

■ 朝食
  主食は薄い粥(米のないカボチャ粥のこともあり)と小振りな肉まん、花巻(具のないふっくらしたパン)、おかずは野菜の炒め物や和え物、ゆで卵、発酵してチーズのような風味の赤い豆腐、漬け物が基本形。ハムやケーキ、クッキーまである充実したバイキング形式のこともあれば、主食と卵、お茶以外は小皿2品ということもあった(現地の朝食はこちらが主流)。少なくなると補充してくれるが、昼食分まで失敬するのはルール違反らしい。隊員の朝の胃袋にも個人差があり、朝食前にカップ麺をペロリと平らげる猛者もいた。

■ 昼食
歩行中の昼食は、ちゃっかり朝食から調達組もいたが、日本から持参したα米やガイドの張さんから受け取るナンで済ます隊員もいた。ガイドの張さんの差し入れのトマトは完熟、キュウリも瑞々しく、ザックの中で温まっていたが、乾いた身体にしみ通る美味だった。今回のルートは昼食が食べられる店が少なく、歩行中にその恩恵にあずかったメンバーはごく少数。また、調理に1時間近くかかるため、順調に歩行していない場合は、食後スピードアップが必要となる。食事中砂埃に見舞われたグループもあった。

 歩行日以外の昼食は、①柳園のホテルの隣の麺屋、②シルクロードのトラック野郎御用達(ドライブイン?)の清真(回教)料理、③敦煌の町中の清真料理などで、太麺に肉入りの具をかけ、かき混ぜる豪快な麺ものをよく食べた。1人前で2人分以上のボリュームがあり、やはりできあがるまでに時間がかかる。②では、テーブルに生のにんにくが乗っていて、食前にかじるとお腹を壊さないという。今回は虫(蜂)さされに効果絶大だった。柳園の店では、食事中に給水車が来て店の人が水を汲んでいた。町といえども砂漠の中。こうした水事情に接すると、やはり火を通したモノを注文するに限ると感じる。

■ 夕食
  何はなくとも冷えたビール!注文してから店員が買いに行くこともあり、カラカラののどで待ちわびたこともあった。しかし、ビールの注文はお手のもの。行く先々の現地ビールで乾杯した。ちなみにアルコール類の持ち込みはどの店もフリーパスだった。

 料理は、ホテルの食堂、町の食堂、敦煌の屋外食堂などで、肉と野菜からバランスよく8~10品を注文。7~8割は唐辛子かニンニクが利いたスパイシーな料理で、さぞかしビールや酒が進んだのではないか。花椒の香り高い麻婆豆腐や、懐かしい味わいの卵と&トマト炒め、シャキシャキとしてさわやかなセロリ炒め、ジャガイモと羊の胃の炒め物など、日本とは味も香りも違うけれど、どれもおいしい。素材の肉や野菜そのものにエネルギーが満ちているような存在感がある。米飯は、日本と炊き方が違うため、そのものを味わうと物足りないが、スパイシーな料理やその汁をかけて食べるのにぴったりだった。今回は問題なかったが、辛いものが食べられないメンバーがいる場合は、注文時に通訳の助けを借りるとよいかもしれない。栄養面から見ると、ビールで冷えた体を温める羊肉や唐辛子、ビタミンCの豊富なピーマンやトマト、強壮、鎮痛、消化促進効果の高いにんにくが豊富な料理を、多種多様な露地物の食材と合わせて味わえ、身体が資本の歩き旅を支えてくれたと思う。

■ その他雑感
 旅の経験から、メンバーは様々な食を持参していた。鮭のふりかけを朝の粥に入れて鮭雑炊風にしたり、 ドライカレーペーストをナンや花巻に塗ったり、マヨネーズをキュウリやトマトにつけたり…。 味のバラエティが広がるし、体調の悪いときなども鮭雑炊は慣れた味で食べやすく、メンタル面でもサポートしてくれそうだ。 個人的には、バザールでちょくちょくリンゴや洋梨を買って食べていたので、小さなサランラップを持っていけばよかったと思った。 また、中国には多種多様なお茶があるが、ビールよりずっと高いこともあり、注文時には念のために確認した方がよいと感じた。

右は5/28の食事、他の日の食事は以下をご覧ください。

 5/29 食事 

 5/30 食事

 6/01 食事

 6/02 食事

 

5/28 中国式お茶 給水車から水を汲む 洗面器チャーハン
昼干し牛肉のあつあつ麺
いい香りの麻婆豆腐 牛すね肉とピーマン炒め
ビール
人気のトマト・卵炒め のび~る春雨と豚肉炒め煮
昼 柳園一のそば屋
ほうれん草のにんにく炒め
マイルド
卵としいたけ、香草のスープ
きくらげとセロリの炒め カリカリ骨付き肉と唐辛子の炒め・劇辛
 
  7.人々との交流  高平 仁雄、松本 美和、 久藤 宣機 、松本 明子
高平 仁雄

 今回の312号線の歩きではその大半が人々とのふれあいというより、車、それも大きい長距離トラックとの行き違いであった。
長いボデーに山のごとくに満載したトラックがゆさゆさと疾駆する様は実にパワフル。 国造りを急ぐ様子を実感した。 石炭、鉄鉱石のペレット、レンガ、花崗岩、セメントなどの鉱物資源 それに 豚、牛、羊、やぎ、ロバも。 勿論、キャベツや葱、にんにくなどの農産物を満載した車もたくさん走っていた。   そのような中で恐らく交通量の2から3割ぐらいはオートバイや乗用車 それに小型の4輪トラック、耕運機の新車の輸送車であった。
途中、故障したりひっくり返ったりの車も散見したが道路工事が延々と続く中、時速20KMくらいしか 走れない悪路を上半身裸になって運転するドライバーもいたりしてそのタフネス振りに感心した。
 ”日中友好”ではないが、安全を考えながらも運転席を見上げて手を振って笑顔で挨拶、この場合 タイミングを間違えると停車してくれて゛乗れ!乗れ”と勧められる羽目になるので気をつけた。
手を振って挨拶した半分以上のドライバーは車の中で大きくてを振ってくれたり、大きな声で励まして くれている様子だ? 特に若い運転手は嬉しそうに対応してくれる。 長く尾を引くようにクラクションを 鳴らして走り去っていく車も多い。  只々歩くだけの゛単純労働者゛には充分の励ましであった。
 挨拶を交わした?トラックがわざわざその巨体を数十メートル先に停めて、クーラーで冷やしてあった ペットボトルを差し出してくれたのには感激した。 若いドライバーであったが貰った500MLのボトル はラベルに将に゛純情青年”のブランドがあった。

つぎは、 超大型の長距離トラックに”お世話”になったお話。
5月25日。 リーダーの中村さんと歩いた。 何処までも一直線、向かい風の上り勾配を行く。  例によって何にもなーい! スタ、スタ!。カメラを向ける先も無い。 草1本、虫1匹いないんだからと  話しながら。  目は自然に足下を追う。 先に記したような落し物というかトラックからの”脱走者”が  路肩にパラパラ。 中には゛とん走゛したのかミイラがかった豚や羊もあった。  アッツ にんにくが落ちてる。まだ新しい。 ひとかけらはずして口にする 気のせいかしゃんとして来た。
 そのうち変だぞ砂漠にいないはずの蜂が2,3匹顔の周りを回り始める。刺されるのが怖いのでタオルで  払いながら歩く4-5百メーター歩くうちにかなりの数に増えてきた。払いのけるのが間に合わない。
 そのとき急に強い風に帽子をはずされる。将にその瞬間頭の頂きに激痛が走る。やられた!3,4箇所 いきなり刺されたようだ。ジンジンしてきた。頭に手をやると針が刺さっているのが分かる。
 4,5年前に一度足長蜂に刺されたことがあり今回2度目になるのでかなり慌てた。 職場の同僚が同じような事態になりあわやの所まで行ったことを思い出しパニックになる。
 ゛事もあろうにゴビ砂漠の真ん中で蜂に刺されて御陀仏゛では心配を押し切って出て きた家内に申し開きが出来ないぞ。ザックに薬は持ってるが蜂刺されは考えてもいなかった。まいったなー。 薬も無いがそれよりも立ち止まって手当てするゆとりも無い。蜂はかなりの集団となって波状攻撃をしてくる。 前に前に蜂より前に! 敵は羽根があるのだ振り切れるわけが無い。それでも戦いをしながら今日のゴール 3473KMのキロポストを目指して逃げるばかり。この間約2から2.5KMくらいあったか、そのさまは よく漫画にあるように頭の上を蜂が団子状になり何処までも追いかけてくるあの図である。
追われ追われて時速7,8KMくらいで歩かされたかもしれない。

 
 逃げ込むところを必死で探すがあるはずも無し、必死で逃げるうちに前方に3台の大 型トラックが停車しそのうちの1台の運転台が開いているのが見える。 何も考えることが出来ないまま 一目散で車に近ずき仰ぎ見るような高さにある運転台によじ登る。   蜂の集団を連れていきなり押し込んできた見知らぬ男にあんぐり状態でいたが、そのうち運転台で暴れまわる蜂に2人のドライバーも応戦してくれて3分くらいで何とか追い払うことに成功。 事の顛末を説明しお詫びを言いたいが全く言葉が言えない。漢字を書いてみるもダメ。
 先を歩く中村さんを何処で追い越したのか覚えが無いガ5,6分して追いついてきた。
ところが彼も頭上に蜂の集団を釣れて蜂踊りをしながらトラックにきたが4人乗る場 所が無い。運転手は咄嗟に着ていたジャンパーを脱いで彼の頭に被せろと中村さんめがけて投げ出した。
頭から被ることで大半の蜂から逃れることが出来たがしぶとい奴らがぶんぶん飛びまわって攻撃をやめない ので服を返してとにかく頼みの伴走車が来るゴールへ急いだ。

 彼らには全く不充分な挨拶を手まねやジェスチャーでしたが何処まで出来たかはなはだ不安のまま分かれる。
持参の煙草1箱は気持ちよく受け取ってくれたが、笑顔で送り出してくれたのでよしとしよう。
迎えのバスが着たときは将に゛地獄で仏”ぐらいの気持ちであった。
やっと吾に返ったところで拾ったにんにくをかじり刺された個所に刷り込んだら5分くらいで貼れも赤みも 引いたようだった。  中村さんも手や耳をやられたがこれもにんにく効果抜群でした。

 この一件はガイドの張さんの話では オアシスに咲く数少ない花を求めて養蜂業者が 巣箱を配置してまわっているからだとの事で輸送途中でこぼれた、脱走したミツバチの仕業とわかり一安心。
 確かに次の日には何台ものトラックが蜜箱を満載して通過していくのに出会いました。 お粗末。人との触れ合いならぬ゛蜂とのふれあい”のお話でした

ミツバチからの襲撃を逃れ、やっとピックアップ
  地点へ、右/中村 ・左/高平

現場監督さん



奥さん自慢のファーマー(中央)  

松本美和

 安西から先は予想外の道路工事に遭遇したが、完成された道にはない出会いがあった。段取りや進捗などは効率的に見えないが、親方を中心に秩序を保って工事に当たっており、趣意書にも親方がサインした。
  肉体労働をしているためか、手渡したキャンディも歓迎された。遠く見えなくなるまで名残惜しそうに呼びかけてくれた若者や、我々が砂埃まみれの顔や手を洗えるように自ら停車してくれた散水車の青年など、素朴で清々しい出会いが印象に残った。

 最終日のオアシスでは、35歳の農夫に署名を依頼したら家庭に招かれた。この日は歩行時間に余裕があったので訪れたところ、彼の自慢の奥さんにも歓迎された。筆談で「自分には松田という日本から来た大学の研究者の友達がいる。
 ご馳走を作るからぜひ食べていって」と勧められたが、チェキの写真を差し上げ、心づかいへの感謝を伝えながら辞した。
  そのほか、木陰で談笑していた若者のグループとも筆談で談笑し、冷たいミネラルウォーターのボトルをいただいた。それぞれ、ゆったりした時間の中で一期一会を大切にする生き方をかいま見た気がした。


久藤 宣機

 5月31日歩行最終日、石塚さんと歩きました。玉門鎮郊外の疎水沿いを歩いていたら、 向こう側を山羊を20頭位連れたおじさん(56歳)に出会いました。 日本人好みのする人で石塚さんが写真を撮ったら、その人が「自分の家に来い」と言って、 断っても「すぐそこだから」と聞き入れません。
 仕方なく山羊に付いて民家に行くと、 お茶を飲めと汚れた布巾で手を拭き、それでコップを拭いてお茶を出してくれました。

 石塚さんと顔を見合わせちゅうちょしていたら、「さあ、どうぞ」と蒸しパンを皿に4ケ出して、すすめてくれました。 そこに奥さん(52歳)が帰ってきて、何か出そうとしていたので、申し訳ないと思い、逆にキャラメルを二人に勧めました。

  石塚さんが写真を送るからと住所を聞いて別れましたが、たまらなく暖かさを感じました。書の横を見ると、陳玉珠という署名がありました。  左の写真;彼の自慢の書の前で

 中国の友人に聞いたところ、この書は 「対聯」(たいれん) といい、その多くが書いた人の人生観を表しているとのこと。
 中央の2行 「豈為功名・只尊道義」は、 「官職、身分は重要ではない、何よりも道徳、仁義を敬うことである」  というような意味だろうとのことでした。
     以上事務局 森
 
    右/陳さん、左/久藤
 (写真をクリックすると拡大できます)

松本 明子

<熟年ライダーとの遭遇>
 5月29日、石塚リーダーと私の第2班、3277キロポストを過ぎたあたりでバイクのツーリング4人組と遭遇した。 一人が英語を話したので、石塚さんと情報交換におよび、北京在住の中国人で、今回は北京からウルムチへ行く途中だということがわかった。

よく見れば渋くて実にかっこいい。その方は61歳だという。こちらの年齢を聞いて向こうもびっくり。お互いに健闘を讃え合い、旅の無事を祈ってお別れした。北京等の都会には、このような人生の楽しみ方をしている人たちがいることに感慨を覚えた。
ここではビール1本30円、食事もお腹いっぱい食べて飲んで一人200円弱。しかしオアシスに暮らす人々は、みな慎ましく、 穏やかで、人なつこく、幸せそうに見えた。あの笑顔がいつまでも続くことを祈るばかりだ。



<北京空港にて>
 最初の宿泊地北京で眼鏡を置き忘れ、帰りの北京空港で取り戻した事件の顛末。
帰りの北京空港では旅行会社の出迎えはないので自力で解決しなければならない。
電話の前でうろうろしていると、「何かお手伝いできることはありませんか?」と日本語が。そこには中国人の若い女性がにこにこ立っていて、 「では私の携帯電話でかけてみましょう」とホテルへ電話をし、 空港へ届けてくれるよう交渉してくれた。チェックインも済んだ広い空港内を先に立って歩き、 いくつもの関門でてきぱきと話をつけてくれて、ついに我が眼鏡と再会したのだった。

  聞けば大阪在住、 ベビーと北京へ里帰りし、ご両親と大阪へ戻る途中とのこと。関空へ向かう飛行機にはたまたま私たちのメンバー2名が同乗。 しかも座席が隣り合わせという偶然が重なり、今度は関空での入国手続きや荷物を持ってあげる等、 手助けをすることができたと聞き、思いがけない日中友好の楽しい後日談までできた、すてきな結末となった。

 トラブルが発生した時、言葉の壁はなんとしても解決を遅らせる。 中国は筆談でなんとかなるとたかをくくりがちだが、それは対面の場合であって、 電話を手段にする場合は、発音できなければホテルの名前すら伝達できない。
今回は日本語ができる中国の方が声をかけてくれたという幸運に恵まれたが、そんな幸運はめったにあるはずもなく、 この経験がこれからの旅の教訓になったらいいと思った。私のうかつさからみなさんにいろいろ心配をかけてしまった。

中村隊長にはすべての段取りや、空港内を一緒に走り回っていただき、この眼鏡をかけるたびにあの旅を思い出すことになりそうである。 これからは困っている人を見かけたら、勇気を出して、”May I help you?” と言って力になってあげようと思う。


北京の熟年ライダーと、中央は石塚


 えー!?マジ~!中国語で話してる


 左から中村隊長、お世話になった
   呉さん、私です。北京空港にて
  8.健康・安全面の記録  中村 文広(5期)

 下痢を防ぐため生野菜と水には細心の注意を払った。歩行初日に少し腹を壊したものが出たが大事には至らず。到着翌朝のトマトが原因ではないかとの推測で、以後注意した。それ以降、腹を壊したとの報告はなし。冷たいビールが手に入らなかったのも結果として良かった。疲れた時の飲みすぎは体調を壊す元になるが、その制限は難しかった。各自の自主性に委ねた。

 歩けない人は出なかったが、まめは普段歩き慣れて自信を持っている人でも出来て苦労をしたようだ。道の状況か靴下の具合か、いずれにせよ行動に大きな影響が出るのでまめを作らないこと、出来たまめを的確に治療することについて、いま少し研究と指導が必要であると痛感した。初日はペースが速くなりがちだが、速度とまめの発生にも、ある相関があるようにも思えた。

今回の特殊要因として悪路の長時間の移動をよぎなくされた結果、車酔いと体調不良者一名が出たが、一晩安静にして回復し、事なきを得た。その他、砂漠の強い直射日光で目以上に下唇をやられる人が多かった。リップクリーム、メンタムなど用意したい。

珍しいこととしては、砂漠で蜂の群れに襲われた班があった。ミツバチで良かったが、刺された本人はかなりの痛さでパニックに陥ったようだ。にんにくを付けたら腫れが引いたとか。毎日少数の蜂は顔の周りを飛び回ったが、この程度なら構わなければいなくなる。

安全面については公安の車に呼び止められたこともなく、住民、工事関係者とも終始好意的で全く不安を感じなかった。少ない出会いの中ではあったが、交流も行われた。

  9.写真展示 
                           <写真をクリックすると拡大できます>      右の氏名は撮影者
 砂漠で水! 松本美和   中国のど根性・中村   車窓の祁連山脈・中村   柳園の男の子・松見   仲間たち・松見  土漠の路傍で・松見
経済発展を支える裏方篠    一人っ子政策・篠崎  自然が織り成す美・篠崎   緑の向こうは砂漠・明子   食われる前に・・・美和   特等席・松本美和
 星星峡の空撮・跡部  現代/過去/みらい・跡部  鳴砂山夕暮れ・跡部  オイルロード・高平  鳴砂山散策・高平  ラクダがびっくり・高平
  10.費  用  結城 皖曠 (大阪府立大WV5期:昭和39年卒)
   10.1 旅行費用   1人あたり・旅行社へ支払い
項   目 内   訳 備考
金額 円
①国際航空運賃 成田-北京 エコノミークラス
77000
②成田空港使用料    
2040
③現地空港税 北京出国税(90元) 90元
1400
④航空保険    
1000
⑤現地国内航空運賃 北京-ウルムチ 空港税込み
33500
  敦煌-北京 空港税込み
30780
⑥総合服務費 新彊内日本語ガイド・手配料金・飲料水・保険  
17000
  北京乗り換え案内、敦煌現地観光案内  
2500
⑦現地ホテル料金 ウルムチ・1泊・朝食付き・1室2名利用 1泊
2810
  トルファン・1泊・朝食付き・1室2名利用 1泊
1880
  ハミ・2泊・朝食付き・1室2名利用 2泊
4500
  星星峡・2泊・朝食付き・1室2名利用 2泊
3125
  柳園・2泊・朝食付き・1室2名利用 2泊
3750
  安西・1泊・朝食付き・1室2名利用 1泊
2000
  玉門鎮・2泊・朝食付き・1室2名利用 2泊
4000
  敦煌・2泊・朝食付き・1室2名利用 2泊
4750
⑧観光入場料 トルファンベゼクリク千仏洞、高昌故城、交河故城、カレーズ、莫高窟、鳴砂山、月牙泉、西千仏洞  
6375
⑨車代 ウルムチ-ハミ-敦煌-ウルムチ・運転手宿泊代・燃料  
49250
合計 旅行社への支払い・1人当たり  
250660
   10.2 共通費支払 詳細
 
円支払い分
収入 全行程参加者・拠出金 17,000x6
102000
後半行程参加者・拠出金 12,000x4
48000

準備会残金の繰り入れ

4000
支出 元への両替(5月21日、6月1日)
153000
中国への土産代・たばこ2カートン
3400
メンバーへの両替(円→元)による円収入
-5000
収支 残金
2600
 
元支払い分
収入
中国その2からの差し入れ収入
442
両替による入金
10557
支出 メンバーへの両替による支出 346
食事、酒費用

3087

観光費用共通費支弁分
3260
各自の昼食費・小遣い(200元+追加返金50元)
2500
携帯電話レンタル費・開通手数料・プリペイドカード100元 3台分 1350
収支
残金  中国その4への差し入れ
456
  11.中国西部4への申し送り  中村 文広(5期)

はじめに

中国3歩行は6月3日、14日間の活動を終え無事帰国しました。 今回の歩行の前半4日間は文字通り絶好調で予定のペースを上回り、 この調子なら嘉峪関はおろか酒泉まで行けるかと一時は色めきたちました。 しかし、「好事魔多し」の喩え通り、後半安西の先で予想もしなかった全面的な道路工事に行く手を阻まれてしまいました。 その結果、メンバー全員の心を合わせた奮闘にもかかわらず、 最近の歩行では起こらなかった目的地への未達という結果に終わりました。 従って、いろいろ反省すべき点、次回に伝えておくべきことも多数ありますのでここに報告致しします。

1.旅行社の選定

  • 今回も前回に引続きウルムチを拠点とする「新疆大自然国際旅行社」を使いました。 しかし、今回の最大の問題点は彼らが甘粛省の情報を殆ど掴んでおらず、また問題発生時に現地での情報収集の手段、 信頼すべき問い合わせ先も持たないことにあったことに尽きると思います。
    ガイド、運転手とも甘粛省に入るのは数年ぶり?のようで、何回も道を間違え引返しました。 勿論、ガイドの中日の語学力とそれももとにした交渉力の点では大いに助けられましたが、事、道を知らない点では失格でした。
  • 核心部分なので具体的に事実関係を述べます。4の携帯電話の項で経緯を詳しく説明しますが、 後半初日最終組は全面的な道路工事に行く手を阻まれ、その日の歩行を完全に断念してしまいました。 そこは安西から19Km,その日の宿のある玉門鎮はまだ115Kmも先でした。その日最初の区間を歩いていた私は、 思いがけずナビ車で戻ってきた最終組の者と最後の2Kmを歩きながら、最終組の報告とガイドの集めた情報を聞きました。 ガイドの情報というのは「玉門鎮などの知り合いや3、4台の対向車の運転手から得たもの」とのことでした。 それによると「工事は酒泉までずっと200Kmくらい連続して行われている。 工事中の道路には監視員が居て立ち入れない」とのことで、とても信じられない話でした。 もしこれが事実ならこれ以上進むことは困難となります。ナビ車に乗ってからガイドに確かめました。 彼は「これが得られる情報のすべて。これ以上は聞くところがない」と言いました。 そこで宿を安西に変更することにして、カイドにはピックアップに加わらず、安西で下ろし宿探しをしてもらいました。 5時40分、ガイドの探した安西の宿に入りました。メンバーには後半2日目以降の計画をどう変更するか説明するため、 6時半に集まってもらいました。最終的に私が下した結論は、「後半2日目は班の数を5から1つ減らし、 予定通り玉門鎮を目指す」ことでした。ただし、最終目的地は嘉峪関から赤金鎮に変更しました。 各班には経験者をチームリーダーに置き、彼らの判断で歩けるところを捜して歩いてもらうことにしました。 このように決めたのはその日半日、そんな工事区間を歩いてきた結城さんの体験を聞いたからです。 ガイドの情報は後半2日目ばかりでなく3日目の道路状況も含め、全く正確さに欠けていました。 もし、カイドの情報を全面的に信じていたら、嘉峪関を見ることもなく、安西で今回の歩行を打切っていたことでしょう。 工事中の道路は一部を除き問題なく歩かせてもらいました。 また、車の走る仮設道路のがたがた道もガイドの得た情報より短かったのは幸運の一語に尽きますが・・・・。

  • もうひとつの例に6月1日、敦煌への移動途中、当初計画にあった楡林窟に向かった時のことを書きます。 そこは安西から南東へ約65Km入ったところにあり、 西夏時代の石窟で知られるところです。結果は、何度か人に道を尋ねながら、 30Kmほど行ったところで計画を断念し、引返しました。道が狭い砂利道になりゆっくりしか走れず、 このままでは開園時間内に着きそうもなく、宿到着も大幅に遅れると思えたからです。これが今回唯一の観光キャンセルとなりました。ついでに立ち寄る観光地については事前調査がどうしても不十分です。ガイドに頼りがちです。しかし、一度も行ったことのないガイドでは所要時間の予測さえできませんでした。

  • ガイドの張さんの名誉のために書き加えると、彼は愛すべき人柄で、2回も昼飯を抜いて我々のサポートに当たるほど、 職務に熱心で信頼の置ける人でした。上に挙げた情報不足、情報収集能力の不足の原因はカイドの個人的な資質、 能力の欠如というより、もっと基本的なところに問題があるように思います。もしかすると、満足な地図も発行しないのと同じ理由で、中国では交通関係の情報は国家機密で一切公表しないのかもしれません。どなたか知りませんか。 
  • ・ いずれにせよ、中国では持っている情報量とその質の点で省が違えば国が違う以上だと思い知らされました。既に次回は甘粛省の旅行社を使う予定と思いますが、情報収集能力もひとつの重要な業者選定の条件に加えていただきたいと思います。

2. 歩く道

  • 今回、低窩鋪(Dīwōpu)を終着地に選んだのは、その先の集落は金赤鎮以外適当な目的地がなかったためと、 この辺から嘉峪関へ至る道が312号線を真直ぐ進む国道と玉門市を経由する地方道に別れるためもありました。 どちらにするかは312号線の完成時期の調査が必要です。 玉門市経由の道はそれまでの土漠を歩いてきたものには正にパラダイスを感じさせるところです。 ここを歩けなかったことを大いに悔んだほどです。この道の問題点は距離が少し長いこと、 道幅が狭く歩道が全くなく、そこを90Km以上のスピードで車が走ることです。道の路肩部分は歩けないところが多いように見えました。

  • 予定では312号線は今年の国慶節までに全通の予定の様ですが、予定はあくまで予定とのことで事前の調査が必要です。工事中にここを通ることになれば我々と同じような経験をすることになるかもしれません。仮設道路は埃っぽいでこぼこの道で、時速20Km/Hで走るのがせいぜいです。埃で前が見えないためか正面衝突したトラックや振動の連続で車軸を折った車も見ました。

  • 今建設中の312号線については、その基礎工事はお粗末ですが一応片側2車線、分離帯のある日本並の高速道路です。トルファンあたりで見たものと同じですが、交通量はずっと多いと思います。多分車は120Kmくらいでぶっ飛ばすでしょう。交通規則の面から人の立ち入り歩行が許されるか事前の調査をお願いします。

  • 高速道路は多くの区間で312号線をつぶして建設されています。側道の建設予定があるようには見えませんが、高速を通らない自転車や地方の人はどうするのか不明です。合わせて確認してください。

  • 現在工事は酒泉まで行われていると聞きました。工事の進行、完成状況を歩行地域全般にわたって調べておくことをお勧めします。上空から見たところ河西回廊も基本的には砂漠地帯です。いったん工事があれば、今回と同じことになるでしょう。

  • 工事で道が新しくなると距離に違いがでるはずですが、どうもその変更はしないようです。 都市間の正確な距離の算出については荒井さんが苦労したところでした。結果としては星々峡、柳園間以外はほぼ正確でした。 この区間、キロポストや地図上は99Kmですが、実際は87Kmほどでした。キロボストが省堺付近で12Kmほど飛んでいました。 従って、今回の歩行距離はキロポスト上の計算値より12Km短くなります。

  • 道脇に建てられた青い大きな看板に表示されている距離はほぼ正確でした。常にバスの距離計との併用を勧めます。

3.チーム編成、歩き方

  • 今回、中央アジア以降初めて女性が加わりました。 平坦なところではトイレの適地を探すこと、 人目を避けて少し離れた場所まで行くために男性ばかりと違って多少時間と警戒が必要でした。

  • 今回参加した女性は健脚で男性チームが一日25Kmに対し女性の入ったチームは22Kmを歩きました。一日目の記録は5時間46分と5時間53分で男性の25Kmの初日の記録とほぼ同じでした。

  • 今回は一回一組以外ほとんど待つことなくピックアップできました。更に砂漠での待ち時間を減らすためあらかじめ目標時間を作って歩いてもらいました。ちなみに歩行前半の初日を除く3日間の実績は25Km,30分の食事時間換算で平均6時間21分、ばらつきは+5分、-11分でした。

  • 前半初日25Kmの所要時間は女性の22Kmと同じ6時間弱で、2日目以降より2~30分早目でした。初日はペースを上げすぎるきらいがあり、これが豆を作る原因ともなるので注意が必要です。

  • 25Kmの距離は最適でこれ以上は長すぎ以下では不足のようです。

  • 歩く楽しみは出会った人との交流にあります。気兼ねなく、他チームに迷惑を掛けないで交流するため、最終歩行日にはそれぞれに1時間あまりの余裕時間を加えました。このため前夜、最終到着点を赤金鎮から少し手前の低窩鋪に再変更しました。結果的には、各チームともこの時間を有効に利用し、楽しい思い出となる出会い、家庭訪問などが出来たようでこの判断は良かったと思っています。砂漠の無人地帯では歩行時間にそれほどばらつきはありませんが、集落のあるところの歩き方としていいかもしれません。特に昼食をチャイハナで摂ると野食の倍の最低1時間はかかるので目標時間の設定は有効であると思います。

  • 今回は後半10人になったところで2人づつ、5班に分かれて歩きました。5班編成でも多分、道が良ければ全く問題はなかったと思います。しかし、想定外の事態の発生した後半初日には90Kmにも及ぶ連絡等が困難でうまく機能しませんでした。このような不測の事態の発生が予測される場合のリスクを避けるため、メンバーの経験量にもよりますが、3組くらいが適当であると思います。

  • 今回のように予期しない事態が発生することもありますので最終組をリーダーかそれに代わる人が歩き、各チームの歩行環境を把握しておくことが必要であると感じました。その日親心で私が最初を歩き経験の少ない部外者を最終組にしたのは私の采配ミスであり、その翌日から4チームに編成すると共に私が最終区を歩くことにしました。

4.携帯電話

  • 前回の経験と予想外の値段から携帯電話機は3台に減らしました。結果は一時的に紛失したり、過充電で使えなくなったりで不足でした。問題が発生した時、携帯のありがたさが身にしみました。プリペイドカードも前回の経験で少なめにしましたが、通信量の多いリーダーの電話が最終日最終到達点までは持ちませんでした。多少割高になっても安全のための投資、保険と考えて用意すべきと感じました。

  • 二種類の電話機が渡されましたが、私が使ったものはメニュー方式の操作が非常に複雑なもので、最後までよく操作方法が分かりませんでした。日本で標準になっている形式のものを指定した方が良いと思います。

  • 非常時の連絡は意思疎通が難しいので復唱を励行したいと思います。今回後半初日、5組目の最終組が予想外の道路工事に出会ったと同伴車から電話連絡で報告を受けました。そこで当初予定を変更し、最終組には目的地まで行きそこから引返すよう1回目の連絡で指示し、最終組も了解しました。2回目の連絡で「引返してもいいですか」との問い合わせに「OK」を出しましたら、本当にバスに乗って戻ってきてしまって驚きました。距離表示はおろか満足な道も目印もないところで経験のない人に目的地を決めて歩かせること自体が無理であり、まして紛失により携帯による連絡も出来ない状態で歩かせるのははなはだ危険だったので、結果としては最終組が引返したことと、更に予定した終着点から100Kmも先の玉門鎮に向かわず宿を安西に変更したことは皮肉にも正解であり、私の再度の判断ミスを未然に防いでくれました。

  • 結果論ですが、後半初日の宿はこのような状況でなくても100Km先の玉門鎮でなく、最初から近場の安西にしておくべきでした。自動車事故など、何が起こるか分からないので、連泊や宿の質にこだわらず、遠距離輸送はできるだけ避けるべきでしょう。 

5.ナビ担当

  • 何事もない時はナビの担当に当たった人はそれこそ休養日ですが、やはり、安全な歩行を図るためには、毎日経験あるナビ担当が置けるようにチーム編成すべきです。
  • 今回の私の当初予定も前半初日は中村が、また後半初日は経験豊かな跡部さんがナビを担当し、コースの状況とメンバーの歩きの状態を確認する積りでした。しかし、荒井さんが不参加になり、ナビ担当が置けなくなりました。
    やはり、私がリーダーを務めたトルクメニスタン東部隊でも、1班がコースを大きく外れて半日行方が分からなくなった事件と、伴走車が故障するという2つの大きなアクシデに見舞われました。偶然両日とも私がナビ車の担当でしたので、事なきを得ました。その際、適切な判断、行動が出来ていなければ、今回と同じようにその日の行動の一部を打ち切り、全体計画も変更しなければならなかったと思います。
  • ナビ車にはガイドは乗っていますが、彼自身に状況判断をさせることは出来ません。今回のガイドの張さんもかなりうまい日本語を話しましたが、緊急事態が発生した際の電話連絡では、表現力が十分でなく、正確な状況が伝わりませんでした。

6.装備

  • 今回は幸いマスク/ゴーグル等の砂嵐対策品、セーター/カイロ等の防寒対策品を使わなくて済んだのは天候に恵まれたからです。 ただその片鱗は経験しました。先ほど述べたように河西回廊も砂漠地帯なのでやはり砂嵐、防寒対策は必要でしょう。

  • 魔法瓶でお湯が提供された星々峡と敦煌以外のホテルでは湯沸かし器がありました。持てればよいが、湯沸かし器は特に持参しなくても良いと思います。

  • 今回もチャキ、インスタントカメラは交流のきっかけとして有効でした。次回も持っていくことを勧めします。

  • 中国語会話集はとっさの時、適当な文例を探すのに時間がかかり、そもそも相手の言うことがわからないので殆ど使えませんでした。「ありがとう」、「いりません」、「分かりません」くらいの基本の会話ができるようにしておけばいいと思います。それより100円ショップより少し詳しい辞典を持っていって、必要なもの、ことを単語で伝えた方が有効のようです。日本の漢字の塩、酢など中国では通用しません。また距離は「何里」でなく「幾里」と聞くほうがよく分るようです。これは英語と同じ発想です。

7.夕食メニュー担当、食べ物、値段

  • 和田メモに同感したので、今回は跡部さんを「晩ご飯部長」に任命し、夕食のメニューの選定をお願いしました。彼はメンバーの希望を聞きながら、ガイドの助言も受けて毎日変わったおいしい料理を選んでくれました。それで、毎回夕食は大いに盛り上がり、翌日の活力源ともなりました。

  • 現地では交互に漢料理と清真(ウイグル)料理を食べました。ホテルは一般に高くてまずく、街のレストランの方が安くうまいというのが実感です。値段は半分でも、味は3倍うまいところもあります。ちなみに次回も行くだろう玉門鎮では玉門賓館近くの東北料理の「金泰酒店」が安くておいしい店です。料理8品でビールもたくさん飲んで10人で124元でした。また清真料理では敦煌の「敦来順」が大変好評でした。こちらは300元ほど取られましたが観光地を考えると安かったと思います。

  • 以前から議論のあった昼食の朝食時での調達については、中国のバイキング形式の朝食を出すホテルでは見張り員を置いているところもあり、持ち出すところを見つかると捕まり、罰金を取られるとガイドの張さんから注意を受けました。

まとめ

長々と思いつくことを書いてしまいましたが、まだ書き落としたことがあるかもしれません。 報告書本文の各人の報告をぜひご参照下さい。我々のささやかな経験とそのレポートが次回以降の歩行に何らかの参考になり、 安全で楽しい歩行の一助になれば幸せです。


 工事中の高速道路を行く松見


  目下舗装作業中


  仮設312号線を行くトラック


 右ガイド張さん、左運転手楊さん

  12.感想 
篠﨑 次郎 (6期)

今回の歩行はハミ市手前38キロからのスタートだ。私は後半組の1人として初めての歩行参加、柳園近くからの参加となった。5月27日成田を立ち北京へ、

北京で1泊し28日敦煌へ飛んだ。天気は快晴 敦煌へ近づくと真下は広大な砂漠が続く。その中に緑の小さな塊がポツンと見える。オアシスだ。こんな小さなオアシスにも民家、畑が見える。上空から初めて見てこれがオアシスなんだと実感した。さあいよいよ砂漠の中の歩行が始まる。期待と不安がよぎる。

 敦煌に無事着陸、迎えの車で柳園に向かう。敦煌から柳園まで120キロ強、敦煌の町を出ると柳園まで砂漠の中の直線道路、道は決して良くは無いが全く変化の無い道、砂漠の向うに地平線がみえる。こんな景色に圧倒されているうちに柳園のホテルに着、先発隊が迎えてくれた。先発隊は今日は休日 全員元気だ。夜、後発隊は歓迎パーテーを楽しみ、明日からの歩行に備える。

 柳園は小さな町でメインは駅前通りの300メーターぐらい、小さな店が並ぶ、しかし日常品は手に入る感じだ。

5月29日快晴 8時30分 歩行スタート
 柳園から少し戻り鉄道と交叉するあたりからスタート。小さな砂山、岩山、の続く道を大きく右に左にカーブしながらの歩行が続く。こんな砂漠の道端にも小さな可愛い花が咲いていた。生命力の強さ驚いた。歩きながら3種類ほど見つけ写真に収めた。
12キロほど歩くと柳園―敦煌線とのとの交差点に来た。道路標識を写真に収めていると、1台の単車が近づいて来て話しかけてきた。
しかし全く理解できない。身振り手振りで彼は北京からウルムチ、カシュガルまで行くとのこと、サインをお願いしていたら更に3台の単車が寄ってきた。 あとで解ったことだが4人のグループで、すでに先きを歩行しているチームと合い、我々もその仲間であることがすぐに解かり話しかけてきたのだった。

この交叉点にはガソリンスタンド、少しの店があったがこの先は人っ子一人いない歩行が続く。また山道の登りだ。あの山を越えれば下りかと思うとそのまた先に山が出てくる。先が見えたら昼食にしようかと話していたが、とうとう諦めて山道の中で昼食。昼食後30分ほど歩くとやっと先が開けてきた。
今度は全くの砂漠、そこに真っ直ぐの道路が1本その先に地平線が見える。この全く単調な道をあるき14時目的地着、25キロの歩行が終わった。はじめての歩行の初日は無事終わりほっとして迎えのバスに乗りこみ次々とパーテーを拾っていった。今日の最終地点は工事中の悪路の中、電柱、その他にテープを巻きここと決めた。電柱NO300の地点だ。

道路工事の情報は入っていたが、安西の分岐地点から嘉峪関間で続くとの話、バスは時速20キロ 今日の泊りの玉門鎮までは時間がかかり過ぎ、明日の歩行が大問題。そこで今日の泊りを安西に出来ないか。ガイドは途中下車してホテル探しに走っている。幸い街中にホテルを確保予定を変更して安西泊となった。安西の町は再開発がかなり進んでおり、立派な道路、公園、ホテル、ビル街と整備が進んだ綺麗なところだ。ホテルも新しく気持ちよく過ごせた。

5月30日快晴 
第1組の私は昨日の最終地点電柱NO300から8時20分スタート、悪路と砂埃の中を歩くより工事中の高速道路の端を歩くことにした。入り口で責任者らしき人に歩行の趣意書を見せたところ工事中の中を歩いてよいとのこと、この日は全工程工事中の高速道路を歩いた。
この日の歩行は全く砂漠の中、どこを見ても砂漠の他には何も見えない。時々湖かと思うと蜃気楼だ。気温は33度、35度か。しかし非常に乾燥しておりそれほど暑さを感じない。多量に水分を取ってもトイレの回数は少ない。

3時間半ほど歩き道路肩で昼食、この頃より風が強くなってきた。午後の歩行では極小さな砂嵐らしきものを経験したが マスクもゴーグルも必要とせず幸いした。さらに進むと右遠方に一筋の緑が見えた。そしてその先に小さなオアシスが見えてきた。民家もある。道路舗装のためのプラントもあった。
このオアシスの旧道には露店が出ていてスイカを売っていた。長距離ドライバーの休憩、癒しの場所なのだろう。これを過ぎるとまた砂漠の中の工事中の高速道路が続く。やがて右手には小さな水路らしきものがあり緑が少し続く。こんな状況の歩行が2時間強 15時前に目的地にゴール。電柱NO765のテープをとりバスに乗り込む。
今日の高速道路の中の歩行は、前日歩いた人がそこは歩行者天国と言っていたがまさにその通り、車もほとんど通らず、砂埃も無く歩くことが出来た。残りの歩行組みを拾ってホテルへ、今日の泊まりは玉門鎮だ。

6月31日快晴
今日の歩行は街道筋、民家も多く人々に触れ合うチャンス多いところであり、歩行距離も短くし予定時間も余裕を取っての歩行計画となった。

8時30分スタート
 道路は旧道であるが両側はポプラ並木の気持ちの良いところだ。道路横には水路があり豊富な水が流れている。 さらにその脇に住民の行き交う道があり民家も多い。そんな民家に近い道を歩くことにした。すぐに小さな子供とおばあさんに会う。ニーハオ、で気持ちは通じる。チャキで写真を撮り差し上げたら喜んでくれた。
民家の門には正月に貼った魔よけがどこの家にも見られた。町の中心には3-4階建てのアパートもあり工場もある。よく見るとビール工場らしい。周りの畑にはホップ多い。さらに農道を歩くとカッコーが電線で鳴いている。とても清清しい気分だ。

そこに一人の農夫がスコップを持って歩いてきた。ニーハオ、と声をかけると近寄って来て話しかけてくる。言葉は解らないがどうやら何処から来たのかと聞いているようだ。メモに日本と書いたら解ってくれた。互い筆談が進むうちにサインを頼んだら家に来い、そこで書くとのこと。また日本人の友人がいて大学で研究をしているとか、持て成したいから家に来いとの話。とりあえず家に行ってサインだけでも貰おうと家に入った。門を入ると庭がありそこで奥さんが洗濯物を干していた。ニーハオ と家に入れとのこと。家に中は こざっぱりとかたずいており、1室は15畳くらい、ソファーが中央のテーブルを囲んで3方にあり1方には冷蔵庫、テレビ、ビデオが有った。もう1室は寝室 ベッドが2つ有った。そのテーブルで農夫はサインを自分で書かずに奥さんに書かせた。自慢の奥さんなのだろうか。お礼の品を差し上げ、記念写真を撮って別れた。実に感じの良い夫婦で気持ちが通じあった感じだ。

道草をしたので街路樹の大きく育ったメーン道路に戻って歩行を続けた。あと2キロ弱の地点の新しい住宅の前庭で、数人の女性が日よけテントの下でおしゃべりをしていた。ニーハオ、と言うと手をこまねいている。時間も10分ー15分余裕が有るので行ってみた。お菓子を差し上げ趣意書を見せてサインを依頼すると快く二人が書いてくれた。記念写真を皆で撮っていると冷たい水のボトルを1本づつくれた。この暑さと乾燥の中冷たい水はとても美味しく、気持ちの温かさを感じ別れた。さあ残り2キロ弱頑張って歩行。
予定より少し早く目的地に着いた。少し待ってバスの人となった。今日の歩行は砂漠の中をただひたすら歩くのとは違って、人との交流も出来一味違った歩行を楽しむことが出来た。残りの組をピックアップし、最終地点を何処にするかで、目立ち解りやすい所とし、低おう鋪のキロポスト3070となった。

これで私の歩行はすべて終わった。中国は巨大な国だ。わたしの足の裏には巨大なマメが残った。歩行の勲章だろうか。

この日はバスで嘉峪関を見学、ホテルにもどった。


  柳園をすぎて登り道へ  


  玉門鎮の街路樹の道


  5/29 3282キロポスト 右中村、左篠崎

 松本 明子

 初めての歩行思いがけなくユーラシアを歩く会の中国西部3歩行に参加させていただきました。
以前、この会の中国予備調査バス旅行でシルクロードを体験して砂漠に魅せられ、ここを歩けたらと念じておりましたら、 本当に実現してしまいました。
 自他共に認める運動音痴で、普段スポーツとは縁遠い生活をしているくせに、 好奇心と後先考えない無鉄砲でエントリーしてしまって、周りの皆さんはさぞはらはらされたことでしょう。
今回コーラス仲間の松本美和さんと参加しました。二人の最大の関心事は、靴選び、日焼け、ウェイトコントロールでした。

 靴選び
旅行に先立ってトレーニングを兼ねて東海道を歩くことを始めました。 スニーカーで2日連続歩いてみたところ、小指に豆ができてとても歩ける状態ではなくなりました。 靴に問題があるということで、旅にはトレッキングシューズとジョギングシューズを持参し、 両方を履き分けてなんとか最後まで歩き通しました。
しかし調べてみますと、両方の人差し指にトラブルの跡がありました。 帰ってから靴屋さんに聞いてみますと、歩くときは踵から着地し、外側を通って親指に抜けるのが正しい歩き方なのに、 親指がうまく使えていないために人差し指が代わりを果たし、負担をかけていたのだろうということでした。
足にあった靴とインソールで改善されるということですが、過酷な条件のなか長距離を歩く場合は、 自分の歩き方の癖を正しく理解して十分な対策をしておくことが大切だとつくづく思いました。

 日焼け防止大作戦
柳園で再会した先発の男性陣はどなたも真っ黒に日焼けしておられました。 女性の私たちはそんなことになったら大変です。行く前からビタミンCやコラーゲンを摂取し、 現地では日焼け止めクリームを何度も上塗りし、つば広帽子、サングラス、長袖の3点セットのほかにバンダナ、マスクで顔を覆い、 銀行強盗も真っ青の出で立ちです。
でも地元で道路工事に従事していた女性達も目だけ出して顔を全部布で覆っていましたから、女性の悩みはどちらも同じのようです。

 ウェイトコントロール
 ダイエットに勤しんでいた日頃の禁欲生活などどこ吹く風、食べて食べて食べまくったシルクロードでした。 市場には瑞々しく元気な野菜があふれ、肉も野菜も日本では味わえない味の濃さと力強さを感じ、毎回様々な味を堪能しました。
一生懸命歩いて、存分に食べた結果はどうだったかと言いますと、 体重+0.2キロ、体脂肪-0.2%でした。だいぶシェイプアップされた方もおられたと聞きますが、私の場合まぁよしとしましょうか。
おわり

 覆面の怪人?、じゃなくって”怪女”




高平 仁雄 

“ぞろめ祭”を楽しみに !

飽きるほどに真っ直ぐ伸びる国道312号線.  時たま遭遇する道路工事の関係者の他は
人にも動物にもそしてちよっとした植物にさえ出くわさない. 全長4650KMと聞かされたが呆れるばかりの長さだ。
大きなトラックが走り去り、風がやむと砂漠は全くの静寂に戻る。
無辺に拡がる広大な風景 将に”地球上に吾独り”の感。
群青の空に浮かぶ詩的な白い雲。   そのような中で何故か助かるような気になるのがキロポスト。 前に進む元気の出る源だ。
2006.5.27 A.M.11:05  やった!きたぞ”!   3333KM ポスト!
達者な歩きの久藤さんと13KM手前から”そこまで休まず頑張ろう”と励ましあってイチニッツ!イチニッツ!。  地球の果てまで続いてやるぞとばかり、見える限り糸を引いたごとく真っ直ぐ伸びたR312. このあたりは峠になるようで、歩いてきたほうが上り坂 これから先が緩やかな下りになっている。    辺り一面はなんとなく未だ見たことはないが月の表面の
雰囲気!?が漂う。そのような中、漫然と、4444KMポストは何時、誰が到達したのかな? そしてこれから進む
2222と11111KMポストは何時誰がゲットするのかな? と。 それぞれのXデーは ?
今回はその映えある栄光?を吾ら二人が誰も話題にしないうちに!手にしたのはラッキーであったが!?。
無事にこの312号線を歩き終えたら皆様と“ぞろめキロポスト祭“を祝いたいものです。


3333とは、朝から縁起がいい~~や!
 写真;高平


感謝とお詫び      東京都立大学OB 12期・(ゲスト)松見豊和

後発組を迎え、楽しい歓迎の夕べを過ごした翌日、後半の初日に申し訳ないことをしてしまいました。この日は2,3組に入る女性にベテランを配置した関係で最終組の5組は初参加の私たちゲストの二人になりました。
また携帯電話は昨日1台行方不明となった関係で2台となり、リーダーの1組目と女性を挟む3組に割り当てられました。4組目の残り10Km、安西の町外れからが悪夢の始まりで、迂回路が始まり、伴走車は時速20km以下のスピードになりました。
ガイドにも情報が入ってなく、何処まで続くか判らず40分走った所で、対向車に聞きました。トラックの運転手の答は「嘉峪関の先まで」。信じられずもう1台聞いても答は同じで呆然としました。
「こんな情報は聞いてない」と頭に来ましたが張さんを責めても仕方なく、電話での情報集めを頼みました。3カ所に電話を入れた結果、少なくとも玉門鎮まではずっと工事中だと判明しました。10:30になっており、この辺を4組の中継地点としても、ここから25 kmを歩き、その後玉門鎮まで100Kmを時速20kmの伴走車で行くと、ホテル着は22時過ぎになる事が予想されました。

そこで張さんの電話を借りてリーダーに事情を話すと、「むやみに距離を稼ぐだけがこの旅行の目的ではなく安全第一です。危険と思ったら戻って来なさい」との返事でした。

①あまりに理想的な国道を4日間歩いて、道がない状態で25km地点を設定する方法が判らなかった。
②312号線と迂回路は人の判別が出来ないほど離れた場所があった。
③電話もなく荒野に取り残される恐怖感。
④玉門鎮到着は夜の10時を過ぎる。
⑤日が落ちて悪路を走るのは危険 などと考え、リーダーの「安全第一」を真に受けて、その地点から車で戻りました。 4組の結城さんとは悪路に入る前の地点で出会い事情を話しましたが、「こんな状態は今まで何度もあり、このまま歩く」と言われ、 「電話も無く危険ですよ」といったら、張さんが「運転手の携帯借りるから、私の携帯を」 と渡したので一安心してリーダーのもとに急ぎました。
1組目の残りを歩きながら説明しましたが、200kmも工事が続くなんて信じてもらえず「自分で見てから判断する」と言われたが、それでも途中の街の安西で張さんを降ろし、ホテル探しを命じて、4組のピックアップにバスを走らせました。残り10kmがやはり1時間程掛かり、明日の出発点を決めました。

安西のホテルが取れたこともあり、全員で安西に戻り、17:40にホテルに入りました。

18:30からの予定変更のミーテングの際には、4組の健闘に皆さんの賞賛の言葉が続き、帰ってきた我々は身の置き所が無い状態で、「前回まではキロポストが無いのが普通で、今回の前半4日間が異常だ」とも言われました。
翌日は4組歩行で、中村リーダーと最終組に入ったお陰で、国道以外を歩く際の中継点の決め方や、舗装されて無い箇所の歩き方を勉強しました。この日の歩行97kmの中で最後の3kmを除いては、迂回路か砂利道の悪路だったので、安西にホテルを変えたことは良かったと再認識しました。

最終日は「もっと歩行を楽しみたい」とのメンバーの希望を入れて歩行距離を1組10km程に落としオアシスの国道を歩きましたが、故障者に代わって私がリーダーと再び最終組になった4組は最初から悪路でした。
楽しむ環境でもなく時速5kmのペースで先を急ぎ、途中で低窩鋪が今回の終点だと想定し、駅を目指しました。10kmを越え悪路は終わったが、低窩鋪の駅はまだで、中村さんは「確認し易い場所を今回の終了地点にしたいから、私は先に行く」と、半分走るような形でペースを上げられました。
見る見るうちに差は開き、皆さんの希望を入れて歩行距離を縮めた分、少しでも稼いで次に渡そうと歩いている姿を見て、改めて一昨日の引き返しが勿体無かったのだと感じました。
結局私は14kmでピックアップ、リーダーは15kmでバスに追いつかれたが、「あと2km頑張ってみて低窩鋪の駅に着かなければそこを終点にするので、バスは先に行き確認して下さい」と言い、歩き続けられました。結果は2km先の3070km地点の直前が低窩鋪駅で、ここが今回の終了地点になりました。2日間リーダーと共に歩き、定時連絡や各組の様子を確認、記録しながら歩く姿に触れられ貴重な体験をしました。

大きな迷惑をかけたにもかかわらず終始親切にしていただいたメンバーの方に助けられ、今回初参加の私にとって素晴らしい旅になったことを感謝するとともに、引き帰したお詫びをしたいと思います。

 今回はご迷惑をかけましたが、距離の不安も無くなり、悪路の歩き方も経験しましたので、会員の方の参加が少ない時は、再度参加させていただきたいと思っています


  5/25 3548キロポストで松見

結城 皖曠(ゆうききよひろ)

私は中国西部歩行の最初から連続3回参加させて頂きました。
今回はハミ~嘉峪関ということで、新彊ウイグル自治区から甘粛省に入り、漢民族と異民 族とのせめぎ合いの地、万里の長城の西の端、天下第一の砦にたどり着くというコースでし た。

前半はゴビ灘の中を真っ直ぐ東に延びる国道312号線のアスファルト道路をキロポス トを区切りに見ながらひたすら歩きました。後半に安西から道路工事区間に入り、キロポス トのない、ほこりだらけの自動車の迂回路を横目に見ながら工事中の道路を歩行者天国のよ うに歩くという、丁度中国西部1歩行で経験したような歩き方になりました。
伴走の車は迂 回路の悪路でスピードが出せず、時間の関係で5組10人の予定の距離は稼げませんでした。

 今回は荒井さんからの依頼で会計担当を引き受けました。
飲食では柳園の超市でビール 大瓶一本2元、ホテルの隣の食堂で昼食の牛肉麺が4.5元(1元は約14.5円)という、今まで にない安さを経験しました。
それに比べて休養日の観光地の入場料、乗り物代などの費用は 日本国内並みに高く、共通会計の大半は観光費用と各個人に配賦した小遣い250元という結< 果でした。観光ツアーとの費用のかかり方の違いを改めて実感させられました。


  5/25 今日の歩行完了
   左/結城、右/久藤

松本 美和(妹)

■初参加の不安は紙とともに
  敦煌行きのエアライン、翼の下には本物の砂漠が広がっていました。細い糸のように頼りない道、砂粒のような樹木、時折ガラス片のようにキラリと光る湖。窓から差し込む日差しの強さにはたじろぎました。「砂漠の一本道を毎日20数キロ歩きたい。こんなチャンス、二度とないかもしれないから」と家族を説得し、仕事のスケジュールをやりくりしてここまで来たけれど、自分の足で歩くのだと思って見下ろす砂漠は、まさに果てしない大地。どうしよう…。

 柳園行きのマイクロバスに揺られているときも、不安な気持ちを紛らわせるように、おかしなことを言っては松本お姉さんを笑わせていました。しばらく行くと「じゃ、この辺でトイレ休憩ネ。男性は道路のあっち、女性はこっち」と、ガイドの張さんがテキパキ仕切ります。おおっ、初めての青空トイレ!傘を広げなくても大丈夫そうなので、紙だけ持ってドキドキしながら砂漠に下りました。「その人の本当の肌の色はお尻っていうけど、焼けちゃうかな。赤くなって皮がむけたりした困るなぁ」なんて思いながら放ったおしめりは砂漠に吸い込まれ、紙はあっという間に吹き飛ばされました。広いなぁ。ぽっかり浮かんだ雲を見ながら、なんとかなるような気がしてきました。

■先発隊と合流
 柳園では、先発隊とゆで卵と暇つぶしの種が迎えてくれました。砂漠の太陽にこんがりとローストされた先発隊は、伸びやかでいいお顔。蜂ダンスなど今までのアクシデンを聞きながらも、この旅を皆さんが心から楽しんでいるのが伝わってきます。遅めのお昼を済ませ、町を案内してもらったり、お姉さんと買い物に出かけたり(筆談であんパン1個なんとか購入。2元なり)、暇つぶしの種を食べたりしているうちに晩ご飯に。

 ウエルカムディナーは、跡部晩ご飯部長のセレクトで、全10品。この時から、おしかけ記録係として、毎回全品撮影させていただき、食の仕事にも携わる私にとって、またとない貴重な資料になりました。広い心で見守っていただいたことに謝謝!(料理は食事の記録を参照)。健啖家の皆さんにつられて、遠慮なく箸を延ばしていたら、お姉さんが「いつものカロリー計算はいいの?」とつぶやきました。そっ、それは…(^^;。でも、おいしいし楽しいし、なにより箸が止まらない。明日からは消費できるからと、心おきなくいただくことにしました。

■歩行と出会い
 さて、いよいよ歩行1日目。跡部さんとのペアです。先発隊の顔には、砂漠の通行証明がクッキリ刻まれていたので、警戒レベルMAXのUVガードで出発。前日に、パリから走り続けているフランス人超長距離ランナーの話を聞き、ひと目でも会いたいと思っていたら、マイクロバスで追い越しました。もしかしたら握手ぐらいできるかも!と期待が膨らみます。旅先でいつも企んでいることのひとつが「走る」。ましてシルクロードとくれは、ぜひ走りたかったけど、荷物はあるし、歩行中にひとりだけ勝手なことはできないしと、今回ばかりは諦めていました。

 でも、幸運が束になってやってきました。意を決して、跡部さんに「1~2kmだけでも一緒に走りたい」と伝えたら快くOKして、セルジュさんの奥さんに英語で通訳してくれました。奥さんは心配していた私の荷物を車で運んでくれるといいます。なんという幸せ。最後の心配は、果たして彼についてゆけるかだったけど、1日70km毎日走るのでスピードはキロ6分ぐらいとのこと。最後の関門もクリア!セルジュさんはノッポでスレンダーなランナーで、ほとんど足音が聞こえない軽やかな走りでした。今までの走り旅のこと、健康管理や疲労回復、日焼けのこと、ランニングやこのビッグ企画を始めたきっかけなど、後から考えたら聞きたいことは山ほどあったけど、一緒に走れただけで夢見心地で、2kmはあっという間でした。

 最初からこんな調子なので、ペアの跡部さんは面食らったのではないかと思いますが、私は楽しくおしゃべりしながら、伸び伸び歩ききることができました。体調も足のコンディションもよく、たっぷり汗をかいた体にうれしい水分多めの晩ご飯をたっぷりいただいて、ぐっすり眠りました。

 翌日は、後発隊4人のメンバーに。工事中の道路でさまざまな出会いがありました。(交流の記録参照)。男性に立ち混じって力仕事をしている女性たちは、カメラをむけると恥ずかしそうに後ろを向いてしまう…。大和撫子は絶滅危惧種になりつつあるけれど、この地の女性たちは愛らしいなぁ。男性たちはとても気さくで、ポーズをとったり一緒に写ってくれたり。シワの中の笑顔が、なんともいえずいい。青いサイロで作業をしていたお兄さんや、散水車のお兄さんとの温かさも忘れられません。この日も体調よし。右のすねが少し痛いけど、ランニング中もたまに体験する軽いものだったので、クールダウンとマッサージを念入りにして就寝。

 歩行3日目、女性2人がいる私たちのグループは、中村隊長の計らいで、小鳥のさえずるオアシスを歩きます。私たちを自宅に招いてくれたファーマーに、「ぜひともゆっくりしていってくれ。これからご馳走も作るから」と筆談で伝えられましたが、さすがにそこまでの時間はないので、ありがたく辞退。日本の主婦としては、自慢の奥さんの家庭料理に興味津々だったけど。また、そのときはすっかり忘れていたのだけど、旅先でのもうひとつの企みは「歌う」。お礼に歌えばよかったなぁと、別れてから気づきました。「うさぎ追いし~」の『故郷』など、みんなですぐに歌える歌はたくさんあるので、もし再び参加できるチャンスがあったら、歌での交流もぜひ実現したいです。その先では、中国式オープンカフェに集まっていた若い人たちと出会いました。タバコやキャンディーを差し出したら、よく冷えたミネラルウォーターをくれて、ほてったほっぺたにくっつけながら歩きました。

3日間の歩行中、誰に出会っても、見ず知らずの私たちをもてなしの心で迎えてくれたのが印象的でした。うっすらとした警戒心のなかで暮らすのが当たり前の日々の中、シルクロードで出会った笑顔や善意は、ランニング中に贈られるボランティアや沿道の人々の励ましのよう。この先何年かたって、「もうダメ」と音を上げそうになったとき、きっと優しく支えて背中を押してくれると確信する出会いに満ちた旅でした。

 そして、出会い番外編。鳴沙山で私を乗せてくれたラクダの、賢く人なつこかったのには驚きました。話しかけるとまるで応えるかのように頭を下げたり、首を動かしたり…。松見さんのDVDを見て、今でも懐かしんでいます。

■健康オタクの自己分析
超長距離ランナー・セルジュさんの装備と自分の体験から、1年で最も日差しの強いこの時期、ビジュアルは二の次にしてサングラスと覆面・手甲で目と皮膚を保護し、サプリメントで体の内側からも心がけた紫外線対策は、疲労の軽減や故障の予防に効果が大きかったようです。最近の研究では、紫外線によって発生する活性酸素のダメージは、皮膚表面の日焼けにとどまらず、免疫力や自己治癒力の低下、老化の促進を招き、内臓にも負担がかかるといわれています。また、日焼け止めは、塗り方や塗るタイミングによっても、効果が大きく違うので、この体験は今後のウォーキングやランニングに生かすつもりです。

 また、これだけの距離を歩く時には、バスから下りてすぐ歩き出すのではなく、ストレッチなどで体を充分にほぐして可動域を広げ、下半身の疲れを軽減する上半身のストレッチも行うべきでした。ウォームアップ同様、歩行後のストレッチやマッサージ、アイシングで、疲労回復を助けるのも忘れずに。今回、負担の少ないコースを3日間歩いただけだったので、全く故障もなく、これらの点に無頓着になってしまったけれど、いつでもどこでも当たり前のことをちゃんとこなせなくては、いつかツケが回ってくると反省しました。

 一方、8日間元気に過ごせた要因としては、適度な給水、バランスのとれた食事、ほどよい運動量と休息(絶妙なスケジュール)、冷房が効き過ぎないホテルやマイクロバスなど、いわゆるパック旅行などより数段恵まれた条件のおかげと、この旅の配慮の細やかさに感心しています。特に、夕食は多種多様な食材と味、そして愉快なおしゃべりに、毎晩心もお腹も満ち足りて幸せでした。そして、あれほど食べたのに、ウエイト-1.2kgには感激しました。シルクロードダイエット?!万歳。

■旅を終えて
 自分でも説明のつかない何かに惹かれ、後先考えず飛び入り参加させていただいた「ユーラシアを歩く旅」は、今までの旅という概念を突き破る素晴らしさでした。チームワーク抜群の皆さんに加えていただき、自分の足で大地を踏みしめ大空や自然を全身で感じ、人々の日常の中で言葉を超える出会いをし、そしてまさに現地の食を堪能できたこと。予想外のアクシデントも含め、今や貴重となった「旅の原型」に近い体験の数々によって、確実に自分の中の何かが変わりました。そして、私もいつか、このような旅を伝える橋渡し役になれたらと願っています。

久藤 宣機

 初参加で皆さんに迷惑を掛けない様にと緊張しました。案の定、ウルムチのホテル朝食で生野菜を食べたのが悪かった所為か、下痢をしました。幸い一日で止まり、歩行には差し支えなかったものの、心配を掛けてしまいました。

 今までに一日20Km以上歩いたことはあったものの、連日歩行の経験は初めてでしたが、足の方も何とか持ってくれて安心しました。本当に楽しい歩行が出来ました。

 番外見学で高昌故城、べせクリク千仏道、交河故城、火焔山(孫悟空)、嘉峪関(第一暾、中村注;とんの漢字なし土偏に敦と書く)、莫高窟、鳴沙山(月牙泉)に行けた事は冥土の土産が出来ました。
  特に、万里の長城の西の果てである嘉峪関の故城は感激でした。城から祁連山脈の雪の峰に向かって延々と続く万里の長城を眺めた時、600年前も同じ景色だったろうか?もしかしたら、砂漠でなく、草原だったかも知れないと感じました。
 それにしても、600年以上前の建物が当時のまま残っていることの驚きは格別でした。

20年前のNHKのシルクロードを引っ張り出して読み直して、改めて感激しております。



 世紀の思い出
   超長距離ランナーセルジュさん
    との出会い